今太后以小睗苛禮責望梁王
今太后以小睗苛禮責望梁王 今、竇太后は細かな礼式を少しあなどられる(睗=見易?)を以って梁王劉武を責めうらみましたが、 梁王父兄皆帝王所見者大故出稱蹕 梁王劉武の父兄は皆(みな)帝王で、見(まみ)えるところの者は大者で、故(ゆえ)に出るときはさき払(ばら)いを称(とな)え、 入言警車旗皆帝所賜也即欲以侘鄙縣...
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今梁使來輒案責之 今、梁の使者が来ると、そのたびごとにこれを取り調べて責めました。 梁王恐日夜涕泣思慕不知所為 梁王(劉武)は恐れ、日夜涙を流して思慕(しぼ)し、為すところを知りません。 何梁王之為子孝為臣忠而太后弗恤也 どうして梁王(劉武)の子として孝で、臣下として忠であるのに、竇太后はあわれまないのですか?」と。 大長公主具以告太后太后喜曰...
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其後安國坐法抵罪蒙獄吏田甲辱安國 その後、梁中大夫韓安国は罪にふれて法に問われ、おろかな梁獄吏の田甲が韓安国を辱(はずかし)めた。 安國曰死灰獨不復然乎田甲曰 韓安国曰く、「燃えつきた灰(はい)ははたしてまた燃え上がらないだろうか?」と。田甲曰く、 然即溺之居無何梁內史缺 「燃えあがれば、ただちにこれに小便をかける」と。いくばくもたたないうちに、梁の内史がたりなくなった。...
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建元中武安侯田蚡為漢太尉 建元中、武安侯田蚡が漢太尉と為った。 親貴用事安國以五百金物遺蚡 親(した)しみ貴(とうと)ばれ事に用いられ、韓安国は五百金の物を以って漢太尉武安侯田蚡に贈(おく)った。蚡言安國太后天子亦素聞其賢 漢太尉武安侯田蚡は韓安国を言い、王太后、天子(漢孝武帝劉徹)もまた素(もと)よりその賢さを聞いており、 即召以為北地都尉遷為大司農...
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安國為人多大略智足以當世取合而出於忠厚焉 漢御史大夫韓安国の人と為(な)りは大略(たいりゃく)を多(た)とし、智(ち)は当世を以って合理を取るに足(た)り、そして忠孝(厚=孝?)に於いてすぐれていた。 貪嗜於財所推舉皆廉士賢於己者也 人材(財=材?)をむさぼり、推挙(すいきょ)するところは皆(みな)己(おのれ)より廉士(れんし)、賢者の者であった。...
View Article史記 李将軍列伝 始め
李將軍廣者隴西成紀人也 李将軍広という者は隴西の成紀の人である。 其先曰李信秦時為將逐得燕太子丹者也 その先祖は李信といい、秦の時に将軍に為り、燕太子姫丹を追いかけてつかまえた者である。 故槐裏徙成紀廣家世世受射 以前は槐里で、成紀に移った。李広の家は代々(だいだい)弓術を受け継いだ。 孝文帝十四年匈奴大入蕭關而廣以良家子從軍擊胡...
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及孝景初立廣為隴西都尉徙為騎郎將 漢孝景帝劉啓が立ったばかりのとき、漢中郎武騎常侍李広は隴西都尉と為り、移って騎郎将と為った。吳楚軍時廣為驍騎都尉 呉楚軍の時、隴西都尉騎郎将李広は驍騎都尉と為った。 從太尉亞夫擊吳楚軍取旗顯功名昌邑下 漢太尉條侯周亞夫に従って呉楚軍を撃ち、旗を取って、功名(こうみょう)を昌邑の下(もと)に顕(あきら)かにした。 以梁王授廣將軍印還賞不行...
View Article已縛之上馬望匈奴有數千騎見廣
已縛之上馬望匈奴有數千騎見廣 すでにこれを縛(しば)り馬に上(あ)げたとき、匈奴の数千騎が有るのを望(のぞ)み見た。(匈奴は)辺郡太守李広を見て、 以為誘騎皆驚上山陳 敵を誘(さそ)いだすための騎兵だと思い、皆(みな)驚いて、山に上(あ)がりしき並(なら)んだ。 廣之百騎皆大恐欲馳還走 辺郡太守李広の百騎は皆(みな)大いに恐れ、馳(は)せ還(かえ)り逃げることを欲した。...
View Article居久之孝景崩武帝立左右以為廣名將也
居久之孝景崩武帝立左右以為廣名將也 居ること久しくして、漢孝景帝劉啓が崩じ、漢孝武帝劉徹が立ち、左右の者は李広を名将と思い、 於是廣以上郡太守為未央衛尉而程不識亦為長樂衛尉 ここに於いて李広は上郡太守を以って未央衛尉と為り、そして、程不識もまた長楽衛尉と為った。 程不識故與李廣俱以邊太守將軍屯 程不識は以前、李広とともに辺境の太守の将軍を以って屯(とん)した。 及出擊胡而廣行無部伍行陳就善水草屯...
View Article單于素聞廣賢令曰得李廣必生致之
單于素聞廣賢令曰得李廣必生致之 単于(匈奴王)は素(もと)より李広の賢(かしこ)さを聞いており、令して曰く、「李広をつかまえたら必ず生きたままこれを致(いた)せよ」と。 胡騎得廣廣時傷病置廣兩馬絡而盛臥廣 匈奴の騎兵が漢将李広をつかまえ、漢将李広はこの時傷(きず)を病み、二頭の馬の間(あいだ)に漢将李広を置き、絡(から)めて漢将李広を横たえて積んだ。 行十餘里廣詳死睨其旁有一胡兒騎善馬...
