靈帝立幽并涼三州緣邊諸郡無歲不被鮮卑寇抄殺略不可勝數
後漢霊帝(在位168~189)が立ち、幽、并、涼の三州の縁辺諸郡は歳に鮮卑の寇抄を被らずは無かった。殺略はすべて数え上げることができない。
熹平三年冬鮮卑入北地太守夏育率休著屠各追擊破之遷育為護烏桓校尉
熹平三年(174)冬、鮮卑が北地に入った。太守夏育は休著屠各を率いて、これを追って撃破した。夏育を遷して護烏桓校尉と為した。
五年鮮卑寇幽州
五年(176)、鮮卑が幽州を寇した。
六年夏鮮卑寇三邊秋夏育上言鮮卑寇邊自春以來三十餘發請徵幽州諸郡兵出塞擊之一冬二春必能禽滅朝廷未許
六年(177)夏、鮮卑が三辺を寇した。秋、夏育が上言した、「鮮卑が辺を寇し、春以来より三十余発。幽州諸郡兵を徴収して、塞を出てこれを撃つことを請う。一冬二春で、必ず禽滅することができるでしょう」と。朝廷は未だ許可しなかった。
先是護羌校尉田晏坐事論刑被原欲立功自效乃請中常侍王甫求得為將甫因此議遣兵與育并力討賊
これの先、護羌校尉田晏が事に連坐し論刑して原(ゆるす)を被った。功を立て自ら効することを欲し、
そこで、中常侍王甫に請うて、将軍に為ることができるよう求めた。王甫はこれに因り、兵を遣わし、夏育と力を併せて賊を討たせたせることを議した。
帝乃拜晏為破鮮卑中郎將大臣多有不同乃召百官議朝堂議郎蔡邕議曰
帝はそこで、田晏を拝して破鮮卑中郎将と為した。大臣は不同のものが多く、乃ち、百官を召して、朝堂に議した。議郎蔡邕は議して曰く、
書戒猾夏易伐鬼方周有獫狁蠻荊之師漢有闐顏瀚海之事
「書は夏(中華)を猾(みだす)することを戒め、易は鬼方を伐する。周には獫狁、蛮荊の師(いくさ)が有り、漢には闐顏、瀚海の事が有る。
征討殊類所由尚矣然而時有同異埶有可否故謀有得失事有成敗不可齊也
殊類を征討するは由るところ尚(久しい)である。然るに、時に同異が有り、勢いに可否が有り、故(ゆえ)に謀は得失が有り、事は成敗が有り、斉(等しくする)することは不可である。
後漢霊帝(在位168~189)が立ち、幽、并、涼の三州の縁辺諸郡は歳に鮮卑の寇抄を被らずは無かった。殺略はすべて数え上げることができない。
熹平三年冬鮮卑入北地太守夏育率休著屠各追擊破之遷育為護烏桓校尉
熹平三年(174)冬、鮮卑が北地に入った。太守夏育は休著屠各を率いて、これを追って撃破した。夏育を遷して護烏桓校尉と為した。
五年鮮卑寇幽州
五年(176)、鮮卑が幽州を寇した。
六年夏鮮卑寇三邊秋夏育上言鮮卑寇邊自春以來三十餘發請徵幽州諸郡兵出塞擊之一冬二春必能禽滅朝廷未許
六年(177)夏、鮮卑が三辺を寇した。秋、夏育が上言した、「鮮卑が辺を寇し、春以来より三十余発。幽州諸郡兵を徴収して、塞を出てこれを撃つことを請う。一冬二春で、必ず禽滅することができるでしょう」と。朝廷は未だ許可しなかった。
先是護羌校尉田晏坐事論刑被原欲立功自效乃請中常侍王甫求得為將甫因此議遣兵與育并力討賊
これの先、護羌校尉田晏が事に連坐し論刑して原(ゆるす)を被った。功を立て自ら効することを欲し、
そこで、中常侍王甫に請うて、将軍に為ることができるよう求めた。王甫はこれに因り、兵を遣わし、夏育と力を併せて賊を討たせたせることを議した。
帝乃拜晏為破鮮卑中郎將大臣多有不同乃召百官議朝堂議郎蔡邕議曰
帝はそこで、田晏を拝して破鮮卑中郎将と為した。大臣は不同のものが多く、乃ち、百官を召して、朝堂に議した。議郎蔡邕は議して曰く、
書戒猾夏易伐鬼方周有獫狁蠻荊之師漢有闐顏瀚海之事
「書は夏(中華)を猾(みだす)することを戒め、易は鬼方を伐する。周には獫狁、蛮荊の師(いくさ)が有り、漢には闐顏、瀚海の事が有る。
征討殊類所由尚矣然而時有同異埶有可否故謀有得失事有成敗不可齊也
殊類を征討するは由るところ尚(久しい)である。然るに、時に同異が有り、勢いに可否が有り、故(ゆえ)に謀は得失が有り、事は成敗が有り、斉(等しくする)することは不可である。