光和中檀石槐死時年四十五子和連代立
光和(178~184)の中頃、檀石槐が死んだ。時に年四十五、子の和連が代わって立った。
和連才力不及父亦數為寇抄性貪淫斷法不平眾畔者半
和連の才力は父に及ばす、亦、数(たびたび)、寇抄を為した。性質は貪淫で、法を不平に断じ、衆の畔(そむく)する者は半分。
後出攻北地廉人善弩射者射中和連即死其子騫曼年小兄子魁頭立
後に北地に出攻し、廉人の弩射の善(上手い)者が和連に射中し、即死した。その子の騫曼は年小で、兄の子の魁頭が立った。
後騫曼長大與魁頭爭國眾遂離散魁頭死弟步度根立自檀石槐後諸大人遂世相傳襲
日、騫曼が長大になると、魁頭と国を争い、衆は遂に離散した。魁頭が死に、弟の步度根が立った。檀石槐より後、諸大人は遂に世(代々)相(つぎつぎに)伝襲(世襲)した。
論曰四夷之暴其埶互彊矣匈奴熾於隆漢西羌猛於中興
論曰く、四夷の暴は、その勢いは互いに強くなった。匈奴は隆漢に於いて熾(さかん)になり、西羌は中興に於いて猛(たける)した。
而靈獻之二虜迭盛石槐驍猛盡有單于之地蹋頓凶桀公據遼西之土
後漢霊献の間(168~220)、二虜(烏桓、鮮卑)が迭(かわる)して盛んになり、石槐驍は猛で尽く単于の地を有した。蹋頓は凶桀で遼西の土地に公拠した。
其陵跨中國結患生人者靡世而寧焉然制御上略歷世無聞
その中国を陵跨(こえる)し、生人(人民)に患いを結ぶ者は、世(代々)を靡(順応する)させて寧(しずめる)するのである。然るに制御、上略は歴世に聞いたことが無く、
周漢之策僅得中下將天之冥數以至於是乎
周、漢の策は僅(かろうじて)中の下を得る。将に天の冥数(人間の知恵ではしることのできない運命)はここに至らんとするを以てしたのだろうか、と。
贊曰二虜首施鯁我北垂道暢則馴時薄先離
賛は曰く、二虜(烏桓、鮮卑)は首施(うたがいためらう)し、我を鯁(わざわい)し北に垂れる。道(道義?)が暢(盛んに茂る)すれば、馴(したがう)し、時(時勢)が薄(衰える)すれば、先んじて離れる、と。
ここで、後漢書 鮮卑、あとがきは終わりです。次からは、後漢書 南匈奴伝に入ります。
光和(178~184)の中頃、檀石槐が死んだ。時に年四十五、子の和連が代わって立った。
和連才力不及父亦數為寇抄性貪淫斷法不平眾畔者半
和連の才力は父に及ばす、亦、数(たびたび)、寇抄を為した。性質は貪淫で、法を不平に断じ、衆の畔(そむく)する者は半分。
後出攻北地廉人善弩射者射中和連即死其子騫曼年小兄子魁頭立
後に北地に出攻し、廉人の弩射の善(上手い)者が和連に射中し、即死した。その子の騫曼は年小で、兄の子の魁頭が立った。
後騫曼長大與魁頭爭國眾遂離散魁頭死弟步度根立自檀石槐後諸大人遂世相傳襲
日、騫曼が長大になると、魁頭と国を争い、衆は遂に離散した。魁頭が死に、弟の步度根が立った。檀石槐より後、諸大人は遂に世(代々)相(つぎつぎに)伝襲(世襲)した。
論曰四夷之暴其埶互彊矣匈奴熾於隆漢西羌猛於中興
論曰く、四夷の暴は、その勢いは互いに強くなった。匈奴は隆漢に於いて熾(さかん)になり、西羌は中興に於いて猛(たける)した。
而靈獻之二虜迭盛石槐驍猛盡有單于之地蹋頓凶桀公據遼西之土
後漢霊献の間(168~220)、二虜(烏桓、鮮卑)が迭(かわる)して盛んになり、石槐驍は猛で尽く単于の地を有した。蹋頓は凶桀で遼西の土地に公拠した。
其陵跨中國結患生人者靡世而寧焉然制御上略歷世無聞
その中国を陵跨(こえる)し、生人(人民)に患いを結ぶ者は、世(代々)を靡(順応する)させて寧(しずめる)するのである。然るに制御、上略は歴世に聞いたことが無く、
周漢之策僅得中下將天之冥數以至於是乎
周、漢の策は僅(かろうじて)中の下を得る。将に天の冥数(人間の知恵ではしることのできない運命)はここに至らんとするを以てしたのだろうか、と。
贊曰二虜首施鯁我北垂道暢則馴時薄先離
賛は曰く、二虜(烏桓、鮮卑)は首施(うたがいためらう)し、我を鯁(わざわい)し北に垂れる。道(道義?)が暢(盛んに茂る)すれば、馴(したがう)し、時(時勢)が薄(衰える)すれば、先んじて離れる、と。
ここで、後漢書 鮮卑、あとがきは終わりです。次からは、後漢書 南匈奴伝に入ります。