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虾僮尸逐侯鞮單于適永平二年立

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虾僮尸逐侯鞮單于適永平二年立

虾僮尸逐侯鞮單于適が、永平二年(59)に立った。

五年冬北匈奴六七千騎入于五原塞遂寇雲中至原陽南單于擊卻之西河長史馬襄赴救虜乃引去

五年(62)冬、北匈奴の六、七騎が五原塞に入った。遂に雲中を冦し、原陽に至る。南単于がこれを撃却した。西河長史馬襄が救援に赴き、虜(敵)は乃ち引き去った。

單于適立四年薨單于莫子蘇立是為丘除車林鞮單于數月復薨單于適之弟長立

単于適が立って四年で薨した。単于莫の子の蘇が立った。是が丘除車林鞮単于と為った。数月して復(また)薨し、単于適の弟の長が立った。

胡邪尸逐侯鞮單于長永平六年立時北匈奴猶盛數寇邊朝廷以為憂

胡邪尸逐侯鞮單于長が永平六年(63)に立った。時に北匈奴は猶(なお)盛んで、数(たびたび)辺境を冦し、朝廷は憂(うれい)を為すを以てした。

會北單于欲合巿遣使求和親顯宗冀其交通不復為寇乃許之

会(このとき)、北単于が市を合わせることを欲し、使者を遣わして和親を求めさせた。顯宗(後漢明帝 在位57~75)は其の交通、復(また)冦を為さないことを冀(こいねが)い、乃ちこれを許(ききいれる)した。

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