View Article廣居右北平匈奴聞之號曰漢之飛將軍
廣居右北平匈奴聞之號曰漢之飛將軍 右北平太守李広は右北平に居(きょ)し、匈奴はこれを聞き、号して曰く、「漢の飛将軍」と。 避之數歲不敢入右北平 これを避(さ)けること数年、敢(あ)えて右北平に入らなかった。 廣出獵見草中石以為虎而射之中石沒鏃視之石也 右北平李広が猟に出て、草の中の石を見て、虎(とら)だと思ってこれを射(い)た。石にあたって鏃(やじり)をうずめ、これを視(み)ると石であった。...
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居頃之石建卒於是上召廣代建為郎中令 居ることしばらくして、石建が亡くなり、ここに於いて、上(漢孝武帝劉徹)は右北平太守李広を召し寄せ石建に代(か)えて郎中令と為さしめた。 元朔六年廣復為後將軍從大將軍軍出定襄擊匈奴 元朔六年、漢郎中令李広はまた後将軍と為って、大将軍に従って、軍は定襄に出て匈奴を撃(う)った。 諸將多中首虜率以功為侯者而廣軍無功...
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初廣之從弟李蔡與廣俱事孝文帝 以前、李広の従弟(いとこ)の李蔡が李広とともに漢孝文帝劉恒に仕(つか)えた。 景帝時蔡積功勞至二千石 漢孝景帝劉啓時、李蔡は功労を積(つ)んで二千石に至った。 孝武帝時至代相以元朔五年為輕車將車 漢孝武帝劉徹時、代相に至った。元朔五年を以って軽車将軍と為り、 從大將軍擊右賢王有功中率封為樂安侯...
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後二歲大將軍驃騎將軍大出擊匈奴廣數自請行 二年後、漢大将軍衛青、漢驃騎將軍霍去病が匈奴を撃ちに大挙して出て、漢郎中令李広はたびたび自ら行くことを請(こ)うた。 天子以為老弗許良久乃許之以為前將軍是歲元狩四年也 天子(漢孝武帝劉徹)は老いていると思い聞き入れなかった。しばらくしてすなわちこれを許し、前将軍と為すを以ってした。この年は元狩四年である。 廣既從大將軍青擊匈奴既出塞青捕虜知單于所居...
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至莫府廣謂其麾下曰廣結發與匈奴大小七十餘戰 幕府に至ると、漢前将軍郎中令李広はその旗の下に謂(い)った、曰く、「わたしは弓矢を交(まじ)え匈奴と大小七十余り戦ったが、 今幸從大將軍出接單于兵而大將軍又徙廣部行回遠 今、幸いにも大将軍が出征して単于(匈奴王)兵に接することに従ったが、しかし、大将軍はまたわたしの部隊を移して曲がりくねって遠い道を行かせ、...
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李陵既壯選為建章監監諸騎 李陵がすでに壮年になり、選ばれて建章監と為り、諸(もろもろ)の騎兵を監督した。 善射愛士卒天子以為李氏世將而使將八百騎 弓を射ることが上手く、士卒を愛した。天子(漢孝武帝劉徹)は李氏が代々将軍と為っていることを思い、しこうして八百騎を率(ひき)いさせた。 嘗深入匈奴二千餘里過居延視地形無所見虜而還...
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大將軍衛青者平陽人也 大将軍衛青という者は平陽の人である。 其父鄭季為吏給事平陽侯家與侯妾衛媼通生青 その父の鄭季は役人に為って、平陽侯の家で給事をし、平陽侯の妾(めかけ)の衛媼と通じ、青を生(う)んだ。 青同母兄衛長子而姊衛子夫自平陽公主家得幸天子故冒姓為衛氏 衛青の同母兄は衛長子で、そして姉は衛子夫で平陽公主(武帝劉徹の姉)の家から天子(漢孝武帝劉徹)に寵愛を得て、故(ゆえ)に衛氏をかたった。...
View Article青壯為侯家騎從平陽主
青壯為侯家騎從平陽主 衛青が壮年になり、平陽侯家の騎士に為り、平陽主に従った。 建元二年春青姊子夫得入宮幸上 建元二年春、衛青の姉の衛子夫が宮に入るを得て上(漢孝武帝劉徹)にかわいがられた。 皇后堂邑大長公主女也無子妒 皇后は堂邑の大長公主の娘で、子が無く、妬(ねた)んだ。 大長公主聞衛子夫幸有身妒之乃使人捕青...
View Article其明年春大將軍青出定襄
其明年春大將軍青出定襄合騎侯敖為中將軍 その明くる年(元朔六年)春、漢大将軍長平侯衛青は定襄に出て、合騎侯公孫敖は中将軍と為り、 太仆賀為左將軍翕侯趙信為前將軍衛尉蘇建為右將軍 漢太僕公孫賀は左将軍に為り、翕侯趙信が前将軍に為り、漢衛尉蘇建が右将軍に為り、 郎中令李廣為後將軍右內史李沮為彊弩將軍咸屬大將軍斬首數千級而還...
View Article其秋單于怒渾邪王居西方
其秋單于怒渾邪王居西方數為漢所破亡數萬人以驃騎之兵也 その(元狩二年)秋、単于は渾邪王が西方の居し、たびたび漢の破(やぶ)るところと為って数万人を亡(な)くし、驃騎将軍の兵を以ってしたのを怒(おこ)った。 單于怒欲召誅渾邪王渾邪王與休屠王等謀欲降漢使人先要邊 単于は怒って渾邪王を召し寄せて誅(ちゅう)することを欲した。渾邪王は休屠王らと謀(はか)り、...
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