安國為人多大略智足以當世取合而出於忠厚焉
漢御史大夫韓安国の人と為(な)りは大略(たいりゃく)を多(た)とし、智(ち)は当世を以って合理を取るに足(た)り、そして忠孝(厚=孝?)に於いてすぐれていた。
貪嗜於財所推舉皆廉士賢於己者也
人材(財=材?)をむさぼり、推挙(すいきょ)するところは皆(みな)己(おのれ)より廉士(れんし)、賢者の者であった。
於梁舉壺遂臧固郅他皆天下名士士亦以此稱慕之唯天子以為國器
梁より、壺遂、臧固、郅他を挙(あ)げ、皆(みな)天下の名士で、士もまたこれを以ってこれを称(たた)え慕(した)い、ただ天子(漢孝武帝劉徹)だけが国を成すほどの器(うつわ)だと思った。
安國為御史大夫四歲餘丞相田蚡死安國行丞相事奉引墮車蹇
韓安国が漢御史大夫と為って四年余り、漢丞相武安侯田蚡が死んで、漢御史大夫韓安国が丞相の事を行い、引見を奉(たてまつ)ったとき車から堕(お)ち足が不自由になった。
天子議置相欲用安國使使視之蹇甚乃更以平棘侯薛澤為丞相
天子(漢孝武帝劉徹)は丞相を置くことを議し、漢御史大夫韓安国を用いることを欲し、使者をつかわしこれを視(み)させたが、足が不自由であること甚(はなは)だで、そこで、改めて平棘侯薛沢を以って漢丞相と為した。
安國病免數月蹇愈上復以安國為中尉歲餘徙為衛尉
漢御史大夫韓安国は病(やまい)で免ぜられて数ヶ月、足のけがが癒(い)えて、上(漢孝武帝劉徹)は
また韓安国を以って中尉と為した。一年余りして、移して衛尉と為した。
車騎將軍衛青擊匈奴出上谷破胡蘢城
漢車騎將軍衛青が匈奴を撃ちに上谷に出て、匈奴の蘢城を破った。
將軍李廣為匈奴所得復失之公孫敖大亡卒
漢将軍李広は匈奴のつかまえられる所と為ったが、またこれ(李広)を失(うしな)った。公孫敖は大いに兵を亡(な)くし、
皆當斬贖為庶人明年匈奴大入邊
皆(みな)斬刑に当てられたが贖(あがな)って庶人と為った。明くる年、匈奴が大いに辺境に入った。
殺遼西太守及入鴈門所殺略數千人
遼西太守を殺し、鴈門に入るに及んで、殺略したところは数千人。
車騎將軍衛青擊之出鴈門
漢車騎將軍衛青がこれを撃ちに鴈門に出た。
衛尉安國為材官將軍屯於漁陽
漢衛尉韓安国は材官将軍と為って、漁陽に於いて陣営をしいた。
安國捕生虜言匈奴遠去即上書言方田作時請且罷軍屯
漢衛尉材官将軍韓安国は匈奴を生け捕りにし、匈奴に遠くへ去るように言った。そこで、上書して、まさに田作の時であると言い、まさに軍を休ませて屯(とん)することを請(こ)うた。
罷軍屯月餘匈奴大入上谷漁陽
軍を休ませ屯すること一ヶ月余り、匈奴が大挙して上谷、漁陽に入った。
安國壁乃有七百餘人出與戰不勝復入壁
漢衛尉材官将軍韓安国は防壁してそこで七百余人を有して、ともに戦いに出たが、勝たずにまた防壁に入った。
匈奴虜略千餘人及畜產而去天子聞之怒使使責讓安國
匈奴は一千余人及び家畜を奪(うば)って去った。天子(漢孝武帝劉徹)はこれを聞いて怒り、使者をつかわして漢衛尉材官将軍韓安国を責めしかった。
徒安國益東屯右北平是時匈奴虜言當入東方
むだに漢衛尉材官将軍韓安国は益々(ますます)東へ進み、右北平に屯(とん)した。この時、匈奴はまさに東方に入ると言った。
安國始為御史大夫及護軍後稍斥疏下遷
