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Channel: 倭人伝を解く
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永初三年夏漢人韓

永初三年夏漢人韓隨南單于入朝既還說南單于云關東水潦人民飢餓死盡可擊也 永初三年(109)夏、漢人韓が南単于に隋して入朝した。既に還ってから、南単于に説いて云った、「関東は水潦(おおみず)になり、人民は飢餓して死尽(死ぬ)しており、撃つべきである」と。 單于信其言遂起兵反畔攻中郎將耿种於美稷秋王彪卒...

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元初元年

元初元年夔免以烏桓校尉遵為度遼將軍遵皇太后之從弟故始為真將軍焉 元初元年(114)、夔が免ぜられて、烏桓校尉遵を以て度遼将軍に為した。遵は、皇太后の従弟(年下のいとこ)で、故(ゆえ)に始めは真将軍に為った。 四年逢侯為鮮卑所破部眾分散皆歸北虜五年春逢侯將百餘騎亡還詣朔方塞降遵奏徙逢侯於潁川郡...

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烏稽侯尸逐鞮單于

烏稽侯尸逐鞮單于拔延光三年立 烏稽侯尸逐鞮単于抜が、延光三年(124)に立った。 夏新降一部大人阿族等遂反畔脅呼尤徽欲與俱去 夏、新降の一部の大人の阿族らが遂に反畔(むほん)して、呼尤徽を脅かして俱(ともに)去ることを欲した。 呼尤徽曰我老矣受漢家恩寧死不能相隨眾欲殺之有救者得免...

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單于拔立四年

單于拔立四年薨弟休利立 単于抜は立って四年で薨し、弟の休利が立った。 去特若尸逐就單于休利永建三年立 去特若尸逐就單于休利は永建三年(128)に立った。 四年龐參遷大鴻臚以東平相宋漢代為度遼將軍 四年(129)、龐参が大鴻臚に遷り、東平相宋漢を以て代わり度遼将軍と為した。 陽嘉二年漢遷太僕以烏桓校尉耿曄代為度遼將軍 陽嘉二年(133)、宋漢が太僕に遷って、烏桓校尉耿曄を以て代わって度遼将軍と為した。...

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龜以單于

龜以單于本不能制下逼迫之單于及其弟左賢王皆自殺 陳亀は 単于は本(もとより)、制下することができないのを以て、之に逼迫(さしせまる)し、単于及び其の弟の左賢王が皆、自殺した。 單于休利立十三年龜又欲徙單于近親於內郡而降者遂更狐疑龜坐下獄免...

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如此則醜類

如此則醜類可服國家無事矣帝從之乃詔續招降畔虜 此れの如くすれば、醜累は服すことができ、国家に事無し」と。帝は之に従った。乃ち馬続に詔(みことのり)して畔虜を招降(降伏をすすめる)させた。 商又移書續等曰中國安寧忘戰日久良騎野合交鋒接矢決勝當時戎狄之所長而中國之所短也...

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秋句龍吾斯等

秋句龍吾斯等立句龍王車紐為單于 秋、句龍吾斯らが句龍王車紐を立てて単于と為した。 東引烏桓西收羌戎及諸胡等數萬人攻破京兆虎牙營殺上郡都尉及軍司馬遂寇掠并涼幽冀四州 東に烏桓を引き、西に羌戎及び諸胡ら数万人を収め、京兆虎牙営を攻め破り、上郡都尉及び軍司馬を殺し、遂に并、涼、幽、冀の四州を寇掠した。 乃徙西河治離石上郡治夏陽朔方治五原...

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漢安元年秋

漢安元年秋吾斯與薁鞮臺耆且渠伯等復掠并部 漢安元年(142)秋、吾斯は薁鞮台耆、且渠伯徳らと復(また)并部を掠めた。 呼蘭若尸逐就單于兜樓儲先在京師漢安二年立之 呼蘭若尸逐就單于兜楼儲は先に京師(内モンゴル自治区ウランチャフ市辺り?)に在り、漢安二年(143)に立った。 天子臨軒大鴻臚持節拜授璽綬引上殿賜青蓋駕駟鼓車安車駙馬騎玉具刀劍什物給綵布二千匹 天子が見(まみえる...

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單于兜樓儲立

單于兜樓儲立五年薨 單于兜樓儲が立って五年で薨じた。 伊陵尸逐就單于居車兒建和元年立 伊陵尸逐就單于居車兒は、建和元年(147)に立った。 至永壽元年匈奴左薁鞮臺耆且渠伯等復畔寇鈔美稷安定屬國都尉張奐擊破降之事已具奐傳...

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單于呼徵光和元年立

單于呼徵光和元年立 単于呼徴は光和元年(178)に立った。 二年中郎將張脩與單于不相能脩擅斬之更立右賢王羌渠為單于脩以不先請而擅誅殺檻車徵詣廷尉抵罪 二年(179)、中郎将張脩は単于と相能(互いにたえしのぶ)せず、張脩は擅(かってに)之を斬った。更に右賢王羌渠を立てて単于と為した。張脩は先に請わずにして擅(かってに)誅殺したのを以て、檻車徴(檻車でよびよせられる)で廷尉に詣で、罪に抵(ふれる)した。...

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持至尸逐侯單于於扶羅

持至尸逐侯單于於扶羅中平五年立 持至尸逐侯単于於扶羅が中平五年(188)に立った。 國人殺其父者遂畔共立須卜骨都侯為單于而於扶羅詣闕自訟會靈帝崩天下大亂單于將數千騎與白波賊合兵寇河內諸郡...

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論曰

論曰漢初遭冒頓凶黠種眾強熾 論曰く、「漢は初(以前)、冒頓の凶黠(よこしまでわるがしこい)、種衆の強熾(強く盛ん)に遭った。 高祖威加四海而窘平城之圍 高祖の威は四海に加えられ、而して平城の包囲に窘(苦しむ)した。 太宗政鄰刑措不雪憤辱之恥 太宗の政は刑措に鄰(近い)し、憤辱の恥を雪(すす)がず。...

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龍駕帝服

龍駕帝服鳴鍾傳鼓於清渭之上南面而朝單于朔易無復匹馬之蹤六十餘年矣 龍駕帝服して清渭の上に鳴鍾伝鼓し、南面して単于(王)を朝(政治をとる)し、朔、易には、復匹の馬の蹤(あしあと)の無くなること六十余年。 後王莽陵篡擾動戎夷續以更始之亂方夏幅裂自是匈奴得志狼心復生乘侵佚害流傍境...

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天子總攬

天子總攬群策和而納焉乃詔有司開北鄙擇肥美之地量水草以處之 天子は郡策を総攬し、和して納めた。乃ち、有司に詔して北鄙を開き、肥美の地を択(えらぶ)し、水草を量り、之に処(住む)するを以てした。 馳中郎之使盡法度以臨之制衣裳備文物加璽紱之綬正單于之名 中郎の使いを馳せ、法度を尽くして之に臨むを以てし、衣裳を制し、文物を備え、璽紱の綬を加え、単于の名を正した。...

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若因其時埶

若因其時埶及其虛曠還南虜於陰山歸河西於內地上申光武權宜之略下防戎羯亂華之變使耿國之筭不謬於當世袁安之議見從於後王平易正直若此其弘也 若し、其の時勢に因りて、其の虛曠(から)に及び、南虜を陰山に還し、河西を内地に帰し、上は光武権宜(一時のまにあわせの解決策)の略を申し、下は戎羯乱華の変を防ぎ、耿国の筭(はかりごと)をして、当世に於いて不謬(あやまらない)し、...

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