單于兜樓儲立五年薨
單于兜樓儲が立って五年で薨じた。
伊陵尸逐就單于居車兒建和元年立
伊陵尸逐就單于居車兒は、建和元年(147)に立った。
至永壽元年匈奴左薁鞮臺耆且渠伯等復畔寇鈔美稷安定屬國都尉張奐擊破降之事已具奐傳
永寿元年(155)に至り、匈奴左薁鞮臺耆且渠伯徳らが復(また)畔(そむく)し、美稷、安定を寇鈔した。属国都尉張奐が撃破して之を降伏させた。事は已(すでに)、張奐伝に具(つぶさ)にする。
延熹元年南單于諸部並畔遂與烏桓鮮卑寇緣邊九郡以張奐為北中郎將討之單于諸部悉降奐以單于不能統理國事乃拘之上立左谷蠡王
延熹元年(158)、南単于の諸部が並(みな)畔(そむく)し、遂に烏桓、鮮卑とともに縁辺九郡を寇した。張奐を以て北中郎将と為してこれを討った。単于諸部は悉く降伏した。張奐は単于が国事を統理できないのを以て、乃ち、之を拘(とらえる)し、左谷蠡王を上立した。
桓帝詔曰春秋大居正居車兒一心向化何罪而黜其遣還庭
桓帝は詔(みことのり)して曰く、「春秋は適正(世継ぎの男子 嫡男 居(チー)=適(シー)?)を大(おもんずる)する。居車兒は心を一にして化に向かい、何の罪にして黜(しりぞける)するのか? 其の、庭(南匈奴の宮廷)に遣還せよ」と。
單于居車兒立二十五年薨子某立
単于居車兒が立って二十五年で薨し、子の某が立った。
屠特若尸逐就單于某熹平元年立
屠特若尸逐就單于某が熹平元年(172)に立った。
六年單于與中郎將臧旻出鴈門擊鮮卑檀石槐大敗而還是歲單于薨子呼徵立
六年(177)、單于は中郎將臧旻と鴈門に出でて、鮮卑の檀石槐を撃ち、大敗して還った。是(この)歳、單于が薨し、子の呼徵が立った。
單于兜樓儲が立って五年で薨じた。
伊陵尸逐就單于居車兒建和元年立
伊陵尸逐就單于居車兒は、建和元年(147)に立った。
至永壽元年匈奴左薁鞮臺耆且渠伯等復畔寇鈔美稷安定屬國都尉張奐擊破降之事已具奐傳
永寿元年(155)に至り、匈奴左薁鞮臺耆且渠伯徳らが復(また)畔(そむく)し、美稷、安定を寇鈔した。属国都尉張奐が撃破して之を降伏させた。事は已(すでに)、張奐伝に具(つぶさ)にする。
延熹元年南單于諸部並畔遂與烏桓鮮卑寇緣邊九郡以張奐為北中郎將討之單于諸部悉降奐以單于不能統理國事乃拘之上立左谷蠡王
延熹元年(158)、南単于の諸部が並(みな)畔(そむく)し、遂に烏桓、鮮卑とともに縁辺九郡を寇した。張奐を以て北中郎将と為してこれを討った。単于諸部は悉く降伏した。張奐は単于が国事を統理できないのを以て、乃ち、之を拘(とらえる)し、左谷蠡王を上立した。
桓帝詔曰春秋大居正居車兒一心向化何罪而黜其遣還庭
桓帝は詔(みことのり)して曰く、「春秋は適正(世継ぎの男子 嫡男 居(チー)=適(シー)?)を大(おもんずる)する。居車兒は心を一にして化に向かい、何の罪にして黜(しりぞける)するのか? 其の、庭(南匈奴の宮廷)に遣還せよ」と。
單于居車兒立二十五年薨子某立
単于居車兒が立って二十五年で薨し、子の某が立った。
屠特若尸逐就單于某熹平元年立
屠特若尸逐就單于某が熹平元年(172)に立った。
六年單于與中郎將臧旻出鴈門擊鮮卑檀石槐大敗而還是歲單于薨子呼徵立
六年(177)、單于は中郎將臧旻と鴈門に出でて、鮮卑の檀石槐を撃ち、大敗して還った。是(この)歳、單于が薨し、子の呼徵が立った。