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其明年春大將軍青出定襄

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其明年春大將軍青出定襄合騎侯敖為中將軍

その明くる年(元朔六年)春、漢大将軍長平侯衛青は定襄に出て、合騎侯公孫敖は中将軍と為り、

太仆賀為左將軍翕侯趙信為前將軍衛尉蘇建為右將軍

漢太僕公孫賀は左将軍に為り、翕侯趙信が前将軍に為り、漢衛尉蘇建が右将軍に為り、

郎中令李廣為後將軍右內史李沮為彊弩將軍咸屬大將軍斬首數千級而還

漢郎中令李広が後将軍に為り、漢右内史李沮が彊弩将軍に為り、あまねく漢大将軍長平侯衛青に属し、
首を斬ること数千級にして還(かえ)った。

月餘悉復出定襄擊匈奴斬首虜萬餘人

一ヶ月余りして、ことごとくまた定襄に出て匈奴を撃ち、首を斬ったり虜(とりこ)にすること一万人。

右將軍建前將軍信并軍三千餘騎獨逢單于兵與戰一日餘漢兵且盡

漢右将軍衛尉蘇建、漢前将軍翕侯趙信は軍三千余騎を併(あわ)せ、独(ひと)り單于兵に逢(あ)い、ともに戦うこと一日余り、漢兵はまさに尽きんとした。

前將軍故胡人降為翕侯見急匈奴誘之遂將其餘騎可八百奔降單于

漢前将軍翕侯趙信は以前匈奴人で、降(くだ)って翕侯に為ったが、急を見ると、匈奴がこれを誘(さそ)い、遂(つい)にその残った騎兵八百ほどを率(ひき)いて、單于に奔走(ほんそう)して降(くだ)った。

右將蘇建盡亡其軍獨以身得亡去自歸大將軍

漢右将軍衛尉蘇建はことごとくその軍を亡(な)くし、独(ひと)り身を以って逃げ去ることを得て、自らを漢大将軍長平侯衛青に帰(き)した。

大將軍問其罪正閎長史安議郎周霸等建當云何霸曰

漢大将軍長平侯衛青は正の閎、長史の安、議郎の周霸らにその罪を問うた、「蘇建はいかに当てるべきか」と。議郎周霸曰く、

自大將軍出未嘗斬裨將今建棄軍可斬以明將軍之威

「大将軍が出でてより、未(いま)だ嘗(かつ)て副将を斬らず。今蘇建は軍を棄(す)てました。斬って将軍の威(い)を明らかにするを以ってするべきです」と。

閎安曰不然兵法小敵之堅大敵之禽也

正閎、長史安曰く、「そうではありません。兵法では、小敵の堅は、大敵の禽である、と。

今建以數千當單于數萬力戰一日餘士盡不敢有二心自歸

今、蘇建は数千を以って單于数万に当たり、力戦して一日余り、士は尽きても、敢(あ)えて二心(ふたごころ)を有さず、自らを帰(き)しました。

自歸而斬之是示後無反意也不當斬大將軍曰

自らを帰(き)したのにこれを斬れば、これ、後に示すは返(かえ)る気持ちをなくすのであります。斬罪に当てることなかれ」と。漢大将軍長平侯衛青曰く、

青幸得以肺腑待罪行不患無威而霸說我以明威甚失臣意

「わたしは幸いにも外戚を以って軍営の中に任ぜられるを得て、威の無いことを患えず、しこうして議郎周霸は我(われ)に威(い)を明らかにするを以ってすることを説(と)いたが、甚だわたしの気持ちからはずれている。

且使臣職雖當斬將以臣之尊寵而不敢自擅專誅於境外而具歸天子

まさにわたしの職をして将軍を斬罪に当てると雖(いえど)も、わたしの尊寵を以ってして敢(あ)えて国境外に於いて自ら思うままにして誅(ちゅう)を専(もっぱ)らにせず、しこうしてすべて天子に帰(き)して、

天子自裁之於是以見為人臣不敢專權不亦可乎軍吏皆曰善

天子は自らこれを裁(さば)き、ここに於いて人臣として敢えて権力を専(もっぱ)らにせずを見せるを以ってするもまたよいのではないか?」と。軍吏は皆(みな)曰く、「よいと思います」と。

遂囚建詣行在所入塞罷兵

遂(つい)に蘇建をとらえて行在所(天子の旅先での仮御所)に詣(もう)でさせた。塞(とりで)に入って戦いを中止した。

是歲也大將軍姊子霍去病年十八幸為天子ヰ中

この年(元朔六年)は、漢大将軍長平侯衛青の姉の子の霍去病が年十八歳で、かわいがられ、天子のヰ中と為った。

善騎射再從大將軍受詔與壯士為剽姚校尉

騎射が上手く、二度、漢大将軍長平侯衛青に従い、詔(みことのり)をさずかり壮士を与えられ、剽姚校尉と為り、

與輕勇騎八百直棄大軍數百里赴利斬捕首虜過當

軽勇騎八百とともにすぐに大軍を棄てて数百里(一里150m換算で約30km~)利(り)に赴(おもむ)き、首を斬り虜(とりこ)を捕らえること、当(とう)を越えていた。

