青壯為侯家騎從平陽主
衛青が壮年になり、平陽侯家の騎士に為り、平陽主に従った。
建元二年春青姊子夫得入宮幸上
建元二年春、衛青の姉の衛子夫が宮に入るを得て上(漢孝武帝劉徹)にかわいがられた。
皇后堂邑大長公主女也無子妒
皇后は堂邑の大長公主の娘で、子が無く、妬(ねた)んだ。
大長公主聞衛子夫幸有身妒之乃使人捕青
大長公主は衛子夫が寵愛されて、身ごもっていると聞き、これを妬(ねた)み、そこで、人をつかわして衛青を捕(と)らえさせた。
青時給事建章未知名大長公主執囚青欲殺之
衛青はこの時、建章で給事をしており、未(ま)だ名を知られていなかった。大長公主は衛青をとらえて牢獄につなぎ、これを殺そうと欲した。
其友騎郎公孫敖與壯士往篡取之以故得不死
その友(とも)の騎郎の公孫敖が壮士とともに往(ゆ)き、これを奪(うば)い取り、故(ゆえ)を以って死なずを得た。
上聞乃召青為建章監侍中及同母昆弟貴賞賜數日累千金
上(漢孝武帝劉徹)は聞き、そこで衛青を召し寄せ建章監と為さしめ、中に侍(はべ)らせた。同母の兄弟に及んでは貴(とうと)ばれ、数日間、賞賜して千金を累積(るいせき)した。
孺為太仆公孫賀妻少兒故與陳掌通上召貴掌
衛孺は漢太僕公孫賀の妻と為った。衛少兒はもとより陳掌と通じ、上(漢孝武帝劉徹)は陳掌を召し寄せて貴(とうと)んだ。
公孫敖由此益貴子夫為夫人青為大中大夫
公孫敖はこれに由(よ)りますます貴(とうと)ばれた。衛子夫は夫人と為り、衛青は大中大夫と為った。
元光五年青為車騎將軍擊匈奴出上谷
元光五年、漢大中大夫衛青は車騎将軍に為って、匈奴を撃ちに上谷に出た。
太仆公孫賀為輕車將軍出雲中
漢太僕公孫賀は軽車将軍と為って雲中に出た。
大中大夫公孫敖為騎將軍出代郡
漢大中大夫公孫敖は騎将軍と為って代郡に出た。
衛尉李廣為驍騎將軍出雁門軍各萬騎
漢衛尉李広は驍騎將軍と為り、雁門に出た。軍は各々(おのおの)一万騎。
青至蘢城斬首虜數百騎將軍敖亡七千騎
漢車騎将軍大中大夫衛青は蘢城に至り、首を斬り虜(とりこ)をとらえること数百人。漢騎将軍大中大夫公孫敖は七千騎を亡(な)くした。
衛尉李廣為虜所得得脫歸皆當斬贖為庶人賀亦無功
漢驍騎將軍衛尉李広は敵(てき)のつかまえられるところと為り、脱出するを得て帰った。皆(みな)斬罪に当てられ、罪を購(あがな)って庶人と為った。漢軽車将軍太僕公孫賀もまた手柄(てがら)は無かった。
元朔元年春衛夫人有男立為皇后
元朔元年春、衛子夫夫人に男の子ができ、立って皇后と為った。
其秋青為車騎將軍出雁門三萬騎擊匈奴斬首虜數千人
その秋、漢大中大夫衛青は車騎将軍と為って、雁門に出て、三万騎で匈奴を撃(う)ち、首を斬ったり虜(とりこ)にすること数千人。
明年匈奴入殺遼西太守虜略漁陽二千餘人敗韓將軍軍
明くる年、匈奴は入って遼西太守を殺し、敵(てき)は漁陽の二千余人を略取して、韓将軍(漢衛尉材官将軍韓安国)の軍を敗(やぶ)った。
漢令將軍李息擊之出代令車騎將軍青出雲中以西至高闕
漢は将軍李息に令してこれを撃(う)たせ、代に出させた。漢車騎将軍大中大夫衛青に令して雲中に出させ、西に進んで高闕に至るを以ってせしめた。
