居久之孝景崩武帝立左右以為廣名將也
居ること久しくして、漢孝景帝劉啓が崩じ、漢孝武帝劉徹が立ち、左右の者は李広を名将と思い、
於是廣以上郡太守為未央衛尉而程不識亦為長樂衛尉
ここに於いて李広は上郡太守を以って未央衛尉と為り、そして、程不識もまた長楽衛尉と為った。
程不識故與李廣俱以邊太守將軍屯
程不識は以前、李広とともに辺境の太守の将軍を以って屯(とん)した。
及出擊胡而廣行無部伍行陳就善水草屯
匈奴を撃ちに出るに及んでは、しこうして、李広は部伍(軍隊の部分けの一単位)をせずに行き、
陣立てを行い、善い水や草のあるところに就(つ)いて屯(とん)し、
舍止人人自便不擊刀鬬以自衛
宿泊して止(とど)まり、人々は自らくつろぎ、刀で切りあって撃たずに自衛(じえい)するを以ってし、
莫府省約文書籍事然亦遠斥候未嘗遇害
役所はなく、文書、籍事を省(はぶ)いて約(つづ)め、然(しか)るにまた遠く敵の様子をさぐり、
未(いま)だ嘗(かつ)て害には遇(あ)わなかった。
程不識正部曲行伍營陳擊刀鬬士吏治軍簿至明
程不識は部隊を正(ただ)して五人一組の部わけを行い、陣立てを営(いとな)み、
刀で切りあって撃(う)ち、士、吏は軍簿(ぐんぼ)を治(おさ)めるはきわめて明確で、
軍不得休息然亦未嘗遇害不識曰
軍は休息を得ず、然(しか)るにまた未(いま)だ嘗(かつ)て害に遇(あ)わなかった。程不識曰く、
李廣軍極簡易然虜卒犯之無以禁也
「李広軍は極(きわ)めて簡易(かんい)で、然(しか)るに敵兵がこれを犯(おか)すは、たえることが無いのである。
而其士卒亦佚樂咸樂為之死
しかし、その士卒もまた遊び楽しみ、あまねくこの為(ため)に死することを楽しんでいる。
我軍雖煩擾然虜亦不得犯我
我が軍はわずらわしくさわがしいと雖(いえど)も、然(しか)るに敵もまた我らを犯(おか)すことができない」と。
是時漢邊郡李廣程不識皆為名將
この時、漢の辺境の郡の李広、程不識は皆(みな)名将と為り、
然匈奴畏李廣之略士卒亦多樂從李廣而苦程不識
然(しか)るに匈奴は李広の智略を恐(おそ)れ、士卒もまた多くが李広に従うを楽しみて、
程不識をいやがった。
程不識孝景時以數直諫為太中大夫為人廉謹於文法
程不識は漢孝景帝時、たびたび直々(じきじき)に諌(いさ)めるを以って漢太中大夫と為った。人と為りは行いは清らかで、文法に於いて謹(つつし)んだ。
後漢以馬邑城誘單于使大軍伏馬邑旁谷
後、漢は馬邑城を以って単于(匈奴王)を誘(さそ)い、大軍をして馬邑の傍(かたわ)らの谷に伏(ふ)せさせ、
而廣為驍騎將軍領屬護軍將軍
しこうして漢未央衛尉李広は驍騎將軍と為って、漢御史大夫護軍将軍韓安国に領属した。
是時單于覺之去漢軍皆無功
この時単于(匈奴王)はこれを見破(みやぶ)り、去ったので、漢軍は皆(みな)手柄(てがら)が無かった。
其後四歲廣以衛尉為將軍出鴈門擊匈奴
その四年後、李広は衛尉を以って将軍と為り、鴈門に出て匈奴を撃った。
匈奴兵多破敗廣軍生得廣
匈奴兵は多く、漢未央衛尉将軍李広軍を破(やぶ)り負かし、漢未央衛尉将軍李広を生け捕りにした。