於是天子曰剽姚校尉去病斬首虜二千二十八級

ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)曰く、「剽姚校尉霍去病は首を斬り虜(とりこ)をとらえること二千二十八級、

及相國當戶斬單于大父行籍若侯產生捕季父羅姑比

相国、当戸(官名)に及び、単于大父行籍若侯產を斬り、季父の羅姑比を生け捕りにし、

再冠軍以千六百戶封去病為冠軍侯

二度とも軍に冠(かん)したので、千六百戸を以って霍去病に封じ冠軍侯と為さしめる。

上谷太守郝賢四從大將軍捕斬首虜二千餘人以千一百戶封賢為眾利侯

上谷太守の郝賢は四度、大将軍に従い、首を斬り虜(とりこ)をとらえること二千余人、千一百戸を以って郝賢に封じ、衆利侯と為さしめる」と。

是歲失兩將軍軍亡翕侯軍功不多故大將軍不益封

この年(元朔六年)、二人の将軍の軍を失(うしな)い、漢前将軍翕侯趙信を逃(のが)し、軍功は多くなく、故(ゆえ)に漢大将軍長平侯衛青は益封されなかった。

右將軍建至天子不誅赦其罪贖為庶人

漢右将軍蘇建が至ると、天子(漢孝武帝劉徹)は誅さず、その罪を赦(ゆる)し、購(あがな)わせて
庶人と為さしめた。

大將軍既還賜千金是時王夫人方幸於上乘說大將軍曰

漢大将軍長平侯衛青がすでに帰ると、千金を賜(たまわ)った。この時、王夫人がまさに上に於いて
かわいがられ、乘は漢大将軍長平侯衛青に説いて曰く、

將軍所以功未甚多身食萬戶三子皆為侯者徒以皇后故也

「将軍が功を以ってするところは未(ま)だ甚(はなは)だ多くはなく、身は万戸を食(は)み、三人の子は皆(みな)侯者に為るは、ただ衛皇后の故(ゆえ)を以ってであります。

今王夫人幸而宗族未富貴願將軍奉所賜千金為王夫人親壽

今、王夫人がかわいがられて、一族は未(ま)だ富み貴ばれておらず、願わくは将軍には賜ったところの千金を奉(たてまつ)って王夫人の親の為(ため)に寿(ことほ)ぎをなさってください」と。

大將軍乃以五百金為壽

漢大将軍長平侯衛青はそこで五百金を以って寿(ことほ)ぎを為した。

天子聞之問大將軍大將軍以實言上乃拜乘為東海都尉

天子(漢孝武帝劉徹)はこれを聞くと漢大将軍長平侯衛青に問うた。漢大将軍長平侯衛青は実(まこと)を以って言上し、上(漢孝武帝劉徹)はそこで乘に官をさずけて東海都尉と為さしめた。

張騫從大將軍以嘗使大夏留匈奴中久導軍

張騫が漢大将軍長平侯衛青に従い、嘗(かつ)て大夏に使いし、匈奴の中に久しく留まったのを以って、
軍を導(みちび)かせ、

知善水草處軍得以無饑渴因前使絕國功封騫博望侯

善い水草のある処を知っており、軍は餓(う)えたり渇(かわ)いたりせずを以って得られ、
以前に絶遠の国に使いした功績に因(よ)り、張騫を博望侯に封じた。

冠軍侯去病既侯三歲元狩二年春以冠軍侯去病為驃騎將軍

冠軍侯霍去病はすでに侯になって三年、元狩二年春、冠軍侯霍去病を以って驃騎將軍と為さしめた。

將萬騎出隴西有功天子曰驃騎將軍率戎士踰烏盭

一万騎を率(ひき)いて隴西に出て、手柄(てがら)を有(ゆう)した。天子(漢孝武帝劉徹)曰く、「驃騎將軍は戎士を率(ひき)いて烏盭を越(こ)え、

討遬濮涉狐奴歷五王國輜重人眾懾慴者弗取冀獲單于子

遬濮を討(う)って、狐奴を渉(わた)り、五人の王の国をめぐり、輜重(武器や食糧など)、人衆のおそれてびくびくするものは取らずに、単于(匈奴王)の子を獲(え)ることを冀(こいねが)った。

