二年春鴻遷大鴻臚以定襄太守皇甫棱行度遼將軍
二年(90)春、鴻は大鴻臚に遷り、定襄太守皇甫棱を以て度遼将軍を行った。
南單于復上求滅北庭於是遣左谷蠡王師子等將左右部八千騎出雞鹿塞中郎將耿譚遣從事將護之
南単于は復(また)、北庭を滅ぼすことを上求した。是(ここ)に於いて、左谷蠡王師子らを遣わして、左右部の八千騎を将(ひきいる)して、雞鹿の塞に出でさせた。中郎将耿譚は従事を遣わしてこれを将護(たすけまもる)させた。
至涿邪山乃留輜重分為二部各引輕兵兩道襲之
涿邪山に至り、乃(そこで)、輜重(軍用の品物)を留めた。分かれて二部を為(つくる)し、各々軽兵を引いて両道(二つの道)がらこれを襲った。
左部北過西海至河雲北右部從匈奴河水西繞天山南度甘微河二軍俱會夜圍北單于
左部は北に西海を過ぎて河雲北に至る。右部は匈奴河水西より天山を繞(まとう)し、南は甘微河を渡り、二軍は俱(ともに)会し、夜に北単于を包囲した。
大驚率精兵千餘人合戰單于被創墯馬復上將輕騎數十遁走僅而免脫
大いに驚き、精兵千余人を率いて合戦した。単于は創(きず)を被り、馬から墯(おちる)して復(また)上がり、軽騎数十を将(ひきいる)して遁走した。僅(かろうじて)にして免脱(のがれる)した。
得其玉璽獲閼氏及男女五人斬首八千級生虜數千口而還
其の玉璽を得た。閼氏(后)及び男女五人を獲た。斬首すること八千級、生虜(いけどり)すること数千口にして還った。
是時南部連剋獲納降黨眾最盛領戶三萬四千口二十三萬七千三百勝兵五萬一百七十
是(この)時、南部は連剋(連勝)して、納降を獲た。党衆は最も盛んで、領戸三万四千、人口二十三万七千三百、勝兵五万一百七十。
故從事中郎將置從事二人耿譚以新降者多上從事十二人
故(ゆえ)に従事中郎将は従事二人を置いた。耿譚は新降者が多いのを以て、従事十二人を上増した。
二年(90)春、鴻は大鴻臚に遷り、定襄太守皇甫棱を以て度遼将軍を行った。
南單于復上求滅北庭於是遣左谷蠡王師子等將左右部八千騎出雞鹿塞中郎將耿譚遣從事將護之
南単于は復(また)、北庭を滅ぼすことを上求した。是(ここ)に於いて、左谷蠡王師子らを遣わして、左右部の八千騎を将(ひきいる)して、雞鹿の塞に出でさせた。中郎将耿譚は従事を遣わしてこれを将護(たすけまもる)させた。
至涿邪山乃留輜重分為二部各引輕兵兩道襲之
涿邪山に至り、乃(そこで)、輜重(軍用の品物)を留めた。分かれて二部を為(つくる)し、各々軽兵を引いて両道(二つの道)がらこれを襲った。
左部北過西海至河雲北右部從匈奴河水西繞天山南度甘微河二軍俱會夜圍北單于
左部は北に西海を過ぎて河雲北に至る。右部は匈奴河水西より天山を繞(まとう)し、南は甘微河を渡り、二軍は俱(ともに)会し、夜に北単于を包囲した。
大驚率精兵千餘人合戰單于被創墯馬復上將輕騎數十遁走僅而免脫
大いに驚き、精兵千余人を率いて合戦した。単于は創(きず)を被り、馬から墯(おちる)して復(また)上がり、軽騎数十を将(ひきいる)して遁走した。僅(かろうじて)にして免脱(のがれる)した。
得其玉璽獲閼氏及男女五人斬首八千級生虜數千口而還
其の玉璽を得た。閼氏(后)及び男女五人を獲た。斬首すること八千級、生虜(いけどり)すること数千口にして還った。
是時南部連剋獲納降黨眾最盛領戶三萬四千口二十三萬七千三百勝兵五萬一百七十
是(この)時、南部は連剋(連勝)して、納降を獲た。党衆は最も盛んで、領戸三万四千、人口二十三万七千三百、勝兵五万一百七十。
故從事中郎將置從事二人耿譚以新降者多上從事十二人
故(ゆえ)に従事中郎将は従事二人を置いた。耿譚は新降者が多いのを以て、従事十二人を上増した。