建元中武安侯田蚡為漢太尉
建元中、武安侯田蚡が漢太尉と為った。
親貴用事安國以五百金物遺蚡
親(した)しみ貴(とうと)ばれ事に用いられ、韓安国は五百金の物を以って漢太尉武安侯田蚡に贈(おく)った。
蚡言安國太后天子亦素聞其賢
漢太尉武安侯田蚡は韓安国を言い、王太后、天子(漢孝武帝劉徹)もまた素(もと)よりその賢さを聞いており、
即召以為北地都尉遷為大司農
すなわち、召し寄せ、北地都尉と為すを以ってし、遷(うつ)して大司農と為さしめた。
閩越東越相攻安國及大行王恢將
閩越、東越が互いに攻(せ)めあい、漢大司農韓安国及び漢大行王恢が兵を率いた。
未至越越殺其王降漢兵亦罷
未(ま)だ越に至らないうちに、越はその王を殺して降(くだ)り、漢兵もまた中止した。
建元六年武安侯為丞相安國為御史大夫
建元六年、漢太尉武安侯田蚡が丞相と為り、漢大司農韓安国が御史大夫と為った。
匈奴來請和親天子下議
匈奴が和親(わしん)を請(こ)いに来た。天子(漢孝武帝劉徹)は議(ぎ)に下(くだ)した。
大行王恢燕人也數為邊吏習知胡事
漢大行王恢は燕の人であり、たびたび辺境の役人に為って、匈奴の事を習(なら)い知っていた。
議曰漢與匈奴和親率不過數歲即復倍約
議(ぎ)して曰く、「漢が匈奴と和親(わしん)し、おおかた数年を過ぎずしてまた約束にそむくでしょう。
不如勿許興兵擊之安國曰
聞き入れずに兵を興(おこ)してこれを撃(う)つにこしたことはありません」と。漢御史大夫韓安国曰く、
千里而戰兵不獲利
「千里の遠くにして戦えば、兵は利(り)を獲(え)ません。
今匈奴負戎馬之足懷禽獸之心
今、匈奴は戎馬の足をたのみにして、禽獣(きんじゅう)の心を懐(いだ)き、
遷徙鳥舉難得而制也
鳥の挙動のように移り、つかまえて制するのは難(むずか)かしいのです。
得其地不足以為廣有其眾不足以為彊自上古不屬為人
その地を得ても広めようと思うには足らず、その衆を有しても強めようと思うには足らず、上古より人としてたのめないのです。
漢數千里爭利則人馬罷虜以全制其敝
漢が数千里を行き利(り)を争えば、すなわち人馬は疲弊(ひへい)し、匈奴は全(まっと)うしているのを以ってその疲弊(ひへい)を制(せい)することでしょう。
且彊弩之極矢不能穿魯縞沖風之末力不能漂鴻毛
まさに強弩が極(きわ)まれば、矢(や)は魯の薄絹(うすぎぬ)も穿(うが)つことができず、つむじ風の末(すえ)では、力(ちから)は鴻毛(おおとりの羽)も漂(ただよ)わせることができません。
非初不勁末力衰也擊之不便不如和親
初めが強くないのではなく、末(すえ)に力が衰(おとろ)えるのです。これを撃つのは不便であり、和親(わしん)するにこしたことはありません」と。
群臣議者多附安國於是上許和親
群臣の議(ぎ)する者は多くが漢御史大夫韓安国に附(つ)き、ここに於いて上(漢孝武帝劉徹)は
和親を聴き入れた。
其明年則元光元年雁門馬邑豪聶翁壹因大行王恢言上曰
その明くる年、すなわち元光元年、雁門馬邑の豪族の聶翁壹が漢大行王恢に因(よ)りて言上して曰く、
匈奴初和親親信邊可誘以利陰使聶翁壹為
「匈奴は和親(わしん)したばかりで、辺境に親しみ信じ、利(り)を以って誘(さそ)うべきです」と。ひそかに聶翁壹をつかわし、間者と為さしめ、
亡入匈奴謂單于曰吾能斬馬邑令丞吏以城降財物可盡得
匈奴に逃げ入らせ、單于(匈奴王)に謂(い)った、曰く、「吾(われ)は馬邑の令(官名)、丞(官名)、役人を斬ることができます。城を以って降(くだ)せば、財物はことごとく得ることができます」と。
單于愛信之以為然許聶翁壹聶翁壹乃還詐斬死罪囚
單于(匈奴王)はこれを愛(め)でて信じ、その通りだと思い、聶翁壹を聴き入れた。聶翁壹はそこで還(かえ)り、偽(いつわ)って死罪の囚人を斬り、
