十三年遂寇河東州郡不能禁於是漸徙幽并邊人於常山關居庸關已東匈奴左部遂復轉居塞內
十三年(37)、遂に河東を寇したが、州郡は禁ずることができなかった。ここに於いて漸(次第に)幽、并の辺人を常山関、居庸関以東に徙(移る)し、匈奴左部は遂に復、塞内に転居した。
朝廷患之緣邊兵郡數千人大築亭候修烽火匈奴聞漢購求盧芳貪得財帛乃遣芳還降望得其賞
朝廷はこれを患え、縁辺兵を一郡に数千人を増やし、大いに亭候を築き、烽火を修めた。
匈奴は漢が盧芳を購い求めたことを聞き、財帛を貪得しようと、そこで、盧芳を遣わし還降させ、その賞を得ることを望んだ。
而芳以自歸為功不稱匈奴所遣單于復恥言其計故賞遂不行由是大恨入寇尤深
而して、盧芳は自ら帰服して功と為すを以て、匈奴が遣わしたところと称さず、単于も復(また)、その計を言うことを恥じ、故(ゆえ)に賞は遂に行われなかった。是れ由り、大いに恨み、入寇は尤も深くなった。
二十年遂至上黨扶風天水
二十年(44)、遂に上党、扶風、天水に至った。
二十一年冬復寇上谷中山殺略鈔掠甚眾北邊無復寧歲
二十一年(45)冬、復、上谷、中山を寇した。殺略、鈔掠は甚だ衆(多い)で、北辺は寧に復する歳は無かった。
十三年(37)、遂に河東を寇したが、州郡は禁ずることができなかった。ここに於いて漸(次第に)幽、并の辺人を常山関、居庸関以東に徙(移る)し、匈奴左部は遂に復、塞内に転居した。
朝廷患之緣邊兵郡數千人大築亭候修烽火匈奴聞漢購求盧芳貪得財帛乃遣芳還降望得其賞
朝廷はこれを患え、縁辺兵を一郡に数千人を増やし、大いに亭候を築き、烽火を修めた。
匈奴は漢が盧芳を購い求めたことを聞き、財帛を貪得しようと、そこで、盧芳を遣わし還降させ、その賞を得ることを望んだ。
而芳以自歸為功不稱匈奴所遣單于復恥言其計故賞遂不行由是大恨入寇尤深
而して、盧芳は自ら帰服して功と為すを以て、匈奴が遣わしたところと称さず、単于も復(また)、その計を言うことを恥じ、故(ゆえ)に賞は遂に行われなかった。是れ由り、大いに恨み、入寇は尤も深くなった。
二十年遂至上黨扶風天水
二十年(44)、遂に上党、扶風、天水に至った。
二十一年冬復寇上谷中山殺略鈔掠甚眾北邊無復寧歲
二十一年(45)冬、復、上谷、中山を寇した。殺略、鈔掠は甚だ衆(多い)で、北辺は寧に復する歳は無かった。