居ること久しくして、漢孝景帝劉啓が崩じ、漢孝武帝劉徹が立ち、左右の者は李広を名将と思い、
於是廣以上郡太守為未央衛尉而程不識亦為長樂衛尉
ここに於いて李広は上郡太守を以って未央衛尉と為り、そして、程不識もまた長楽衛尉と為った。
程不識故與李廣俱以邊太守將軍屯
程不識は以前、李広とともに辺境の太守の将軍を以って屯(とん)した。
及出擊胡而廣行無部伍行陳就善水草屯
匈奴を撃ちに出るに及んでは、しこうして、李広は部伍(軍隊の部分けの一単位)をせずに行き、
陣立てを行い、善い水や草のあるところに就(つ)いて屯(とん)し、
舍止人人自便不擊刀鬬以自衛
宿泊して止(とど)まり、人々は自らくつろぎ、刀で切りあって撃たずに自衛(じえい)するを以ってし、
莫府省約文書籍事然亦遠斥候未嘗遇害
役所はなく、文書、籍事を省(はぶ)いて約(つづ)め、然(しか)るにまた遠く敵の様子をさぐり、
未(いま)だ嘗(かつ)て害には遇(あ)わなかった。
程不識正部曲行伍營陳擊刀鬬士吏治軍簿至明
程不識は部隊を正(ただ)して五人一組の部わけを行い、陣立てを営(いとな)み、
刀で切りあって撃(う)ち、士、吏は軍簿(ぐんぼ)を治(おさ)めるはきわめて明確で、
軍不得休息然亦未嘗遇害不識曰
軍は休息を得ず、然(しか)るにまた未(いま)だ嘗(かつ)て害に遇(あ)わなかった。程不識曰く、
李廣軍極簡易然虜卒犯之無以禁也
「李広軍は極(きわ)めて簡易(かんい)で、然(しか)るに敵兵がこれを犯(おか)すは、たえることが無いのである。
而其士卒亦佚樂咸樂為之死
しかし、その士卒もまた遊び楽しみ、あまねくこの為(ため)に死することを楽しんでいる。
我軍雖煩擾然虜亦不得犯我
我が軍はわずらわしくさわがしいと雖(いえど)も、然(しか)るに敵もまた我らを犯(おか)すことができない」と。
是時漢邊郡李廣程不識皆為名將
この時、漢の辺境の郡の李広、程不識は皆(みな)名将と為り、
然匈奴畏李廣之略士卒亦多樂從李廣而苦程不識
然(しか)るに匈奴は李広の智略を恐(おそ)れ、士卒もまた多くが李広に従うを楽しみて、
程不識をいやがった。
程不識孝景時以數直諫為太中大夫為人廉謹於文法
程不識は漢孝景帝時、たびたび直々(じきじき)に諌(いさ)めるを以って漢太中大夫と為った。人と為りは行いは清らかで、文法に於いて謹(つつし)んだ。
後漢以馬邑城誘單于使大軍伏馬邑旁谷
後、漢は馬邑城を以って単于(匈奴王)を誘(さそ)い、大軍をして馬邑の傍(かたわ)らの谷に伏(ふ)せさせ、
而廣為驍騎將軍領屬護軍將軍
しこうして漢未央衛尉李広は驍騎將軍と為って、漢御史大夫護軍将軍韓安国に領属した。
是時單于覺之去漢軍皆無功
この時単于(匈奴王)はこれを見破(みやぶ)り、去ったので、漢軍は皆(みな)手柄(てがら)が無かった。
其後四歲廣以衛尉為將軍出鴈門擊匈奴
その四年後、李広は衛尉を以って将軍と為り、鴈門に出て匈奴を撃った。
匈奴兵多破敗廣軍生得廣
匈奴兵は多く、漢未央衛尉将軍李広軍を破(やぶ)り負かし、漢未央衛尉将軍李広を生け捕りにした。