縣其頭馬邑城示單于使者為信曰馬邑長吏已死可急來
その頭を馬邑の城壁に懸(か)けて、単于(匈奴王)の使者に示(しめ)して信じさせた。曰く、「馬邑の長、吏はすでに死に、急(いそ)いで来るべきだ」と。
於是單于穿塞將十餘萬騎入武州塞
ここに於いて単于(匈奴王)は塞(とりで)を穿(うが)って十余万騎を率(ひき)いて、武州の塞(とりで)に入ろうとした。
當是時漢伏兵車騎材官二十餘萬匿馬邑旁谷中衛尉李廣為驍騎將軍
ちょうどこの時、漢は兵、車騎、材官の二十余万を伏(ふ)せて、馬邑の傍(かたわ)らの谷の中に隠(かく)した。漢衛尉李広が驍騎將軍と為り、
太仆公孫賀為輕車將軍大行王恢為將屯將軍太中大夫李息為材官將軍
漢太僕公孫賀が軽車将軍に為り、漢大行王恢が将屯将軍に為り、漢太中大夫李息が材官将軍に為った。
御史大夫韓安國為護軍將軍諸將皆屬護軍約單于入馬邑而漢兵縱發
漢御史大夫韓安国が護軍将軍に為り、諸(もろもろ)の将軍は皆(みな)護軍将軍に属(ぞく)した。
単于(匈奴王)が馬邑に入れば、漢兵は放(はな)たれ発されることを約した。
王恢李息李廣別從代主擊其輜重於是單于入漢長城武州塞
漢将屯将軍大行王恢、漢材官将軍太中大夫李息、漢驍騎將軍衛尉李広は別(わか)れて、代(地名)から主(おも)にその輜重(武器や食糧など)を撃(う)つことにした。ここに於いて、単于(匈奴王)は漢の長城の武州の塞(とりで)に入った。
未至馬邑百餘里行掠鹵徒見畜牧於野不見一人單于怪之攻烽燧得武州尉史
未(ま)だ馬邑に至らない百余里(一里150m換算で約15km余り)手前で、掠(かす)め
取ることを行おうとし、単に家畜を野に於いて見ただけで、一人も見えなかった。
単于(匈奴王)はこれを怪(あや)しみ、のろしを攻(せ)め、武州の尉史をつかまえた。
欲刺問尉史尉史曰漢兵數十萬伏馬邑下單于顧謂左右曰
刺そうと欲して尉史を問(と)うた。尉史曰く、「漢兵の数十万は馬邑の下(もと)に伏(ふ)せている」と。単于(匈奴王)はふりかえって左右の者に謂(い)った、曰く、
幾為漢所賣乃引兵還出塞曰吾得尉史乃天也
「もう少しのところで漢の欺(あざむ)かれるところと為っていた」と。そこで、兵を引いて還(かえ)った。塞(とりで)を出て曰く、「吾(われ)が尉史をつかまえたのは、すなわち天運である」と。
命尉史為天王塞下傳言單于已引去漢兵追至塞度弗及即罷
尉史に命名(めいめい)して天王とした。塞(とりで)は単于(匈奴王)がすでに引き去ったと伝言を下(くだ)した。漢兵は追いかけて塞(とりで)に至ったが、追いつかないと判断してすなわち止(や)めた。
王恢等兵三萬聞單于不與漢合度往擊輜重必與單于精兵戰漢兵勢必敗
漢将屯将軍大行王恢らの兵は三万で漢と合戦しなかったことを聞き、輜重を撃ちに往(い)けば、必ず単于(匈奴王)の精兵と戦い、漢兵の勢いは必ず負けると考え、
則以便宜罷兵皆無功
すなわち、便宜(べんぎ)を以って兵を中止し、皆(みな)手柄(てがら)が無かった。
天子怒王恢不出擊單于輜重擅引兵罷也
天子(漢孝武帝劉徹)は漢将屯将軍大行王恢が単于(匈奴王)の輜重(武器や食糧など)を撃ちに出ず、おもうままに兵を引いて中止したことを怒(おこ)ったのである。
恢曰始約虜入馬邑城兵與單于接而臣擊其輜重可得利
漢将屯将軍大行王恢曰く、「始(はじ)め、匈奴を誘(さそ)って馬邑の城壁に入れば、兵は単于(匈奴王)と接戦して、わたしはその輜重(武器や食糧など)を撃ち利(り)を得ることができたでしょう。
今單于聞不至而還臣以三萬人眾不敵取辱耳
今、単于(匈奴王)は至らずに還(かえ)ることを聞き入れ、わたしは三万人の衆を以ってしても敵(かな)わずに、ただ辱(はずかし)めを取るのみでした。
