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永初三年夏漢人韓

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永初三年夏漢人韓隨南單于入朝既還說南單于云關東水潦人民飢餓死盡可擊也

永初三年(109)夏、漢人韓が南単于に隋して入朝した。既に還ってから、南単于に説いて云った、「関東は水潦(おおみず)になり、人民は飢餓して死尽(死ぬ)しており、撃つべきである」と。

單于信其言遂起兵反畔攻中郎將耿种於美稷秋王彪卒

単于はその言を信じ、遂に兵を起こして反畔(むほん)し、中郎将耿种を美稷に於いて攻めた。秋、王彪が卒(しぬ)した。

冬遣行車騎將軍何熙副中郎龐雄擊之

冬、車騎將軍何熙、副中郎龐雄を遣行(行かせる)し、これを撃った。

四年春檀遣千餘騎寇常山中山以西域校尉梁慬行度遼將軍與遼東太守耿夔擊破之

四年(110)春、檀は千余騎を遣わして、常山、中山を寇した。西域校尉梁慬を以て度遼将軍を行わせ、遼東太守耿夔とともにこれを撃破した。

事已具慬夔傳單于見諸軍並進大恐怖顧讓韓曰汝言漢人死盡今是何等人也乃遣使乞降許之

事は已(すで)に慬、夔伝に具(つぶさ)にする。単于は諸軍が並び進んでいるのを見て、大いに恐怖した。顧みて韓を譲(しかる)して曰く、「汝は言った、漢人は死尽したと。今、是れは何等人(なにびと)なのか?」と。乃(そこで)、使者を遣わして降伏を乞い、これを許(ききいれる)された。

單于脫帽徒跣對龐雄等拜陳道死罪於是赦之遇待如初乃還所鈔漢民男女及羌所略轉賣入匈奴中者合萬餘人

単于は脱帽、徒跣(はだし)で、龐雄らに対し拝陳し、死罪を道(いう)した。是(ここ)に於いてこれを赦(ゆるす)し、初(以前)の如くに遇待した。乃ち、鈔した所の漢民の男女、及び羌が略し転売した所の匈奴の中に入った者、合わせて万余人を還した。

五年梁慬免以雲中太守耿夔行度遼將軍

五年(111)、梁慬が免ぜられ、雲中太守耿夔を以て度遼将軍を行わせた。

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