遂略河南地至于隴西捕首虜數千畜數十萬
遂(つい)に河南の地を略取し、隴西に至り、首、虜(とりこ)を捕(と)らえること数千、家畜数十万、
走白羊樓煩王遂以河南地為朔方郡
白羊王、樓煩王を逃走させた。遂(つい)に河南の地を以って朔方郡と為した。
以三千八百戶封青為長平侯青校尉蘇建有功
三千八百戸を以って漢大中大夫衛青に封じて長平侯と為さしめた。衛青の校尉蘇建に手柄(てがら)が有り、
以千一百戶封建為平陵侯使建筑朔方城
一千一百戸を以って漢校尉蘇建に封じて平陵侯と為さしめた。平陵侯蘇建をつかわし朔方城を築(きず)かせた。
青校尉張次公有功封為岸頭侯天子曰
衛青の校尉張次公に手柄(てがら)が有り、封じて岸頭侯と為さしめた。天子(漢孝武帝劉徹)曰く、
匈奴逆天理亂人倫暴長虐老以盜竊為務
「匈奴は天の道理に逆(さか)らい、人倫を乱(みだ)し、長者をしいたげ、老人にむごいあつかいをし、窃盗(せっとう)を以って務(つと)めと為し、
行詐諸蠻夷造謀藉兵數為邊害故興師遣將以征厥罪
諸(もろもろ)の蛮夷(ばんい)をだまして、兵を借りる謀(はかりごと)を造(つく)り、たびたび辺境の害を為し、故(ゆえ)に軍隊を興(おこ)して将軍を遣(つか)わし、罪を征伐(せいばつ)するを以ってした。
詩不云乎薄伐玁狁至于太原
詩に云(い)わないか?、少しずつ獫狁(北方匈奴の一族)を討ち、大原に至る、
出車彭彭城彼朔方今車騎將軍青度西河至高闕
戦車を彭彭と出発させ 彼(か)の朔方に城を築(きず)く、と。今回、車騎将軍の衛青が西河を渡って
高闕に至り、
獲首虜二千三百級車輜畜產畢收為鹵已封為列侯
首、虜(とりこ)を獲(え)ること二千三百級、車輜(軍用の荷車)、家畜はことごとく収(おさ)められてぶんどり品と為り、すでに封じて列侯と為さしめた。
遂西定河南地按榆谿舊塞絕梓領梁北河討蒲泥
遂(つい)に西に進んで河南の地を平定し、榆谿の旧(ふる)い塞(とりで)を調べ、梓領を絶(た)ち、北河に橋をかけ、蒲泥を討(う)ち、
破符離斬輕銳之卒捕伏聽者三千七十一級執訊獲丑
符離を破(やぶ)り、軽鋭の兵を斬り、伏(ふ)して聴き入れた者を捕(と)らえること三千七十一級、
捕虜をとらえて手かせを獲(と)り、
驅馬牛羊百有餘萬全甲兵而還益封青三千戶
馬、牛、羊を追い立てること百有余万頭。甲兵を全(まっと)うして還(かえ)ったので、衛青に三千戸を益封する」と。
其明年匈奴入殺代郡太守友入略鴈門千餘人
その明くる年、匈奴が入り代郡太守の恭友を殺し、雁門に入って略(りゃく)すること千余人。
其明年匈奴大入代定襄上郡殺略漢數千人
その明くる年、匈奴が大挙して代、定襄、上郡に入り、漢の数千人を殺略した。
其明年元朔之五年春漢令車騎將軍青將三萬騎出高闕
その明くる年、元朔の五年春、漢は漢車騎将軍長平侯衛青に令して三万騎を率(ひき)いさせ、高闕に出させた。
衛尉蘇建為游擊將軍左內史李沮為彊弩將軍
漢衛尉平陵侯蘇建が游擊將軍に為り、漢左內史李沮が彊弩將軍に為り、
太仆公孫賀為騎將軍代相李蔡為輕車將軍