臣固知還而斬然得完陛下士三萬人於是下恢廷尉
わたしは固(もと)より還(かえ)れば斬られることを知っていました。然(しか)るに陛下の士三万人を完全に保(たも)つことができたのです」と。ここに於いて漢将屯将軍大行王恢は漢廷尉に下(くだ)された。
廷尉當恢逗橈當斬恢私行千金丞相蚡
漢廷尉は漢将屯将軍大行王恢は敵(てき)を見て恐れとどまって進まなかったとみなし、斬罪に当てた。漢将屯将軍大行王恢はひそかに漢丞相武安侯田蚡に千金をおくった。
蚡不敢言上而言於太后曰王恢首造馬邑事
漢丞相武安侯田蚡は敢(あ)えて言上せずに王太后に於いて言った、曰く、「王恢は馬邑の事を頭(かしら)となって造(つく)ったが、
今不成而誅恢是為匈奴報仇也上朝太后太后以丞相言告上
今、成功せずして王恢を誅(ちゅう)しては、これ匈奴の為(ため)に仇(あだ)に報(むく)いることになります」と。上(漢孝武帝劉徹)が王太后に朝したとき、王太后は漢丞相武安侯田蚡の言を以って上(漢孝武帝劉徹)に告げた。
上曰首為馬邑事者恢也故發天下兵數十萬從其言為此
上(漢孝武帝劉徹)曰く、「馬邑の事を頭(かしら)となってつくった者は王恢であり、故(ゆえ)に天下の兵数十万人を発し、その言に従ってこれを為したのである。
且縱單于不可得恢所部擊其輜重猶頗可得以慰士大夫心
まさにたとえ単于(匈奴王)がつかまえられなくても、王恢のところの部隊がその輜重(武器や食糧など)を撃てば、猶(なお)頗(すこぶ)る(利を)得ることができ、士大夫の心を慰(なぐさ)めるを以ってしたことでしょう。
今不誅恢無以謝天下於是恢聞之乃自殺
今、王恢を誅(ちゅう)さなければ、天下に謝するを以ってすることが無くなります」と。ここに於いて
漢将屯将軍大行王恢はこれを聞いて、すなわち自殺した。
建元中、武安侯田蚡が漢太尉と為った。
親貴用事安國以五百金物遺蚡
親(した)しみ貴(とうと)ばれ事に用いられ、韓安国は五百金の物を以って漢太尉武安侯田蚡に贈(おく)った。
蚡言安國太后天子亦素聞其賢
漢太尉武安侯田蚡は韓安国を言い、王太后、天子(漢孝武帝劉徹)もまた素(もと)よりその賢さを聞いており、
即召以為北地都尉遷為大司農
すなわち、召し寄せ、北地都尉と為すを以ってし、遷(うつ)して大司農と為さしめた。
閩越東越相攻安國及大行王恢將
閩越、東越が互いに攻(せ)めあい、漢大司農韓安国及び漢大行王恢が兵を率いた。
未至越越殺其王降漢兵亦罷
未(ま)だ越に至らないうちに、越はその王を殺して降(くだ)り、漢兵もまた中止した。
建元六年武安侯為丞相安國為御史大夫
建元六年、漢太尉武安侯田蚡が丞相と為り、漢大司農韓安国が御史大夫と為った。
匈奴來請和親天子下議
匈奴が和親(わしん)を請(こ)いに来た。天子(漢孝武帝劉徹)は議(ぎ)に下(くだ)した。
大行王恢燕人也數為邊吏習知胡事
漢大行王恢は燕の人であり、たびたび辺境の役人に為って、匈奴の事を習(なら)い知っていた。
議曰漢與匈奴和親率不過數歲即復倍約
議(ぎ)して曰く、「漢が匈奴と和親(わしん)し、おおかた数年を過ぎずしてまた約束にそむくでしょう。
不如勿許興兵擊之安國曰
聞き入れずに兵を興(おこ)してこれを撃(う)つにこしたことはありません」と。漢御史大夫韓安国曰く、
千里而戰兵不獲利
「千里の遠くにして戦えば、兵は利(り)を獲(え)ません。
今匈奴負戎馬之足懷禽獸之心
今、匈奴は戎馬の足をたのみにして、禽獣(きんじゅう)の心を懐(いだ)き、
遷徙鳥舉難得而制也
鳥の挙動のように移り、つかまえて制するのは難(むずか)かしいのです。
得其地不足以為廣有其眾不足以為彊自上古不屬為人
