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其後安國坐法抵罪蒙獄吏田甲辱安國

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其後安國坐法抵罪蒙獄吏田甲辱安國

その後、梁中大夫韓安国は罪にふれて法に問われ、おろかな梁獄吏の田甲が韓安国を辱(はずかし)めた。

安國曰死灰獨不復然乎田甲曰

韓安国曰く、「燃えつきた灰(はい)ははたしてまた燃え上がらないだろうか?」と。田甲曰く、

然即溺之居無何梁內史缺

「燃えあがれば、ただちにこれに小便をかける」と。いくばくもたたないうちに、梁の内史がたりなくなった。

漢使使者拜安國為梁內史起徒中為二千石

漢は使者をつかわして韓安国に官をさずけて梁内史と為さしめ、徒刑の中から登用されて二千石に為った。

田甲亡走安國曰甲不就官我滅而宗

梁獄吏田甲は逃げ走った。梁内史漢安国曰く、「田甲が官職に就(つ)かなければ、我(われ)はなんじの一族を滅(ほろ)ぼす」と。

甲因肉袒謝安國笑曰

田甲は因(よ)りて上半身はだぬぎになって謝(しゃ)した。梁内史韓安国は笑って曰く、

可溺矣公等足與治乎卒善遇之

「小便をかけるべきだろうに。公など処分にあずかるに足るだろうか」とうとうこれを善遇(ぜんぐう)した。

梁內史之缺也孝王新得齊人公孫詭

梁の内史の欠員は、梁孝王劉武が新(あら)たに斉人の公孫詭を得て、

說之欲請以為內史

これを悦(よろこ)び、梁内史と為すことを請(こ)おうと欲したが、

竇太后聞乃詔王以安國為內史

竇太后が聞いて、そこで梁孝王劉武に詔(みことのり)して韓安国を以って梁内史と為さしめたのである。

公孫詭羊勝說孝王求為帝太子及益地事

公孫詭、羊勝は梁孝王劉武に漢帝の太子に為ること、及び領地を増やす事を求めることを説(と)いた。

恐漢大臣不聽乃陰使人刺漢用事謀臣

漢の大臣たちが聴き入れないことを恐れ、そこでひそかに人をつかわし、漢の事をもっぱらにする謀臣(ぼうしん)を刺(さ)させた。

及殺故吳相袁盎景帝遂聞詭勝等計畫

前の呉相袁盎を殺すに及んで、漢孝景帝劉啓は遂(つい)に公孫詭、羊勝らの計画を聞き、

乃遣使捕詭勝必得

そこで使者を遣(つか)わして、公孫詭、羊勝を必ずつかまえるよう捕(と)らえさせた。

漢使十輩至梁相以下舉國大索月餘不得

漢の使者が十輩、梁に至り、宰相以下が国を挙(あ)げて大捜索したが、一ヶ月余りしてもつかまえられなかった。

內史安國聞詭勝匿孝王所安國入見王而泣曰

梁内史韓安国は公孫詭、羊勝が梁孝王劉武のところに匿(かくま)われていることを聞き、梁内史韓安国は梁孝王劉武に入見して、泣いて曰く、

主辱臣死大王無良臣故事紛紛至此

「主(あるじ)が辱められれば、臣下は死にます。大王には良臣が無く、故(ゆえ)に事は紛紛(ふんぷん)と入れ乱れてここに至ったのです。

今詭勝不得請辭賜死

今、公孫詭、羊勝はつかまえられず、辞(じ)して死を賜(たまわ)ることを請(こ)う」と。

王曰何至此安國泣數行下曰

梁孝王劉武曰く、「どうしてここに至ったのか?」と。梁内史韓安国は涙をぼろぼろと流して、曰く、

大王自度於皇帝孰與太上皇之與高皇帝及皇帝之與臨江王親

「大王は自らを皇帝に於いてをはかるに、太上皇(劉邦の父)の高皇帝(劉邦)にあずかるのと
及び皇帝(漢孝景帝劉啓)の臨江王劉栄にあずかるのと、どちらが親(した)しいですか?」と。

孝王曰弗如也安國曰

梁孝王劉武曰く、「およばない」と。梁内史韓安国曰く、

夫太上臨江親父子之然而高帝曰

「それ、太上皇、臨江王が父子の間に親(した)しみましたが、然(しか)しながら、高帝(劉邦)曰く、

提三尺劍取天下者朕也

三尺の剣を提(さ)げて天下を取る者は朕(ちん)である、と。

故太上皇終不得制事居于櫟陽

故(ゆえ)に太上皇(劉邦の父)はとうとう事を制することを得られず、櫟陽に居(きょ)したのです。

臨江王適長太子也以一言過廢王臨江

臨江王劉栄は後継ぎの長男の漢太子であり、たった一言の過(あやま)ちを以って、(太子を)廃されて、臨江で王になりましたが、

用宮垣事卒自殺中尉府

宮殿の垣根の事を用いて、とうとう漢中尉府で自殺しました。

何者治天下終不以私亂公

どうしてかというと、天下を治(おさ)めるは終いまで私を以って公を乱してはならないからです。

語曰雖有親父安知其不為虎

言葉に曰く、『親しい父が有ると雖(いえど)も、どうしてその虎(とら)と為らずを知ろうか。

雖有親兄安知其不為狼

親しい兄が有ると雖(いえど)も、どうしてその狼(おおかみ)と為らずを知ろうか』と。

今大王列在諸侯一邪臣浮說犯上禁橈明法

今、大王は諸侯に並(なら)び在(あ)って、ただ邪臣の浮かれた説に悦(よろこ)び、上の禁令を犯して、明法を撓(たわ)めました。

天子以太后故不忍致法於王

天子(漢孝景帝劉啓)は竇太后の故(ゆえ)を以って、王(梁孝王劉武)を法にかけることに忍ばれず、

太后日夜涕泣幸大王自改而大王終不覺寤

竇太后は日夜、涙を流して泣き、大王(梁孝王劉武)が自らを改めることをこいねがっていますが、大王(梁孝王劉武)は終いまで目覚めませんでした。

有如太后宮車即晏駕大王尚誰攀乎

竇太后が崩ずるに及ぶことが有れば、大王(梁孝王劉武)は誰に助けを願うのですか?」と。

語未卒孝王泣數行下謝安國曰

話が終わらないうちに、梁孝王劉武は涙をぼろぼろとながして、梁内史韓安国に謝(しゃ)して曰く、

吾今出詭勝詭勝自殺

「吾(われ)は今、公孫詭、羊勝を出す」と。公孫詭、羊勝は自殺した。

漢使還報梁事皆得釋安國之力也

漢の使者は還(かえ)って報告し、梁の事は皆(みな)ゆるされるを得たのは、梁内史韓安国の力であった。

於是景帝太后益重安國

ここに於いて漢孝景帝劉啓、竇太后はますます梁内史韓安国を重んじた。

孝王卒共王即位安國坐法失官居家

梁孝王劉武がなくなり、梁共王劉買が即位すると、梁内史韓安国は法に問われて官位を失い、隠居した。

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