二十八年北匈奴復遣使詣闕貢馬及裘更乞和親并請音樂又求率西域諸國胡客與俱獻見
二十八年(52)、北匈奴は復(また)、使者を遣わして闕に詣でさせた。馬及び裘を貢いだ。更に和親を請うて、併せて音楽を請うた。又、西域諸国の胡客を率いて俱(とも)に献見することを求めた。
帝下三府議酬荅之宜司徒掾班彪奏曰
帝は三府に酬答(うけこたえする)の宜(むべ)を議することを下した。司徒掾班彪が奏でて曰く、
臣聞孝宣皇帝敕邊守尉曰匈奴大國多變詐交接得其情則卻敵折衝應對入其數則反為輕欺
「臣(わたし)は聞く、孝宣皇帝が辺守尉に勅(みことのり)して曰く、匈奴は大国で、変詐(いつわりだますこと)が多い。交接してその情を得れば、則ち、敵を却して折衝(敵が攻めてくるのをくじき止める)する。応対してその数(技術)を入(手にいれる)れると、則ち、反って軽欺を為す、と。
今北匈奴見南單于來附懼謀其國故數乞和親又遠驅牛馬與漢合巿重遣名王多所貢獻斯皆外示富強以相欺誕也
今、北匈奴は南單于の来附を見て、その国を謀ることを懼れ、故(ゆえ)に数(たびたび)和親を乞うた。又、牛馬を遠駆して漢と市を合わせ、重ねて名王を遣わし、貢献した所をは多い。斯(これ)、皆、外に富強を示し、相(互いに)欺誕(あざむく)するを以てするのである。
臣見其獻益重知其國益虛歸親愈數為懼愈多然今既未獲助南則亦不宜絕北羈縻之義禮無不荅
臣(わたし)は其の献が益々重ねるを見て、その国は益々虚(から)になり、親に帰すること愈数(ますます多い)で、懼れが愈多(ますます多い)に為っていることを知る。然るに、今、既に南を助けるを獲ないうちに、則ち、亦、宜しく北を絶するべきではなく、羈縻(統御政策)の義、礼は答えないことは無い。
謂可頗加賞賜略與所獻相當明加曉告以前世呼韓邪郅支行事
謂う、頗る賞賜を加え、略(ほぼ)、献ずる所と相当させ、明かに暁告を加えるは前世の呼韓邪、郅支の行事を以てすることを。
報荅之辭令必有適今立稿草并上曰單于不忘漢恩追念先祖舊約欲修和親以輔身安國計議甚高為單于嘉之
報答の辞は、必ず敵(かなう)が有るよう令し、今、稿草を立て、併せて上(申し上げる)する」と。曰く、「単于は漢の恩を忘れず、先祖の旧約を追念し、和親を修めることを欲して、身を輔(たすける)し国を安んずるを以てする。計議は甚だ高く、単于の為にこれを嘉する。
往者匈奴數有乘亂呼韓邪郅支自相讎隙並蒙孝宣皇帝垂恩救護故各遣侍子稱藩保塞
往者(むかし)、匈奴は数(たびたび)争乱(乗=争?)を有し、呼韓邪、郅支は自ら相(たがいに)讎隙(あだ)し、並(みな)、孝宣皇帝の垂恩、救護を蒙(こうむ)った。故(ゆえ)に各々は侍子を遣わし、藩を称えて塞を保った。
其後郅支忿戾自絕皇澤而呼韓附親忠孝彌著及漢滅郅支遂保國傳嗣子孫相繼
其の後、郅支は忿戾(おこってさからう)し、皇沢を自ら絶った。而して、呼韓は附親し、忠孝は彌著(ますますあらわれる)した。漢が郅支を滅ぼすに及んで、遂に国を保ち嗣(あとつぎ)を伝え、子孫は相継した。
二十八年(52)、北匈奴は復(また)、使者を遣わして闕に詣でさせた。馬及び裘を貢いだ。更に和親を請うて、併せて音楽を請うた。又、西域諸国の胡客を率いて俱(とも)に献見することを求めた。
帝下三府議酬荅之宜司徒掾班彪奏曰
帝は三府に酬答(うけこたえする)の宜(むべ)を議することを下した。司徒掾班彪が奏でて曰く、
臣聞孝宣皇帝敕邊守尉曰匈奴大國多變詐交接得其情則卻敵折衝應對入其數則反為輕欺
「臣(わたし)は聞く、孝宣皇帝が辺守尉に勅(みことのり)して曰く、匈奴は大国で、変詐(いつわりだますこと)が多い。交接してその情を得れば、則ち、敵を却して折衝(敵が攻めてくるのをくじき止める)する。応対してその数(技術)を入(手にいれる)れると、則ち、反って軽欺を為す、と。
今北匈奴見南單于來附懼謀其國故數乞和親又遠驅牛馬與漢合巿重遣名王多所貢獻斯皆外示富強以相欺誕也
今、北匈奴は南單于の来附を見て、その国を謀ることを懼れ、故(ゆえ)に数(たびたび)和親を乞うた。又、牛馬を遠駆して漢と市を合わせ、重ねて名王を遣わし、貢献した所をは多い。斯(これ)、皆、外に富強を示し、相(互いに)欺誕(あざむく)するを以てするのである。
臣見其獻益重知其國益虛歸親愈數為懼愈多然今既未獲助南則亦不宜絕北羈縻之義禮無不荅
臣(わたし)は其の献が益々重ねるを見て、その国は益々虚(から)になり、親に帰すること愈数(ますます多い)で、懼れが愈多(ますます多い)に為っていることを知る。然るに、今、既に南を助けるを獲ないうちに、則ち、亦、宜しく北を絶するべきではなく、羈縻(統御政策)の義、礼は答えないことは無い。
謂可頗加賞賜略與所獻相當明加曉告以前世呼韓邪郅支行事
謂う、頗る賞賜を加え、略(ほぼ)、献ずる所と相当させ、明かに暁告を加えるは前世の呼韓邪、郅支の行事を以てすることを。
報荅之辭令必有適今立稿草并上曰單于不忘漢恩追念先祖舊約欲修和親以輔身安國計議甚高為單于嘉之
報答の辞は、必ず敵(かなう)が有るよう令し、今、稿草を立て、併せて上(申し上げる)する」と。曰く、「単于は漢の恩を忘れず、先祖の旧約を追念し、和親を修めることを欲して、身を輔(たすける)し国を安んずるを以てする。計議は甚だ高く、単于の為にこれを嘉する。
往者匈奴數有乘亂呼韓邪郅支自相讎隙並蒙孝宣皇帝垂恩救護故各遣侍子稱藩保塞
往者(むかし)、匈奴は数(たびたび)争乱(乗=争?)を有し、呼韓邪、郅支は自ら相(たがいに)讎隙(あだ)し、並(みな)、孝宣皇帝の垂恩、救護を蒙(こうむ)った。故(ゆえ)に各々は侍子を遣わし、藩を称えて塞を保った。
其後郅支忿戾自絕皇澤而呼韓附親忠孝彌著及漢滅郅支遂保國傳嗣子孫相繼
其の後、郅支は忿戾(おこってさからう)し、皇沢を自ら絶った。而して、呼韓は附親し、忠孝は彌著(ますますあらわれる)した。漢が郅支を滅ぼすに及んで、遂に国を保ち嗣(あとつぎ)を伝え、子孫は相継した。