而欲以齊民易醜虜皇威辱外夷就如其言猶已危矣況乎得失不可量邪
斉民(庶民)を以て醜虜(鮮卑)を易(あらためさせる)し、皇威が外夷を辱めることを欲して、その言葉の如く就(おもむく)けば、猶(なお)已危(非常に危うい)で、況(ま)してや、得失は量ることができないのだ。
昔珠崖郡反孝元皇帝納賈捐之言而下詔曰珠崖背畔今議者或曰可討或曰棄之
昔、珠崖郡が反(そむく)したとき、孝元皇帝は賈捐の言を納め、而して詔を下して曰く、珠崖が背畔(むほん)した。今、議者は或いは曰く討つべしと、或いは曰く、これを棄ておけと。
朕日夜惟思羞威不行則欲誅之通于時變復憂萬民夫萬民之飢與遠蠻之不討何者為大
朕は日夜、惟思(考える)する。威が行われないことを羞じ、則ち、これを誅することを欲する。時の変化を通じて、復、万民を憂える。それ、万民の飢えと、遠蛮を討たずは、どれを大(大事)と為すか?
宗廟之祭凶年猶有不備況避不嫌之辱哉今關東大困無以相贍又當動兵非但勞民而已
宗廟の祭りで凶年は猶(なお)不備が有る。況(ま)してや、不嫌((むほんを)うたがわない)の辱めを避けるだろうか。(辱めをうける)今、関東は大いに困り、相贍(たがいにめぐみあう)を以てすることは無く、又、当に兵を動かすは、但(ただ)、民を労してそれ已(のみ)では非ざる。
其罷珠崖郡此元帝所以發音也夫卹民救急雖成郡列縣尚猶棄之況障塞之外未嘗為民居者乎
その、珠崖郡を罷(棄ておく)せよ、と。此れ、元帝の徳音を発するを以てしたところである。夫れ、民を卹(あわれむ)し、急を救うために、郡を成し、県を列すると雖も、尚猶(なお)これを棄ておく。況や、障塞の外は、未だ嘗て民の居に為ったものではないではないか。
守邊之術李牧善其略保塞之論嚴尤申其要遺業猶在文章具存循二子之策守先帝之規臣曰可矣
守辺の術は、李牧がその略に善(上手い)し、保塞の論は厳尤がその要(かなめ)を申す。遺業は猶(なお)在り、文章は具(つぶさ)に存(ある)する。二子(李牧と厳尤)の策に循(したがう)じて、先帝の規を守ることが、臣(わたし)は曰く、可(良い)と。」と。
斉民(庶民)を以て醜虜(鮮卑)を易(あらためさせる)し、皇威が外夷を辱めることを欲して、その言葉の如く就(おもむく)けば、猶(なお)已危(非常に危うい)で、況(ま)してや、得失は量ることができないのだ。
昔珠崖郡反孝元皇帝納賈捐之言而下詔曰珠崖背畔今議者或曰可討或曰棄之
昔、珠崖郡が反(そむく)したとき、孝元皇帝は賈捐の言を納め、而して詔を下して曰く、珠崖が背畔(むほん)した。今、議者は或いは曰く討つべしと、或いは曰く、これを棄ておけと。
朕日夜惟思羞威不行則欲誅之通于時變復憂萬民夫萬民之飢與遠蠻之不討何者為大
朕は日夜、惟思(考える)する。威が行われないことを羞じ、則ち、これを誅することを欲する。時の変化を通じて、復、万民を憂える。それ、万民の飢えと、遠蛮を討たずは、どれを大(大事)と為すか?
宗廟之祭凶年猶有不備況避不嫌之辱哉今關東大困無以相贍又當動兵非但勞民而已
宗廟の祭りで凶年は猶(なお)不備が有る。況(ま)してや、不嫌((むほんを)うたがわない)の辱めを避けるだろうか。(辱めをうける)今、関東は大いに困り、相贍(たがいにめぐみあう)を以てすることは無く、又、当に兵を動かすは、但(ただ)、民を労してそれ已(のみ)では非ざる。
其罷珠崖郡此元帝所以發音也夫卹民救急雖成郡列縣尚猶棄之況障塞之外未嘗為民居者乎
その、珠崖郡を罷(棄ておく)せよ、と。此れ、元帝の徳音を発するを以てしたところである。夫れ、民を卹(あわれむ)し、急を救うために、郡を成し、県を列すると雖も、尚猶(なお)これを棄ておく。況や、障塞の外は、未だ嘗て民の居に為ったものではないではないか。
守邊之術李牧善其略保塞之論嚴尤申其要遺業猶在文章具存循二子之策守先帝之規臣曰可矣
守辺の術は、李牧がその略に善(上手い)し、保塞の論は厳尤がその要(かなめ)を申す。遺業は猶(なお)在り、文章は具(つぶさ)に存(ある)する。二子(李牧と厳尤)の策に循(したがう)じて、先帝の規を守ることが、臣(わたし)は曰く、可(良い)と。」と。