秉上言昔武帝單極天下欲臣虜匈奴未遇天時事遂無成
耿秉は上言した、「昔、武帝が天下を単極(一つにきわめる)し、匈奴を臣虜(家来)にすることを欲したが、未だ天時に遇(あ)わず、事は遂に成されなかった。
宣帝之世會呼韓來降故邊人獲安中外為一生人休息六十餘年
宣帝(在位前74~前48)の世に、会(ちょうど)、呼韓が来降した。故(ゆえ)に辺人は安寧を獲り、中も外も一つに為った。人に休息を生み六十余年。
及王莽篡位變更其號耗擾不止單于乃畔光武受命復懷納之緣邊壞郡得以還復
王莽が帝位を簒奪するに及んで(8年)、その号を変更し、耗擾(おとろえみだれる)は止まらず。単于はそこで、畔(そむく)した。光武帝(在位25~57)が命を受けると、復(また)これに懐納(うけいれる)し、縁辺の壊れた郡は、還復を以てするを得た。
烏桓鮮卑咸脅歸義威鎮西夷其效如此今幸遭天授北虜分爭以夷伐夷國家之利宜可聽許
烏桓、鮮卑は咸(あまねく)脅(おび)え、義に帰した。威は西夷を鎮(しず)めた。その効は此れの如く。今、幸いにも天授に遭い、北虜(北匈奴)は分かれて争い、夷を以て夷を伐した。国家の利は宜しく聴許(ききいれる)するべきである。」と。
秉因自陳恩分當出命效用太后從之
耿秉は因りて自ら恩を陳(ならべる)し、分は当(まさ)に命を出して効用するべしと。太后はこれに従った。
永元元年以秉為征西將軍與車騎將軍竇憲率騎八千與度遼兵及南單于眾三萬騎出朔方擊北虜大破之
永元元年(89)、耿秉を以て征西将軍と為し、車騎将軍竇憲と騎八千を率い、度遼兵及び南単于の衆三万騎と、朔方に出でて北虜(北匈奴)を撃ち、これを大破した。
北單于奔走首虜二十餘萬人事已具竇憲傳
北単于は奔走した。首虜は二十余万人。事は已(すでに)、竇憲伝に具(つぶさ)にする。
耿秉は上言した、「昔、武帝が天下を単極(一つにきわめる)し、匈奴を臣虜(家来)にすることを欲したが、未だ天時に遇(あ)わず、事は遂に成されなかった。
宣帝之世會呼韓來降故邊人獲安中外為一生人休息六十餘年
宣帝(在位前74~前48)の世に、会(ちょうど)、呼韓が来降した。故(ゆえ)に辺人は安寧を獲り、中も外も一つに為った。人に休息を生み六十余年。
及王莽篡位變更其號耗擾不止單于乃畔光武受命復懷納之緣邊壞郡得以還復
王莽が帝位を簒奪するに及んで(8年)、その号を変更し、耗擾(おとろえみだれる)は止まらず。単于はそこで、畔(そむく)した。光武帝(在位25~57)が命を受けると、復(また)これに懐納(うけいれる)し、縁辺の壊れた郡は、還復を以てするを得た。
烏桓鮮卑咸脅歸義威鎮西夷其效如此今幸遭天授北虜分爭以夷伐夷國家之利宜可聽許
烏桓、鮮卑は咸(あまねく)脅(おび)え、義に帰した。威は西夷を鎮(しず)めた。その効は此れの如く。今、幸いにも天授に遭い、北虜(北匈奴)は分かれて争い、夷を以て夷を伐した。国家の利は宜しく聴許(ききいれる)するべきである。」と。
秉因自陳恩分當出命效用太后從之
耿秉は因りて自ら恩を陳(ならべる)し、分は当(まさ)に命を出して効用するべしと。太后はこれに従った。
永元元年以秉為征西將軍與車騎將軍竇憲率騎八千與度遼兵及南單于眾三萬騎出朔方擊北虜大破之
永元元年(89)、耿秉を以て征西将軍と為し、車騎将軍竇憲と騎八千を率い、度遼兵及び南単于の衆三万騎と、朔方に出でて北虜(北匈奴)を撃ち、これを大破した。
北單于奔走首虜二十餘萬人事已具竇憲傳
北単于は奔走した。首虜は二十余万人。事は已(すでに)、竇憲伝に具(つぶさ)にする。