烏稽侯尸逐鞮單于拔延光三年立
烏稽侯尸逐鞮単于抜が、延光三年(124)に立った。
夏新降一部大人阿族等遂反畔脅呼尤徽欲與俱去
夏、新降の一部の大人の阿族らが遂に反畔(むほん)して、呼尤徽を脅かして俱(ともに)去ることを欲した。
呼尤徽曰我老矣受漢家恩寧死不能相隨眾欲殺之有救者得免
呼尤徽は曰く、「我は老いており、漢家の恩を受け、安寧に死にたい。相随することはできない」と。衆はこれを殺すことを欲したが、救う者が有って免れるを得た。
阿族等遂將妻子輜重亡去中郎將馬翼遣兵與胡騎追擊破之斬首及自投河死者殆盡獲馬牛羊萬餘頭
阿族らは、遂に妻子、輜重を将(ひきいる)して、亡去(逃げ去る)した。中郎將馬翼が兵を遣わして胡騎とともに追撃し、之を破った。斬首、及び自ら河に投じて死んだ者で殆ど尽くされ、馬牛羊万余頭を獲った。
冬法度卒四年漢陽太守傅眾代為將軍其冬傅眾復卒永建元年以遼東太守龐參代為將軍
冬、法度が卒(死ぬ)した。四年(125)、漢陽太守傅衆が代わって将軍に為った。その冬、傅衆が復(また)卒(死ぬ)した。永建元年(126)、遼東太守龐参を以て代わって将軍に為した。
先是朔方以西障塞多不脩復鮮卑因此數寇南部殺漸將王
是(ここ)に先んじて、朔方以西の障塞は多くが修復しておらず、鮮卑は此れに由りて数(たびたび)南部を寇し、漸將王を殺した。
單于憂恐上言求復障塞順帝從之乃遣黎陽營兵出屯中山北界置緣邊諸郡兵列屯塞下教習戰射
単于は憂い恐れ、上言して障塞を復することを求めた。順帝は之に従った。乃(そこで)、黎陽営兵を遣わし中山北界に出でて屯させた。縁辺諸郡兵を増置し、塞の下に列屯させ、戦射を教習させた。
烏稽侯尸逐鞮単于抜が、延光三年(124)に立った。
夏新降一部大人阿族等遂反畔脅呼尤徽欲與俱去
夏、新降の一部の大人の阿族らが遂に反畔(むほん)して、呼尤徽を脅かして俱(ともに)去ることを欲した。
呼尤徽曰我老矣受漢家恩寧死不能相隨眾欲殺之有救者得免
呼尤徽は曰く、「我は老いており、漢家の恩を受け、安寧に死にたい。相随することはできない」と。衆はこれを殺すことを欲したが、救う者が有って免れるを得た。
阿族等遂將妻子輜重亡去中郎將馬翼遣兵與胡騎追擊破之斬首及自投河死者殆盡獲馬牛羊萬餘頭
阿族らは、遂に妻子、輜重を将(ひきいる)して、亡去(逃げ去る)した。中郎將馬翼が兵を遣わして胡騎とともに追撃し、之を破った。斬首、及び自ら河に投じて死んだ者で殆ど尽くされ、馬牛羊万余頭を獲った。
冬法度卒四年漢陽太守傅眾代為將軍其冬傅眾復卒永建元年以遼東太守龐參代為將軍
冬、法度が卒(死ぬ)した。四年(125)、漢陽太守傅衆が代わって将軍に為った。その冬、傅衆が復(また)卒(死ぬ)した。永建元年(126)、遼東太守龐参を以て代わって将軍に為した。
先是朔方以西障塞多不脩復鮮卑因此數寇南部殺漸將王
是(ここ)に先んじて、朔方以西の障塞は多くが修復しておらず、鮮卑は此れに由りて数(たびたび)南部を寇し、漸將王を殺した。
單于憂恐上言求復障塞順帝從之乃遣黎陽營兵出屯中山北界置緣邊諸郡兵列屯塞下教習戰射
単于は憂い恐れ、上言して障塞を復することを求めた。順帝は之に従った。乃(そこで)、黎陽営兵を遣わし中山北界に出でて屯させた。縁辺諸郡兵を増置し、塞の下に列屯させ、戦射を教習させた。