永壽二年秋檀石槐遂將三四千騎寇雲中
永寿二年(156)秋、檀石槐は遂にに三、四千騎をひきいて雲中を寇した。
延熹元年鮮卑寇北邊冬使匈奴中郎將張奐率南單于出塞擊之斬首二百級
延熹元年(158)、鮮卑は北辺を寇した。冬、匈奴中郎将張奐をつかわし、南単于を率いて、塞を出てこれを撃った。斬首二百級。
二年復入鴈門殺數百人大抄掠而去
二年(159)、また鴈門に入り、数百人を殺し、大抄掠して去った。
六年夏千餘騎寇遼東屬國
六年(163)夏、千余騎が遼東の属国を寇した。
九年夏遂分騎數萬人入緣邊九郡並殺掠吏人於是復遣張奐擊之鮮卑乃出塞去
九年(166)夏、遂に騎数万人を分けて、縁辺の九郡に入った。並(みな)吏人を殺掠した。ここに於いてまた、張奐を遣わしこれを撃たせた。鮮卑はそこで、塞を出て去った。
朝廷積患之,而不能制遂遣使持印綬封檀石槐為王欲與和親檀石槐不肯受而寇抄滋甚
朝廷はこれに患いを積もらせたが、制することはできなかった。遂に使者を遣わし印綬を持たせて、檀石槐に封じて王と為し、ともに和親することを欲した。檀石槐は受けることを不肯とし、而して、寇抄は滋(益々)甚だしくなった。
乃自分其地為三部從右北平以東至遼東接夫餘濊貊二十餘邑為東部從右北平以西至上谷十餘邑為中部從上谷以西至敦煌烏孫二十餘邑為西部各置大人主領之皆屬檀石槐
そこで、自らその地を分けて三部をつくった。右北平より以東、遼東の、夫余、濊貊の二十余の邑に接するに至るところまでを東部と為した。右北平より以西、上谷の十余邑に至るまでを中部と為した。上谷以西より、敦煌、烏孫の二十余邑に至るまでを西部と為した。おのおの、大人を置いてこれを主領させ、皆、檀石槐に属させた。
永寿二年(156)秋、檀石槐は遂にに三、四千騎をひきいて雲中を寇した。
延熹元年鮮卑寇北邊冬使匈奴中郎將張奐率南單于出塞擊之斬首二百級
延熹元年(158)、鮮卑は北辺を寇した。冬、匈奴中郎将張奐をつかわし、南単于を率いて、塞を出てこれを撃った。斬首二百級。
二年復入鴈門殺數百人大抄掠而去
二年(159)、また鴈門に入り、数百人を殺し、大抄掠して去った。
六年夏千餘騎寇遼東屬國
六年(163)夏、千余騎が遼東の属国を寇した。
九年夏遂分騎數萬人入緣邊九郡並殺掠吏人於是復遣張奐擊之鮮卑乃出塞去
九年(166)夏、遂に騎数万人を分けて、縁辺の九郡に入った。並(みな)吏人を殺掠した。ここに於いてまた、張奐を遣わしこれを撃たせた。鮮卑はそこで、塞を出て去った。
朝廷積患之,而不能制遂遣使持印綬封檀石槐為王欲與和親檀石槐不肯受而寇抄滋甚
朝廷はこれに患いを積もらせたが、制することはできなかった。遂に使者を遣わし印綬を持たせて、檀石槐に封じて王と為し、ともに和親することを欲した。檀石槐は受けることを不肯とし、而して、寇抄は滋(益々)甚だしくなった。
乃自分其地為三部從右北平以東至遼東接夫餘濊貊二十餘邑為東部從右北平以西至上谷十餘邑為中部從上谷以西至敦煌烏孫二十餘邑為西部各置大人主領之皆屬檀石槐
そこで、自らその地を分けて三部をつくった。右北平より以東、遼東の、夫余、濊貊の二十余の邑に接するに至るところまでを東部と為した。右北平より以西、上谷の十余邑に至るまでを中部と為した。上谷以西より、敦煌、烏孫の二十余邑に至るまでを西部と為した。おのおの、大人を置いてこれを主領させ、皆、檀石槐に属させた。