單于拔立四年薨弟休利立
単于抜は立って四年で薨し、弟の休利が立った。
去特若尸逐就單于休利永建三年立
去特若尸逐就單于休利は永建三年(128)に立った。
四年龐參遷大鴻臚以東平相宋漢代為度遼將軍
四年(129)、龐参が大鴻臚に遷り、東平相宋漢を以て代わり度遼将軍と為した。
陽嘉二年漢遷太僕以烏桓校尉耿曄代為度遼將軍
陽嘉二年(133)、宋漢が太僕に遷って、烏桓校尉耿曄を以て代わって度遼将軍と為した。
永和元年曄病徵以護羌校尉馬續代為度遼將軍
永和元年(136)、耿曄は病で懲(やめる 徴=懲?))し、護羌校尉馬續を以て代わって度遼将軍と為した。
五年夏南匈奴左部句龍王吾斯車紐等背畔率三千餘騎寇西河因復招誘右賢王合七八千騎圍美稷殺朔方代郡長史
五年(140)夏、南匈奴左部句龍王吾斯、車紐らが背畔(そむく)し、三千余騎を率いて西河を寇し、因りて復(また)、右賢王を招き誘い、合わせて、七、八千騎が美稷を包囲し、朔方郡、代郡の長史を殺した。
馬續與中郎將梁並烏桓校尉王元發緣邊兵及烏桓鮮卑羌胡合二萬餘人掩擊破之
馬続は中郎将梁並、烏桓校尉王元と縁辺兵及び烏桓、鮮卑、羌胡、合わせて二万余人を発して、掩擊(不意打ちをする)し之を破った。
吾斯等遂更屯聚攻沒城邑天子遣使責讓單于開以恩義令相招降單于本不豫謀乃脫帽避帳詣並謝罪
吾斯らは遂に聚を更屯し、城邑を攻没した。天子は使者を遣わして単于を責讓(せめる)し、開(さとす)するに恩義を以てし、招降(敵を説得して降伏をすすめること)すること相(みちびく)させた。単于は本(もとより)謀(はかりごと)に豫(関与する)しておらず、乃ち脱帽して帳(陣営)を避(離れる)し、梁並に詣でて謝罪した。
並以病徵五原太守陳龜代為中郎將
梁並は病を以て懲(やめる 徴=懲?)し、五原太守陳亀が代わって中郎将と為った。
単于抜は立って四年で薨し、弟の休利が立った。
去特若尸逐就單于休利永建三年立
去特若尸逐就單于休利は永建三年(128)に立った。
四年龐參遷大鴻臚以東平相宋漢代為度遼將軍
四年(129)、龐参が大鴻臚に遷り、東平相宋漢を以て代わり度遼将軍と為した。
陽嘉二年漢遷太僕以烏桓校尉耿曄代為度遼將軍
陽嘉二年(133)、宋漢が太僕に遷って、烏桓校尉耿曄を以て代わって度遼将軍と為した。
永和元年曄病徵以護羌校尉馬續代為度遼將軍
永和元年(136)、耿曄は病で懲(やめる 徴=懲?))し、護羌校尉馬續を以て代わって度遼将軍と為した。
五年夏南匈奴左部句龍王吾斯車紐等背畔率三千餘騎寇西河因復招誘右賢王合七八千騎圍美稷殺朔方代郡長史
五年(140)夏、南匈奴左部句龍王吾斯、車紐らが背畔(そむく)し、三千余騎を率いて西河を寇し、因りて復(また)、右賢王を招き誘い、合わせて、七、八千騎が美稷を包囲し、朔方郡、代郡の長史を殺した。
馬續與中郎將梁並烏桓校尉王元發緣邊兵及烏桓鮮卑羌胡合二萬餘人掩擊破之
馬続は中郎将梁並、烏桓校尉王元と縁辺兵及び烏桓、鮮卑、羌胡、合わせて二万余人を発して、掩擊(不意打ちをする)し之を破った。
吾斯等遂更屯聚攻沒城邑天子遣使責讓單于開以恩義令相招降單于本不豫謀乃脫帽避帳詣並謝罪
吾斯らは遂に聚を更屯し、城邑を攻没した。天子は使者を遣わして単于を責讓(せめる)し、開(さとす)するに恩義を以てし、招降(敵を説得して降伏をすすめること)すること相(みちびく)させた。単于は本(もとより)謀(はかりごと)に豫(関与する)しておらず、乃ち脱帽して帳(陣営)を避(離れる)し、梁並に詣でて謝罪した。
並以病徵五原太守陳龜代為中郎將
梁並は病を以て懲(やめる 徴=懲?)し、五原太守陳亀が代わって中郎将と為った。