韓安国は以前漢御史大夫及び護軍将軍に為ったが、後に次第にしりぞけ疎(うと)んぜられていき、遠方へ移り下(くだ)った。
而新幸壯將軍衛青等有功益貴
しこうして、新たに幸いにも勇ましい将軍衛青らに手柄(てがら)が有り、ますます貴(とうと)ばれた。
安國既疏遠默默也將屯又為匈奴所欺失亡多甚自愧
韓安国はすでに疎遠(そえん)になり黙々(もくもく)とむなしかった。兵を率(ひき)いて屯(とん)し、また匈奴の欺(あざむ)かれるところと為って、失い亡(なく)すことが多く、甚(はなは)だ自らを恥(は)じた。
幸得罷歸乃益東徙屯意忽忽不樂
幸いにも止(や)めて帰ることを得たが、そこで益々(ますます)東へ移動して屯(とん)し、意(い)は忽忽(こつこつ)とがっかりして気落ちし楽しくなかった。
數月病歐血死安國以元朔二年中卒
数ヶ月して、病にかかり血を吐(は)いて死んだ。韓安国は元朔二年中になくなった。
太史公曰余與壺遂定律歷觀韓長孺之義壺遂之深中隱厚
太史公曰く「わたしは壺遂とともに律歴を定め、韓長孺(韓安国)の義(ぎ)、壺遂の深く中に厚情を隠(かく)していることを観(み)た。
世之言梁多長者不虛哉
世間は梁には長者が多いと言うが、うそではないだろう。
壺遂官至事天子方倚以為漢相會遂卒
壺遂の官位は事に至り、天子(漢孝武帝劉徹)はまさにたよるに漢相と為すを以ってしようとしたが、
このとき、壺遂は亡くなった。
不然壺遂之內廉行修斯鞠躬君子也
そうならなければ、壺遂は内(うち)に行いを清らかにして修(おさ)め、これ、鞠躬(身をかがめてうやまいつつしむ)の君子(くんし)であったことだろう」と。
今日で史記 韓長孺列伝は終わりです。明日からは史記 李将軍列伝に入ります。
漢御史大夫韓安国の人と為(な)りは大略(たいりゃく)を多(た)とし、智(ち)は当世を以って合理を取るに足(た)り、そして忠孝(厚=孝?)に於いてすぐれていた。
貪嗜於財所推舉皆廉士賢於己者也
人材(財=材?)をむさぼり、推挙(すいきょ)するところは皆(みな)己(おのれ)より廉士(れんし)、賢者の者であった。
於梁舉壺遂臧固郅他皆天下名士士亦以此稱慕之唯天子以為國器
梁より、壺遂、臧固、郅他を挙(あ)げ、皆(みな)天下の名士で、士もまたこれを以ってこれを称(たた)え慕(した)い、ただ天子(漢孝武帝劉徹)だけが国を成すほどの器(うつわ)だと思った。
安國為御史大夫四歲餘丞相田蚡死安國行丞相事奉引墮車蹇
韓安国が漢御史大夫と為って四年余り、漢丞相武安侯田蚡が死んで、漢御史大夫韓安国が丞相の事を行い、引見を奉(たてまつ)ったとき車から堕(お)ち足が不自由になった。
天子議置相欲用安國使使視之蹇甚乃更以平棘侯薛澤為丞相
天子(漢孝武帝劉徹)は丞相を置くことを議し、漢御史大夫韓安国を用いることを欲し、使者をつかわしこれを視(み)させたが、足が不自由であること甚(はなは)だで、そこで、改めて平棘侯薛沢を以って漢丞相と為した。
安國病免數月蹇愈上復以安國為中尉歲餘徙為衛尉
漢御史大夫韓安国は病(やまい)で免ぜられて数ヶ月、足のけがが癒(い)えて、上(漢孝武帝劉徹)は
また韓安国を以って中尉と為した。一年余りして、移して衛尉と為した。
車騎將軍衛青擊匈奴出上谷破胡蘢城
漢車騎將軍衛青が匈奴を撃ちに上谷に出て、匈奴の蘢城を破った。
將軍李廣為匈奴所得復失之公孫敖大亡卒