その地を得ても広めようと思うには足らず、その衆を有しても強めようと思うには足らず、上古より人としてたのめないのです。
漢數千里爭利則人馬罷虜以全制其敝
漢が数千里を行き利(り)を争えば、すなわち人馬は疲弊(ひへい)し、匈奴は全(まっと)うしているのを以ってその疲弊(ひへい)を制(せい)することでしょう。
且彊弩之極矢不能穿魯縞沖風之末力不能漂鴻毛
まさに強弩が極(きわ)まれば、矢(や)は魯の薄絹(うすぎぬ)も穿(うが)つことができず、つむじ風の末(すえ)では、力(ちから)は鴻毛(おおとりの羽)も漂(ただよ)わせることができません。
非初不勁末力衰也擊之不便不如和親
初めが強くないのではなく、末(すえ)に力が衰(おとろ)えるのです。これを撃つのは不便であり、和親(わしん)するにこしたことはありません」と。
群臣議者多附安國於是上許和親
群臣の議(ぎ)する者は多くが漢御史大夫韓安国に附(つ)き、ここに於いて上(漢孝武帝劉徹)は
和親を聴き入れた。
其明年則元光元年雁門馬邑豪聶翁壹因大行王恢言上曰
その明くる年、すなわち元光元年、雁門馬邑の豪族の聶翁壹が漢大行王恢に因(よ)りて言上して曰く、
匈奴初和親親信邊可誘以利陰使聶翁壹為
「匈奴は和親(わしん)したばかりで、辺境に親しみ信じ、利(り)を以って誘(さそ)うべきです」と。ひそかに聶翁壹をつかわし、間者と為さしめ、
亡入匈奴謂單于曰吾能斬馬邑令丞吏以城降財物可盡得
匈奴に逃げ入らせ、單于(匈奴王)に謂(い)った、曰く、「吾(われ)は馬邑の令(官名)、丞(官名)、役人を斬ることができます。城を以って降(くだ)せば、財物はことごとく得ることができます」と。
單于愛信之以為然許聶翁壹聶翁壹乃還詐斬死罪囚
單于(匈奴王)はこれを愛(め)でて信じ、その通りだと思い、聶翁壹を聴き入れた。聶翁壹はそこで還(かえ)り、偽(いつわ)って死罪の囚人を斬り、
縣其頭馬邑城示單于使者為信曰馬邑長吏已死可急來
その頭を馬邑の城壁に懸(か)けて、単于(匈奴王)の使者に示(しめ)して信じさせた。曰く、「馬邑の長、吏はすでに死に、急(いそ)いで来るべきだ」と。
於是單于穿塞將十餘萬騎入武州塞
ここに於いて単于(匈奴王)は塞(とりで)を穿(うが)って十余万騎を率(ひき)いて、武州の塞(とりで)に入ろうとした。
當是時漢伏兵車騎材官二十餘萬匿馬邑旁谷中衛尉李廣為驍騎將軍
ちょうどこの時、漢は兵、車騎、材官の二十余万を伏(ふ)せて、馬邑の傍(かたわ)らの谷の中に隠(かく)した。漢衛尉李広が驍騎將軍と為り、
太仆公孫賀為輕車將軍大行王恢為將屯將軍太中大夫李息為材官將軍
漢太僕公孫賀が軽車将軍に為り、漢大行王恢が将屯将軍に為り、漢太中大夫李息が材官将軍に為った。
御史大夫韓安國為護軍將軍諸將皆屬護軍約單于入馬邑而漢兵縱發
漢御史大夫韓安国が護軍将軍に為り、諸(もろもろ)の将軍は皆(みな)護軍将軍に属(ぞく)した。
単于(匈奴王)が馬邑に入れば、漢兵は放(はな)たれ発されることを約した。
王恢李息李廣別從代主擊其輜重於是單于入漢長城武州塞
漢将屯将軍大行王恢、漢材官将軍太中大夫李息、漢驍騎將軍衛尉李広は別(わか)れて、代(地名)から主(おも)にその輜重(武器や食糧など)を撃(う)つことにした。ここに於いて、単于(匈奴王)は漢の長城の武州の塞(とりで)に入った。
未至馬邑百餘里行掠鹵徒見畜牧於野不見一人單于怪之攻烽燧得武州尉史
未(ま)だ馬邑に至らない百余里(一里150m換算で約15km余り)手前で、掠(かす)め
取ることを行おうとし、単に家畜を野に於いて見ただけで、一人も見えなかった。
単于(匈奴王)はこれを怪(あや)しみ、のろしを攻(せ)め、武州の尉史をつかまえた。
