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Channel: 倭人伝を解く
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元初元年

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元初元年夔免以烏桓校尉遵為度遼將軍遵皇太后之從弟故始為真將軍焉

元初元年(114)、夔が免ぜられて、烏桓校尉遵を以て度遼将軍に為した。遵は、皇太后の従弟(年下のいとこ)で、故(ゆえ)に始めは真将軍に為った。

四年逢侯為鮮卑所破部眾分散皆歸北虜五年春逢侯將百餘騎亡還詣朔方塞降遵奏徙逢侯於潁川郡

四年(117)、逢侯は鮮卑の破る所と為った。部衆は分散し、皆、北虜に帰った。五年(118)春、逢侯は百余騎を将(ひきいる)して亡還(逃げかえる)し、朔方の塞に詣でて降伏した。遵は逢侯を潁川郡に奏徙(進め移す)した。

建光元年遵免復以耿夔代為度遼將軍

建光元年(121)、遵が免ぜられて、復(また)、耿夔を以て代わり度遼将軍に為した。

時鮮卑寇邊夔與溫禺犢王呼尤徽將新降者連年出塞討擊鮮卑還復各令屯列衝要而耿夔徵發煩劇新降者皆悉恨謀畔

時に鮮卑が辺を寇し、耿夔は溫禺犢王呼尤徽とともに、新降者を将(ひきいる)して連年(毎年)塞に出でて、鮮卑を討撃した。還って、復(また)、各々、衝要に屯列させた。而して耿夔は徴発すること煩劇(はなはだしい)で、新降者は皆、悉く恨んで畔(そむく)を謀(はか)った。

單于檀立二十七年薨弟拔立耿夔復免以太原太守法度代為將軍

単于檀が立って二十七年で薨し、弟の抜が立った。耿夔は復(また)免ぜられて、太原太守法度を以て代わり将軍に為した。

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