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持至尸逐侯單于於扶羅

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持至尸逐侯單于於扶羅中平五年立

持至尸逐侯単于於扶羅が中平五年(188)に立った。

國人殺其父者遂畔共立須卜骨都侯為單于而於扶羅詣闕自訟會靈帝崩天下大亂單于將數千騎與白波賊合兵寇河內諸郡

国人の其の父を殺した者が遂に畔し、須卜骨都侯を共立して単于と為した。而して、於扶羅は闕に詣で、自ら訟(うったえる)した。会(このとき)霊帝が崩じ、天下は大乱した。単于は数千騎を将(ひきいる)して、白波賊と兵を合わせ、河内の諸郡を寇した。

時民皆保聚鈔掠無利而兵遂挫傷復欲歸國國人不受乃止河東

時に民は皆、保聚(村落を守る)し、鈔掠は利無く、而して、兵は遂に挫傷(くじけてやぶれる)した。復(また)、帰国を欲したが、国人は受(ききいれる)けず、乃ち河東に止(とど)まった。

須卜骨都侯為單于一年而死南庭遂虛其位以老王行國事

須卜骨都侯は単于に為って一年で死んだ。南庭は遂にその位を虚(から)にし、老王を以て国事を行った。

單于於扶羅立七年死弟呼廚泉立

単于於扶羅は立って七年で死に、弟の呼廚泉が立った。

單于呼廚泉興平二年立

単于呼廚泉が興平二年(195)に立った。

以兄被逐不得歸國數為鮮卑所鈔

兄が逐(追放)を被ったのを以て、帰国を得ず、数(たびたび)鮮卑の鈔する所と為った。

建安元年獻帝自長安東歸右賢王去卑與白波賊帥韓暹等侍衛天子拒擊李傕郭及車駕還洛陽又徙遷許然後歸國

建安元年(196)、献帝(在位189~220)は長安より東に帰った。右賢王去卑は白波賊帥韓暹らと天子を侍衛し、李傕、郭を拒撃した。車駕が洛陽に還るに及んで、又、許に徙遷(うつる)し、然る後に帰国した。

二十一年單于來朝曹操因留於鄴而遣去卑歸監其國焉

二十一年(216)、単于が来朝した。曹操は因りて鄴に留め、而して、去卑を遣わしてその国に帰監させた。

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