漢太僕公孫賀が騎将軍に為り、代相李蔡が軽車将軍に為り、
皆領屬車騎將軍俱出朔方大行李息
皆(みな)漢車騎将軍長平侯衛青に領属し、ともに朔方に出た。漢大行李息、
岸頭侯張次公為將軍出右北平
岸頭侯張次公が将軍に為り、右北平に出た。
咸擊匈奴匈奴右賢王當衛青等兵以為漢兵不能至此飲醉
あまねく匈奴を撃(う)った。匈奴の右賢王は漢車騎将軍長平侯衛青らの兵に当たり、漢兵がここに至ることができないと思い、飲んで酔(よ)った。
漢兵夜至圍右賢王右賢王驚夜逃
漢兵が夜に至り、右賢王を包囲した。右賢王は驚(おどろ)き、夜に逃げた。
獨與其愛妾一人壯騎數百馳潰圍北去
ただその愛妾(あいしょう)一人と壮騎数百とともに馳(は)せ、包囲の北を潰(つぶ)して去った。
漢輕騎校尉郭成等逐數百里不及得右賢裨王十餘人
漢軽騎校尉郭成らが追いかけること数百里(一里150m換算で約30km~)、追いつかず、右賢副王十余人、
眾男女萬五千餘人畜數千百萬於是引兵而還
男女の衆一万五千余人、家畜数千百万をつかまえ、ここに於いて兵を引いて還(かえ)った。
至塞天子使使者持大將軍印即軍中拜車騎將軍青為大將軍
塞(とりで)に至り、天子(漢孝武帝劉徹)は使者をつかわし大将軍印を持たせ、すなわち軍中で漢車騎将軍長平侯衛青に官をさずけて大将軍と為さしめた。
諸將皆以兵屬大將軍大將軍立號而歸
諸(もろもろ)の将軍は皆(みな)兵を以って漢大将軍長平侯衛青に属し、漢大将軍長平侯衛青はたちどころに号令して帰った。
天子曰大將軍青躬率戎士師大捷
天子(漢孝武帝劉徹)曰く、「大将軍衛青はみずから戎士を率(ひき)いて、軍隊は大いに戦いに勝ち、
獲匈奴王十有餘人益封青六千戶
匈奴(副)王十有余人を獲(え)たので、衛青に六千戸を益封する」と。
而封青子伉為宜春侯青子不疑為陰安侯青子登為發干侯
しこうして衛青の子の衛伉を封じて宜春侯と為さしめ、衛青の子の衛不疑を陰安侯に為さしめ、衛青の子の衛登を発干侯と為さしめようとした。
青固謝曰臣幸得待罪行陛下神靈
長平侯衛青は固(かた)く謝(しゃ)して曰く、「わたしは幸いにも軍営の中に任ぜられるを得て、陛下の神霊に頼(たよ)り、
軍大捷皆諸校尉力戰之功也
軍は大いに勝ち、皆(みな)諸(もろもろ)の校尉は力戦して手柄をたてました。
陛下幸已益封臣青臣青子在繦緥中未有勤勞
陛下は幸いにもすでにわたしに益封されましたが、わたしの子はむつき(おしめ)の中に在(あ)り、未(ま)だ勤労が有りません。
上幸列地封為三侯非臣待罪行所以勸士力戰之意也
上が幸いにも地を裂(さ)いて封じて三人を侯に為さしめるは、わたしが軍営の中に任ぜられ士に力戦を勧(すすめ)るを以ってするところの意(い)では非(あら)ざるなり。
伉等三人何敢受封天子曰我非忘諸校尉功也今固且圖之
衛伉ら三人がどうして敢(あ)えて封を受けましょうか」と。天子(漢孝武帝劉徹)曰く、「我(われ)は諸(もろもろ)の校尉の手柄を忘れているのでは非(あら)ざるなり。今にきっとまさにこれを図(はか)らん」と。
乃詔御史曰護軍都尉公孫敖三從大將軍擊匈奴