欲刺問尉史尉史曰漢兵數十萬伏馬邑下單于顧謂左右曰
刺そうと欲して尉史を問(と)うた。尉史曰く、「漢兵の数十万は馬邑の下(もと)に伏(ふ)せている」と。単于(匈奴王)はふりかえって左右の者に謂(い)った、曰く、
幾為漢所賣乃引兵還出塞曰吾得尉史乃天也
「もう少しのところで漢の欺(あざむ)かれるところと為っていた」と。そこで、兵を引いて還(かえ)った。塞(とりで)を出て曰く、「吾(われ)が尉史をつかまえたのは、すなわち天運である」と。
命尉史為天王塞下傳言單于已引去漢兵追至塞度弗及即罷
尉史に命名(めいめい)して天王とした。塞(とりで)は単于(匈奴王)がすでに引き去ったと伝言を下(くだ)した。漢兵は追いかけて塞(とりで)に至ったが、追いつかないと判断してすなわち止(や)めた。
王恢等兵三萬聞單于不與漢合度往擊輜重必與單于精兵戰漢兵勢必敗
漢将屯将軍大行王恢らの兵は三万で漢と合戦しなかったことを聞き、輜重を撃ちに往(い)けば、必ず単于(匈奴王)の精兵と戦い、漢兵の勢いは必ず負けると考え、
則以便宜罷兵皆無功
すなわち、便宜(べんぎ)を以って兵を中止し、皆(みな)手柄(てがら)が無かった。
天子怒王恢不出擊單于輜重擅引兵罷也
天子(漢孝武帝劉徹)は漢将屯将軍大行王恢が単于(匈奴王)の輜重(武器や食糧など)を撃ちに出ず、おもうままに兵を引いて中止したことを怒(おこ)ったのである。
恢曰始約虜入馬邑城兵與單于接而臣擊其輜重可得利
漢将屯将軍大行王恢曰く、「始(はじ)め、匈奴を誘(さそ)って馬邑の城壁に入れば、兵は単于(匈奴王)と接戦して、わたしはその輜重(武器や食糧など)を撃ち利(り)を得ることができたでしょう。
今單于聞不至而還臣以三萬人眾不敵取辱耳
今、単于(匈奴王)は至らずに還(かえ)ることを聞き入れ、わたしは三万人の衆を以ってしても敵(かな)わずに、ただ辱(はずかし)めを取るのみでした。
臣固知還而斬然得完陛下士三萬人於是下恢廷尉
わたしは固(もと)より還(かえ)れば斬られることを知っていました。然(しか)るに陛下の士三万人を完全に保(たも)つことができたのです」と。ここに於いて漢将屯将軍大行王恢は漢廷尉に下(くだ)された。
廷尉當恢逗橈當斬恢私行千金丞相蚡
漢廷尉は漢将屯将軍大行王恢は敵(てき)を見て恐れとどまって進まなかったとみなし、斬罪に当てた。漢将屯将軍大行王恢はひそかに漢丞相武安侯田蚡に千金をおくった。
蚡不敢言上而言於太后曰王恢首造馬邑事
漢丞相武安侯田蚡は敢(あ)えて言上せずに王太后に於いて言った、曰く、「王恢は馬邑の事を頭(かしら)となって造(つく)ったが、
今不成而誅恢是為匈奴報仇也上朝太后太后以丞相言告上
今、成功せずして王恢を誅(ちゅう)しては、これ匈奴の為(ため)に仇(あだ)に報(むく)いることになります」と。上(漢孝武帝劉徹)が王太后に朝したとき、王太后は漢丞相武安侯田蚡の言を以って上(漢孝武帝劉徹)に告げた。
上曰首為馬邑事者恢也故發天下兵數十萬從其言為此
上(漢孝武帝劉徹)曰く、「馬邑の事を頭(かしら)となってつくった者は王恢であり、故(ゆえ)に天下の兵数十万人を発し、その言に従ってこれを為したのである。
且縱單于不可得恢所部擊其輜重猶頗可得以慰士大夫心
まさにたとえ単于(匈奴王)がつかまえられなくても、王恢のところの部隊がその輜重(武器や食糧など)を撃てば、猶(なお)頗(すこぶ)る(利を)得ることができ、士大夫の心を慰(なぐさ)めるを以ってしたことでしょう。
今不誅恢無以謝天下於是恢聞之乃自殺
今、王恢を誅(ちゅう)さなければ、天下に謝するを以ってすることが無くなります」と。ここに於いて
漢将屯将軍大行王恢はこれを聞いて、すなわち自殺した。