Quantcast
Channel: 倭人伝を解く
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2176

居頃之石建卒於是上召廣代建為郎中令

$
0
0
居頃之石建卒於是上召廣代建為郎中令

居ることしばらくして、石建が亡くなり、ここに於いて、上(漢孝武帝劉徹)は右北平太守李広を召し寄せ石建に代(か)えて郎中令と為さしめた。

元朔六年廣復為後將軍從大將軍軍出定襄擊匈奴

元朔六年、漢郎中令李広はまた後将軍と為って、大将軍に従って、軍は定襄に出て匈奴を撃(う)った。

諸將多中首虜率以功為侯者而廣軍無功

諸(もろもろ)の将軍は多くが首、虜(とりこ)を数えて計算し、功を以って侯者と為ったが、漢郎中令後将軍李広軍は功が無かった。

後二歲廣以郎中令將四千騎出右北平

二年後、李広は漢郎中令を以って四千騎を率(ひき)いて右北平に出た。

博望侯張騫將萬騎與廣俱異道

博望侯張騫は一万騎を率(ひき)いて漢郎中令将軍李広とともにして、道を異(こと)にした。

行可數百里匈奴左賢王將四萬騎圍廣

行くこと数百里(一里150m換算で約30km~)ほどして、匈奴左賢王が四万騎を率(ひき)いて
漢郎中令将軍李広を包囲した。

廣軍士皆恐,廣乃使其子敢往馳之

李広軍の士は皆(みな)恐れ、漢郎中令将軍李広はそこでその子をつかわし、敢(あ)えてこれに馳(は)せ往(ゆ)かせた。

敢獨與數十騎馳直貫胡騎出其左右而還告廣曰

敢(あ)えて独(ひと)り数十騎とともに馳(は)せ、まっすぐに匈奴騎を貫(つらぬ)き、その左右に出て、しこうして還(かえ)り、漢郎中令将軍李広に告げた、曰く、

胡虜易與耳軍士乃安廣為圜陳外向胡急擊之矢下如雨

「匈奴は与(くみ)しやすいだけである」と。軍士はそこで安心した。漢郎中令将軍李広は円陣(えんじん)を外向きにつくると匈奴がはげしくこれを撃(う)ち、矢は雨の如(ごと)く下(お)りた。

漢兵死者過半漢矢且盡

漢兵の死者は半分以上で、漢の矢はまさに尽(つ)きようとしていた。

廣乃令士持滿毋發而廣身自以大黃射其裨將殺數人胡虜益解

漢郎中令将軍李広はそこで士に令して弓を引き絞ったまま発させず、しこうして、漢郎中令将軍李広自身が大黄弩(大弓の名)を以ってその副将を射(い)て数人を殺し、匈奴は益々(ますます)解(と)かれていった。

會日暮吏士皆無人色而廣意氣自如益治軍軍中自是服其勇也

このとき日が暮(く)れ、吏士は皆(みな)顔色を無くしたが、漢郎中令将軍李広の意気はもとのままで、益々(ますます)軍を治(おさ)めた。軍中はこれよりその勇敢(ゆうかん)さに服(ふく)したのである。

明日復力戰而博望侯軍亦至匈奴軍乃解去

明くる日、ふたたび力戦し、しこうして、博望侯張騫軍がまた至り、匈奴軍はそこで解(と)いて去った。

漢軍罷弗能追是時廣軍幾沒罷歸

漢軍は疲弊して追いかけることができなかった。このとき、李広軍はもう少しのところで尽きるところで、止(や)めて帰った。

漢法博望侯留遲後期當死贖為庶人

漢の法では博望侯張騫は遅滞(ちたい)して期日に後(おく)れ、死罪に当たるとされ、罪を贖(あがな)って庶人と為った。

廣軍功自如無賞

李広軍の功は前とかわらず賞(しょう)されなかった。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2176

Trending Articles