そこで、御史に詔(みことのり)して曰く、「護軍都尉公孫敖は三度(みたび)大将軍に従って匈奴を撃(う)ち、
常護軍傅校獲王以千五百戶封敖為合騎侯
常(つね)に軍を護(まも)り、校尉を補佐して王を獲(え)たので、千五百戸を以って公孫敖に封じ合騎侯と為さしめる。
都尉韓說從大將軍出窳渾至匈奴右賢王庭為麾下搏戰獲王
都尉韓説は大将軍に従って窳渾に出て、匈奴の右賢王の庭に至り、旗の下(もと)と為って戦いを補佐し王を獲(え)た。
以千三百戶封說為龍頟侯
千三百戸を以って韓説に封じ龍頟侯と為さしめる。
騎將軍公孫賀從大將軍獲王以千三百戶封賀為南窌侯
騎将軍公孫賀は大将軍に従って王を獲(え)た。千三百戸を以って公孫賀に封じ南窌侯と為さしめる。
輕車將軍李蔡再從大將軍獲王以千六百戶封蔡為樂安侯
軽車将軍李蔡は二度大将軍に従い王を獲(え)た。千六百戸を以って李蔡に封じ楽安侯と
為さしめる。
校尉李朔校尉趙不虞校尉公孫戎奴
校尉李朔、校尉趙不虞、校尉公孫戎奴は、
各三從大將軍獲王以千三百戶封朔為涉軹侯
各々(おのおの)が三度大将軍に従って王を獲(え)た。千三百戸を以って李朔に封じ涉軹侯と為さしめ、
以千三百戶封不虞為隨成侯以千三百戶封戎奴為從平侯
千三百戸を以って趙不虞に封じ隨成侯と為さしめ、千三百戸を以って公孫戎奴に封じ従平侯と為さしめる。
將軍李沮李息及校尉豆如意有功賜爵關內侯食邑各三百戶
将軍李沮、将軍李息、及び校尉豆如意は手柄が有り、爵の関内侯、食邑各々(おのおの)三百戸を賜(たまわ)る」と。
其秋匈奴入代殺都尉朱英
その秋、匈奴が代に入り、漢都尉朱英を殺した。
衛青が壮年になり、平陽侯家の騎士に為り、平陽主に従った。
建元二年春青姊子夫得入宮幸上
建元二年春、衛青の姉の衛子夫が宮に入るを得て上(漢孝武帝劉徹)にかわいがられた。
皇后堂邑大長公主女也無子妒
皇后は堂邑の大長公主の娘で、子が無く、妬(ねた)んだ。
大長公主聞衛子夫幸有身妒之乃使人捕青
大長公主は衛子夫が寵愛されて、身ごもっていると聞き、これを妬(ねた)み、そこで、人をつかわして衛青を捕(と)らえさせた。
青時給事建章未知名大長公主執囚青欲殺之
衛青はこの時、建章で給事をしており、未(ま)だ名を知られていなかった。大長公主は衛青をとらえて牢獄につなぎ、これを殺そうと欲した。
其友騎郎公孫敖與壯士往篡取之以故得不死
その友(とも)の騎郎の公孫敖が壮士とともに往(ゆ)き、これを奪(うば)い取り、故(ゆえ)を以って死なずを得た。
上聞乃召青為建章監侍中及同母昆弟貴賞賜數日累千金
上(漢孝武帝劉徹)は聞き、そこで衛青を召し寄せ建章監と為さしめ、中に侍(はべ)らせた。同母の兄弟に及んでは貴(とうと)ばれ、数日間、賞賜して千金を累積(るいせき)した。
孺為太仆公孫賀妻少兒故與陳掌通上召貴掌
衛孺は漢太僕公孫賀の妻と為った。衛少兒はもとより陳掌と通じ、上(漢孝武帝劉徹)は陳掌を召し寄せて貴(とうと)んだ。
公孫敖由此益貴子夫為夫人青為大中大夫
公孫敖はこれに由(よ)りますます貴(とうと)ばれた。衛子夫は夫人と為り、衛青は大中大夫と為った。
元光五年青為車騎將軍擊匈奴出上谷