轉戰六日過焉支山千有餘里合短兵殺折蘭王斬盧胡王

転戦すること六日、焉支山を過ぎること一千有余里(一里150m換算で約150km余り)、短兵(刀剣)を合わせ、折蘭王を殺し、盧胡王を斬り、

誅全甲執渾邪王子及相國都尉首虜八千餘級

武装者を誅(ちゅう)し、渾邪王の子、及び相国、都尉をとらえ、首虜は八千余級、

收休屠祭天金人益封去病二千戶

休屠祭天金人(休屠王の祭天の黄金の像)を収(おさ)め、漢驃騎將軍冠軍侯霍去病に二千戸を益封する」と。

其夏驃騎將軍與合騎侯敖俱出北地異道

その(元狩二年)夏、漢驃騎將軍冠軍侯霍去病は漢将合騎侯公孫敖とともに北地に出て、道を異(こと)にした。

博望侯張騫郎中令李廣俱出右北平異道

漢将博望侯張騫、漢将郎中令李広はともに右北平に出て道を異(こと)にした。

皆擊匈奴郎中令將四千騎先至博望侯將萬騎在後至

皆(みな)匈奴を撃った。漢将郎中令李広は四千騎を率(ひき)いて先(さき)に至り、漢将博望侯張騫が後(うし)ろに在(あ)って至った。

匈奴左賢王將數萬騎圍郎中令郎中令與戰二日死者過半所殺亦過當

匈奴の左賢王は数万騎を率(ひき)いて漢将郎中令李広を包囲(ほうい)し、漢将郎中令李広はともに戦うこと二日、死者は半分を越(こ)え、殺したところもまた当(とう)を越えていた。

博望侯至匈奴兵引去博望侯坐行留當斬贖為庶人

漢将博望侯張騫が至ると匈奴兵は引いて去った。漢将博望侯張騫は行くに滞(とどこお)ったことに罪を問われ、斬罪に当てられたが購(あがな)って庶人と為った。

而驃騎將軍出北地已遂深入與合騎侯失道不相得

しこうして漢驃騎將軍冠軍侯霍去病は北地に出て、すでに遂(つい)に深く入り、漢将合騎侯公孫敖と道を見失い、互いに得られなかった。

驃騎將軍踰居延至祁連山捕首虜甚多

漢驃騎將軍冠軍侯霍去病は居延を越えて祁連山に至り、首虜を捕らえること甚(はなは)だ多かった。

天子曰驃騎將軍踰居延遂過小月氏攻祁連山得酋涂王

天子(漢孝武帝劉徹)曰く、「驃騎將軍は居延を越えて、遂(つい)に小月氏に立ち寄り、祁連山を攻め、酋涂王をつかまえ、

以眾降者二千五百斬首虜三萬二百級獲五王五王母單于閼氏

衆の降(くだ)った者二千五百人、首を斬り虜をとらえること三万二百級、五人の王、五人の王の母、単于の閼氏、

王子五十九人相國將軍當戶都尉六十三人師大率減什三益封去病五千戶

王子五十九人、相国、将軍、当戸、都尉六十三人を獲(え)て、軍隊はおおむね十分の三を減(げん)じ、霍去病に五千戸を益封する。

賜校尉從至小月氏爵左庶長鷹擊司馬破奴再從驃騎將軍斬遬濮王

小月氏に至るに従った校尉に爵の左庶長を賜(たまわ)る。鷹擊司馬趙破奴は二度驃騎將軍に従い、遬濮王を斬り、

捕稽沮王千騎將得王王母各一人王子以下四十一人

稽沮王、千騎の将軍を捕(と)らえ、王、王の母各々一人、王子以下四十一人を得て、

捕虜三千三百三十人前行捕虜千四百人以千五百戶封破奴為從驃侯

虜(とりこ)を捕らえること三千三百三十人、前の行いで虜(とりこ)を捕らえること千四百人、千五百戸を以って趙破奴に封じ、從驃侯と為さしめる。

校尉句王高不識從驃騎將軍捕呼于屠王王子以下十一人

校尉句王高不識は驃騎將軍に従って呼于屠王、王子以下十一人を捕らえ、

捕虜千七百六十八人以千一百戶封不識為宜冠侯

虜(とりこ)を捕らえること千七百六十八人、千一百戸を以って高不識に封じ宜冠侯と為さしめる。

校尉仆多有功封為渠侯合騎侯敖坐行留不與驃騎會當斬贖為庶人

校尉僕多は功が有り、封じて渠侯と為さしめる」と。漢将合騎侯公孫敖は行き滞(とどこお)り驃騎将軍と会さなかったことを罪に問われ、斬罪に当てられたが購(あがな)って庶人と為った。

諸宿將所將士馬兵亦不如驃騎驃騎所將常選然亦敢深入

諸(もろもろ)の老将が率(ひき)いたところの士馬兵もまた漢驃騎将軍冠軍侯霍去病に及ばず、漢驃騎将軍冠軍侯霍去病が率(ひき)いたところは常(つね)に選ばれ、然るにまた敢(あ)えて深く入り、

常與壯騎先其大(將)軍軍亦有天幸未嘗困絕也

常(つね)に壮騎とともにその大軍に先(さき)んじ、軍もまた天の幸いを有(ゆう)し、未(いま)だ嘗(かつ)て物資が無くなって苦しんだことはなかったのである。

然而諸宿將常坐留落不遇由此驃騎日以親貴比大將軍

然しながら、諸(もろもろ)の老将は常(つね)に流浪(るろう)して罪に問われ不遇(ふぐう)であった。これに由(よ)り、漢驃騎将軍冠軍侯霍去病は日に日に親(した)しまれ貴ばれるを以ってし、漢大将軍長平侯衛青に並(なら)んだ。

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