漢将軍李広は匈奴のつかまえられる所と為ったが、またこれ(李広)を失(うしな)った。公孫敖は大いに兵を亡(な)くし、
皆當斬贖為庶人明年匈奴大入邊
皆(みな)斬刑に当てられたが贖(あがな)って庶人と為った。明くる年、匈奴が大いに辺境に入った。
殺遼西太守及入鴈門所殺略數千人
遼西太守を殺し、鴈門に入るに及んで、殺略したところは数千人。
車騎將軍衛青擊之出鴈門
漢車騎將軍衛青がこれを撃ちに鴈門に出た。
衛尉安國為材官將軍屯於漁陽
漢衛尉韓安国は材官将軍と為って、漁陽に於いて陣営をしいた。
安國捕生虜言匈奴遠去即上書言方田作時請且罷軍屯
漢衛尉材官将軍韓安国は匈奴を生け捕りにし、匈奴に遠くへ去るように言った。そこで、上書して、まさに田作の時であると言い、まさに軍を休ませて屯(とん)することを請(こ)うた。
罷軍屯月餘匈奴大入上谷漁陽
軍を休ませ屯すること一ヶ月余り、匈奴が大挙して上谷、漁陽に入った。
安國壁乃有七百餘人出與戰不勝復入壁
漢衛尉材官将軍韓安国は防壁してそこで七百余人を有して、ともに戦いに出たが、勝たずにまた防壁に入った。
匈奴虜略千餘人及畜產而去天子聞之怒使使責讓安國
匈奴は一千余人及び家畜を奪(うば)って去った。天子(漢孝武帝劉徹)はこれを聞いて怒り、使者をつかわして漢衛尉材官将軍韓安国を責めしかった。
徒安國益東屯右北平是時匈奴虜言當入東方
むだに漢衛尉材官将軍韓安国は益々(ますます)東へ進み、右北平に屯(とん)した。この時、匈奴はまさに東方に入ると言った。
安國始為御史大夫及護軍後稍斥疏下遷
韓安国は以前漢御史大夫及び護軍将軍に為ったが、後に次第にしりぞけ疎(うと)んぜられていき、遠方へ移り下(くだ)った。
而新幸壯將軍衛青等有功益貴
しこうして、新たに幸いにも勇ましい将軍衛青らに手柄(てがら)が有り、ますます貴(とうと)ばれた。
安國既疏遠默默也將屯又為匈奴所欺失亡多甚自愧
韓安国はすでに疎遠(そえん)になり黙々(もくもく)とむなしかった。兵を率(ひき)いて屯(とん)し、また匈奴の欺(あざむ)かれるところと為って、失い亡(なく)すことが多く、甚(はなは)だ自らを恥(は)じた。
幸得罷歸乃益東徙屯意忽忽不樂
幸いにも止(や)めて帰ることを得たが、そこで益々(ますます)東へ移動して屯(とん)し、意(い)は忽忽(こつこつ)とがっかりして気落ちし楽しくなかった。
數月病歐血死安國以元朔二年中卒
数ヶ月して、病にかかり血を吐(は)いて死んだ。韓安国は元朔二年中になくなった。
太史公曰余與壺遂定律歷觀韓長孺之義壺遂之深中隱厚
太史公曰く「わたしは壺遂とともに律歴を定め、韓長孺(韓安国)の義(ぎ)、壺遂の深く中に厚情を隠(かく)していることを観(み)た。
世之言梁多長者不虛哉
世間は梁には長者が多いと言うが、うそではないだろう。
壺遂官至事天子方倚以為漢相會遂卒
壺遂の官位は事に至り、天子(漢孝武帝劉徹)はまさにたよるに漢相と為すを以ってしようとしたが、
このとき、壺遂は亡くなった。
不然壺遂之內廉行修斯鞠躬君子也
そうならなければ、壺遂は内(うち)に行いを清らかにして修(おさ)め、これ、鞠躬(身をかがめてうやまいつつしむ)の君子(くんし)であったことだろう」と。
今日で史記 韓長孺列伝は終わりです。明日からは史記 李将軍列伝に入ります。