元光五年、漢大中大夫衛青は車騎将軍に為って、匈奴を撃ちに上谷に出た。
太仆公孫賀為輕車將軍出雲中
漢太僕公孫賀は軽車将軍と為って雲中に出た。
大中大夫公孫敖為騎將軍出代郡
漢大中大夫公孫敖は騎将軍と為って代郡に出た。
衛尉李廣為驍騎將軍出雁門軍各萬騎
漢衛尉李広は驍騎將軍と為り、雁門に出た。軍は各々(おのおの)一万騎。
青至蘢城斬首虜數百騎將軍敖亡七千騎
漢車騎将軍大中大夫衛青は蘢城に至り、首を斬り虜(とりこ)をとらえること数百人。漢騎将軍大中大夫公孫敖は七千騎を亡(な)くした。
衛尉李廣為虜所得得脫歸皆當斬贖為庶人賀亦無功
漢驍騎將軍衛尉李広は敵(てき)のつかまえられるところと為り、脱出するを得て帰った。皆(みな)斬罪に当てられ、罪を購(あがな)って庶人と為った。漢軽車将軍太僕公孫賀もまた手柄(てがら)は無かった。
元朔元年春衛夫人有男立為皇后
元朔元年春、衛子夫夫人に男の子ができ、立って皇后と為った。
其秋青為車騎將軍出雁門三萬騎擊匈奴斬首虜數千人
その秋、漢大中大夫衛青は車騎将軍と為って、雁門に出て、三万騎で匈奴を撃(う)ち、首を斬ったり虜(とりこ)にすること数千人。
明年匈奴入殺遼西太守虜略漁陽二千餘人敗韓將軍軍
明くる年、匈奴は入って遼西太守を殺し、敵(てき)は漁陽の二千余人を略取して、韓将軍(漢衛尉材官将軍韓安国)の軍を敗(やぶ)った。
漢令將軍李息擊之出代令車騎將軍青出雲中以西至高闕
漢は将軍李息に令してこれを撃(う)たせ、代に出させた。漢車騎将軍大中大夫衛青に令して雲中に出させ、西に進んで高闕に至るを以ってせしめた。
遂略河南地至于隴西捕首虜數千畜數十萬
遂(つい)に河南の地を略取し、隴西に至り、首、虜(とりこ)を捕(と)らえること数千、家畜数十万、
走白羊樓煩王遂以河南地為朔方郡
白羊王、樓煩王を逃走させた。遂(つい)に河南の地を以って朔方郡と為した。
以三千八百戶封青為長平侯青校尉蘇建有功
三千八百戸を以って漢大中大夫衛青に封じて長平侯と為さしめた。衛青の校尉蘇建に手柄(てがら)が有り、
以千一百戶封建為平陵侯使建筑朔方城
一千一百戸を以って漢校尉蘇建に封じて平陵侯と為さしめた。平陵侯蘇建をつかわし朔方城を築(きず)かせた。
青校尉張次公有功封為岸頭侯天子曰
衛青の校尉張次公に手柄(てがら)が有り、封じて岸頭侯と為さしめた。天子(漢孝武帝劉徹)曰く、
匈奴逆天理亂人倫暴長虐老以盜竊為務
「匈奴は天の道理に逆(さか)らい、人倫を乱(みだ)し、長者をしいたげ、老人にむごいあつかいをし、窃盗(せっとう)を以って務(つと)めと為し、
行詐諸蠻夷造謀藉兵數為邊害故興師遣將以征厥罪
諸(もろもろ)の蛮夷(ばんい)をだまして、兵を借りる謀(はかりごと)を造(つく)り、たびたび辺境の害を為し、故(ゆえ)に軍隊を興(おこ)して将軍を遣(つか)わし、罪を征伐(せいばつ)するを以ってした。
詩不云乎薄伐玁狁至于太原
詩に云(い)わないか?、少しずつ獫狁(北方匈奴の一族)を討ち、大原に至る、
出車彭彭城彼朔方今車騎將軍青度西河至高闕
戦車を彭彭と出発させ 彼(か)の朔方に城を築(きず)く、と。今回、車騎将軍の衛青が西河を渡って
