桓帝時鮮卑檀石槐者其父投鹿侯初從匈奴軍三年其妻在家生子
後漢桓帝(在位146~168)時、鮮卑檀石槐という者は、その父は投鹿侯で、初めて匈奴軍に従うこと三年、その妻は家に在り、子を生んだ。
投鹿侯歸怪欲殺之妻言嘗晝行聞雷震仰天視而雹入其口因吞之遂妊身十月而產此子必有奇異且宜長視
投鹿侯が帰ると、怪しみこれを殺すことを欲した。妻は言った、嘗て昼に行くと雷震を聞き、天を仰いで視ると、雹(あられ)がその口に入り、因りてこれを呑み、遂に妊娠した。十か月にして産み、此の子は必ず奇異が有り、且つ宜しく長い視るべきです、と。
投鹿侯不聽遂棄之妻私語家令收養焉名檀石槐年十四五勇健有智略
投鹿侯は聴き入れず、遂にこれを棄てた。妻は私(ひそかに)家(実家)に語り、収養させた。名は檀石槐。年は十四、五で、勇健で智略が有った。
異部大人抄取其外家牛羊檀石槐單騎追擊之所向無前悉還得所亡者由是部落畏服
異部大人がその外家(妻の実家)の牛、羊を抄取した。檀石槐は単騎で、これを追撃した。向かう所は前が無く、尽く亡くしたところのものを還得した。是に由り、部落は畏服した。
乃施法禁平曲直無敢犯者遂推以為大人
そこで、法禁を施し、曲直(正しくないことと正しいこと)を平らげ、敢えて犯す者は無くなり、遂に推されて大人と為るを以てした。
檀石槐乃立庭於彈汗山歠仇水上去高柳北三百餘里兵馬甚盛東西部大人皆歸焉
檀石槐そこで庭(法廷)を彈汗山歠仇水上に立てた。高柳の北、三百余里(一里150m換算で約45厖召蝓法∧芝呂録咾誓垢鵑如東部西部の大人は皆、帰服した。
因南抄緣邊北拒丁零東卻夫餘西擊烏孫盡據匈奴故地東西萬四千餘里南北七千餘里網羅山川水澤鹽池
因りて、南に縁辺を抄し、北に丁零を拒み、東に夫余(おそらくピョンヤン? 音より 夫余の西は鮮卑(後漢書 夫余伝より)或いは夫余とは北夫余(豆莫婁国 豆満江の南辺り?))を却(しりぞける)し、西に烏孫(おそらく内モンゴル自治区フホホト市辺り?)を撃ち、尽く、匈奴の故地に拠った。東西は一万四千余里(一里150m換算で約2100厖召蝓法南北は七千余里(一里150m換算で約1050厖召蝓法∋垣鄂綢塩池を網羅した。
後漢桓帝(在位146~168)時、鮮卑檀石槐という者は、その父は投鹿侯で、初めて匈奴軍に従うこと三年、その妻は家に在り、子を生んだ。
投鹿侯歸怪欲殺之妻言嘗晝行聞雷震仰天視而雹入其口因吞之遂妊身十月而產此子必有奇異且宜長視
投鹿侯が帰ると、怪しみこれを殺すことを欲した。妻は言った、嘗て昼に行くと雷震を聞き、天を仰いで視ると、雹(あられ)がその口に入り、因りてこれを呑み、遂に妊娠した。十か月にして産み、此の子は必ず奇異が有り、且つ宜しく長い視るべきです、と。
投鹿侯不聽遂棄之妻私語家令收養焉名檀石槐年十四五勇健有智略
投鹿侯は聴き入れず、遂にこれを棄てた。妻は私(ひそかに)家(実家)に語り、収養させた。名は檀石槐。年は十四、五で、勇健で智略が有った。
異部大人抄取其外家牛羊檀石槐單騎追擊之所向無前悉還得所亡者由是部落畏服
異部大人がその外家(妻の実家)の牛、羊を抄取した。檀石槐は単騎で、これを追撃した。向かう所は前が無く、尽く亡くしたところのものを還得した。是に由り、部落は畏服した。
乃施法禁平曲直無敢犯者遂推以為大人
そこで、法禁を施し、曲直(正しくないことと正しいこと)を平らげ、敢えて犯す者は無くなり、遂に推されて大人と為るを以てした。
檀石槐乃立庭於彈汗山歠仇水上去高柳北三百餘里兵馬甚盛東西部大人皆歸焉
檀石槐そこで庭(法廷)を彈汗山歠仇水上に立てた。高柳の北、三百余里(一里150m換算で約45厖召蝓法∧芝呂録咾誓垢鵑如東部西部の大人は皆、帰服した。
因南抄緣邊北拒丁零東卻夫餘西擊烏孫盡據匈奴故地東西萬四千餘里南北七千餘里網羅山川水澤鹽池
因りて、南に縁辺を抄し、北に丁零を拒み、東に夫余(おそらくピョンヤン? 音より 夫余の西は鮮卑(後漢書 夫余伝より)或いは夫余とは北夫余(豆莫婁国 豆満江の南辺り?))を却(しりぞける)し、西に烏孫(おそらく内モンゴル自治区フホホト市辺り?)を撃ち、尽く、匈奴の故地に拠った。東西は一万四千余里(一里150m換算で約2100厖召蝓法南北は七千余里(一里150m換算で約1050厖召蝓法∋垣鄂綢塩池を網羅した。