高闕に至り、
獲首虜二千三百級車輜畜產畢收為鹵已封為列侯
首、虜(とりこ)を獲(え)ること二千三百級、車輜(軍用の荷車)、家畜はことごとく収(おさ)められてぶんどり品と為り、すでに封じて列侯と為さしめた。
遂西定河南地按榆谿舊塞絕梓領梁北河討蒲泥
遂(つい)に西に進んで河南の地を平定し、榆谿の旧(ふる)い塞(とりで)を調べ、梓領を絶(た)ち、北河に橋をかけ、蒲泥を討(う)ち、
破符離斬輕銳之卒捕伏聽者三千七十一級執訊獲丑
符離を破(やぶ)り、軽鋭の兵を斬り、伏(ふ)して聴き入れた者を捕(と)らえること三千七十一級、
捕虜をとらえて手かせを獲(と)り、
驅馬牛羊百有餘萬全甲兵而還益封青三千戶
馬、牛、羊を追い立てること百有余万頭。甲兵を全(まっと)うして還(かえ)ったので、衛青に三千戸を益封する」と。
其明年匈奴入殺代郡太守友入略鴈門千餘人
その明くる年、匈奴が入り代郡太守の恭友を殺し、雁門に入って略(りゃく)すること千余人。
其明年匈奴大入代定襄上郡殺略漢數千人
その明くる年、匈奴が大挙して代、定襄、上郡に入り、漢の数千人を殺略した。
其明年元朔之五年春漢令車騎將軍青將三萬騎出高闕
その明くる年、元朔の五年春、漢は漢車騎将軍長平侯衛青に令して三万騎を率(ひき)いさせ、高闕に出させた。
衛尉蘇建為游擊將軍左內史李沮為彊弩將軍
漢衛尉平陵侯蘇建が游擊將軍に為り、漢左內史李沮が彊弩將軍に為り、
太仆公孫賀為騎將軍代相李蔡為輕車將軍
漢太僕公孫賀が騎将軍に為り、代相李蔡が軽車将軍に為り、
皆領屬車騎將軍俱出朔方大行李息
皆(みな)漢車騎将軍長平侯衛青に領属し、ともに朔方に出た。漢大行李息、
岸頭侯張次公為將軍出右北平
岸頭侯張次公が将軍に為り、右北平に出た。
咸擊匈奴匈奴右賢王當衛青等兵以為漢兵不能至此飲醉
あまねく匈奴を撃(う)った。匈奴の右賢王は漢車騎将軍長平侯衛青らの兵に当たり、漢兵がここに至ることができないと思い、飲んで酔(よ)った。
漢兵夜至圍右賢王右賢王驚夜逃
漢兵が夜に至り、右賢王を包囲した。右賢王は驚(おどろ)き、夜に逃げた。
獨與其愛妾一人壯騎數百馳潰圍北去
ただその愛妾(あいしょう)一人と壮騎数百とともに馳(は)せ、包囲の北を潰(つぶ)して去った。
漢輕騎校尉郭成等逐數百里不及得右賢裨王十餘人
漢軽騎校尉郭成らが追いかけること数百里(一里150m換算で約30km~)、追いつかず、右賢副王十余人、
眾男女萬五千餘人畜數千百萬於是引兵而還
男女の衆一万五千余人、家畜数千百万をつかまえ、ここに於いて兵を引いて還(かえ)った。
至塞天子使使者持大將軍印即軍中拜車騎將軍青為大將軍
塞(とりで)に至り、天子(漢孝武帝劉徹)は使者をつかわし大将軍印を持たせ、すなわち軍中で漢車騎将軍長平侯衛青に官をさずけて大将軍と為さしめた。
諸將皆以兵屬大將軍大將軍立號而歸
諸(もろもろ)の将軍は皆(みな)兵を以って漢大将軍長平侯衛青に属し、漢大将軍長平侯衛青はたちどころに号令して帰った。
天子曰大將軍青躬率戎士師大捷
天子(漢孝武帝劉徹)曰く、「大将軍衛青はみずから戎士を率(ひき)いて、軍隊は大いに戦いに勝ち、
獲匈奴王十有餘人益封青六千戶
匈奴(副)王十有余人を獲(え)たので、衛青に六千戸を益封する」と。
而封青子伉為宜春侯青子不疑為陰安侯青子登為發干侯
しこうして衛青の子の衛伉を封じて宜春侯と為さしめ、衛青の子の衛不疑を陰安侯に為さしめ、衛青の子の衛登を発干侯と為さしめようとした。
青固謝曰臣幸得待罪行陛下神靈
長平侯衛青は固(かた)く謝(しゃ)して曰く、「わたしは幸いにも軍営の中に任ぜられるを得て、陛下の神霊に頼(たよ)り、
軍大捷皆諸校尉力戰之功也
軍は大いに勝ち、皆(みな)諸(もろもろ)の校尉は力戦して手柄をたてました。
陛下幸已益封臣青臣青子在繦緥中未有勤勞
陛下は幸いにもすでにわたしに益封されましたが、わたしの子はむつき(おしめ)の中に在(あ)り、未(ま)だ勤労が有りません。
上幸列地封為三侯非臣待罪行所以勸士力戰之意也
上が幸いにも地を裂(さ)いて封じて三人を侯に為さしめるは、わたしが軍営の中に任ぜられ士に力戦を勧(すすめ)るを以ってするところの意(い)では非(あら)ざるなり。
伉等三人何敢受封天子曰我非忘諸校尉功也今固且圖之
衛伉ら三人がどうして敢(あ)えて封を受けましょうか」と。天子(漢孝武帝劉徹)曰く、「我(われ)は諸(もろもろ)の校尉の手柄を忘れているのでは非(あら)ざるなり。今にきっとまさにこれを図(はか)らん」と。
乃詔御史曰護軍都尉公孫敖三從大將軍擊匈奴
そこで、御史に詔(みことのり)して曰く、「護軍都尉公孫敖は三度(みたび)大将軍に従って匈奴を撃(う)ち、
常護軍傅校獲王以千五百戶封敖為合騎侯
常(つね)に軍を護(まも)り、校尉を補佐して王を獲(え)たので、千五百戸を以って公孫敖に封じ合騎侯と為さしめる。
都尉韓說從大將軍出窳渾至匈奴右賢王庭為麾下搏戰獲王
都尉韓説は大将軍に従って窳渾に出て、匈奴の右賢王の庭に至り、旗の下(もと)と為って戦いを補佐し王を獲(え)た。
以千三百戶封說為龍頟侯
千三百戸を以って韓説に封じ龍頟侯と為さしめる。
騎將軍公孫賀從大將軍獲王以千三百戶封賀為南窌侯
騎将軍公孫賀は大将軍に従って王を獲(え)た。千三百戸を以って公孫賀に封じ南窌侯と為さしめる。
輕車將軍李蔡再從大將軍獲王以千六百戶封蔡為樂安侯
軽車将軍李蔡は二度大将軍に従い王を獲(え)た。千六百戸を以って李蔡に封じ楽安侯と
為さしめる。
校尉李朔校尉趙不虞校尉公孫戎奴
校尉李朔、校尉趙不虞、校尉公孫戎奴は、
各三從大將軍獲王以千三百戶封朔為涉軹侯
各々(おのおの)が三度大将軍に従って王を獲(え)た。千三百戸を以って李朔に封じ涉軹侯と為さしめ、
以千三百戶封不虞為隨成侯以千三百戶封戎奴為從平侯
千三百戸を以って趙不虞に封じ隨成侯と為さしめ、千三百戸を以って公孫戎奴に封じ従平侯と為さしめる。
將軍李沮李息及校尉豆如意有功賜爵關內侯食邑各三百戶
将軍李沮、将軍李息、及び校尉豆如意は手柄が有り、爵の関内侯、食邑各々(おのおの)三百戸を賜(たまわ)る」と。
其秋匈奴入代殺都尉朱英
その秋、匈奴が代に入り、漢都尉朱英を殺した。