李陵既壯選為建章監監諸騎
李陵がすでに壮年になり、選ばれて建章監と為り、諸(もろもろ)の騎兵を監督した。
善射愛士卒天子以為李氏世將而使將八百騎
弓を射ることが上手く、士卒を愛した。天子(漢孝武帝劉徹)は李氏が代々将軍と為っていることを思い、しこうして八百騎を率(ひき)いさせた。
嘗深入匈奴二千餘里過居延視地形無所見虜而還
嘗(かつ)て匈奴に深く入ること二千余里(一里150m換算で約300余里)、居延に立ち寄り、地形を視(み)た。敵(てき)をみつける所なくして還(かえ)った。
拜為騎都尉將丹陽楚人五千人教射酒泉張掖以屯衛胡
官をさずけて騎都尉と為さしめ、丹陽の楚人五千人を率(ひき)いさせて、酒泉、張掖で弓術を教(おし)え、衛胡で屯(とん)するを以ってした。
數歲天漢二年秋貳師將軍李廣利將三萬騎擊匈奴右賢王於祁連天山
数年して、天漢二年秋、漢貳師將軍李広利が三万騎を率(ひき)いて匈奴の右賢王を祁連天山に於いて撃(う)とうとした。
而使陵將其射士步兵五千人出居延北可千餘里
しこうして、漢建章監李陵をつかわして、その射士、歩兵五千人を率(ひき)いさせて、居延の北千余里(一里150m換算で約150km余り)ほどに出させ、
欲以分匈奴兵毋令專走貳師也陵既至期還
匈奴兵を分けるを以って漢貳師將軍李広利に専(もっぱ)ら走らせないようにしようと欲した。漢将軍建章監李陵がすでに還(かえ)る期日に至り、
而單于以兵八萬圍擊陵軍陵軍五千人兵矢既盡
しこうして単于は兵八万を以って漢将軍建章監李陵軍を撃ち包囲した。漢将軍建章監李陵軍の五千人は兵矢がすでに尽(つ)き、
士死者過半而所殺傷匈奴亦萬餘人
士の死んだ者は半分以上で、しこうして、匈奴を殺傷したところもまた一万余人だった。
且引且戰連鬬八日還未到居延百餘里匈奴遮狹絕道
引きながら、一方でまた戦い、連闘すること八日、還(かえ)って、居延に到(いた)らないうちの
百余里(一里150m換算で約15km余り)手前で、匈奴は狭(せば)まったところを遮断(しゃだん)して道を絶った。
陵食乏而救兵不到虜急擊招降陵陵曰無面目報陛下
漢将軍建章監李陵の食糧が乏(とぼ)しくなり、救兵は到(いた)らず、敵は急いで撃ち、李陵に降服をすすめた。
漢将軍建章監李陵曰く、「陛下に報告する面目(めんぼく)が無い」と。
遂降匈奴其兵盡沒餘亡散得歸漢者四百餘人
遂(つい)に匈奴に降(くだ)った。その兵はことごとく没し、残りは逃げ散じ、漢に帰り得た者は四百余人だった。
單于既得陵素聞其家聲及戰又壯
単于(匈奴王)がすでに漢将軍建章監李陵をつかまえ、素(もと)よりその家柄の評判を聞いており、戦いに及んではまた勇壮(ゆうそう)で、
乃以其女妻陵而貴之漢聞族陵母妻子
そこで、その娘を以って李陵に娶(めと)らせてこれを貴(とうと)んだ。漢は聞いて、李陵の母、妻、子を族刑にした。
自是之後李氏名敗而隴西之士居門下者皆用為恥焉
これの後より、李氏の名声は敗(やぶ)れ、しこうして、隴西の士の門下に居(きょ)した者は、皆(みな)用いられて恥(はじ)と為った。
太史公曰傳曰其身正不令而行
太史公曰く、「伝に曰く、その身が正しければ、令さずして行われ、
其身不正雖令不從其李將軍之謂也
其の身が不正ならば令したと雖(いえど)も従わない、と。その李将軍(李広)のことを謂(い)ったのであろうか。
余睹李將軍悛悛如鄙人口不能道辭
わたしは、李将軍は悛悛(しゅんしゅん)と田舎者の如(ごと)くおだやかで、口は達者ではなかったと見知っている。
及死之日天下知與不知皆為盡哀
死んだ日に及んで、天下の知る者も知らない者も皆(みな)哀(かな)しみを尽くした。
彼其忠實心誠信於士大夫也
彼(か)のその忠実心は誠(まこと)に士大夫に於いて信ぜられたのである。
諺曰桃李不言下自成蹊
諺(ことわざ)に曰く、桃(もも)李(すもも)は口はきかなくとも、下(した)には自(おのず)から小道(こみち)を成す、と。
此言雖小可以諭大也
この言葉はわずかなことと雖(いえど)も、広く大きなことを諭(さと)すことができるのである」と。
今日で史記 李将軍列伝は終わりです。次の匈奴列伝は2009.11.21から既に和訳してありますので、
明日からは史記 衛將軍驃騎列伝に入ります。
李陵がすでに壮年になり、選ばれて建章監と為り、諸(もろもろ)の騎兵を監督した。
善射愛士卒天子以為李氏世將而使將八百騎
弓を射ることが上手く、士卒を愛した。天子(漢孝武帝劉徹)は李氏が代々将軍と為っていることを思い、しこうして八百騎を率(ひき)いさせた。
嘗深入匈奴二千餘里過居延視地形無所見虜而還
嘗(かつ)て匈奴に深く入ること二千余里(一里150m換算で約300余里)、居延に立ち寄り、地形を視(み)た。敵(てき)をみつける所なくして還(かえ)った。
拜為騎都尉將丹陽楚人五千人教射酒泉張掖以屯衛胡
官をさずけて騎都尉と為さしめ、丹陽の楚人五千人を率(ひき)いさせて、酒泉、張掖で弓術を教(おし)え、衛胡で屯(とん)するを以ってした。
數歲天漢二年秋貳師將軍李廣利將三萬騎擊匈奴右賢王於祁連天山
数年して、天漢二年秋、漢貳師將軍李広利が三万騎を率(ひき)いて匈奴の右賢王を祁連天山に於いて撃(う)とうとした。
而使陵將其射士步兵五千人出居延北可千餘里
しこうして、漢建章監李陵をつかわして、その射士、歩兵五千人を率(ひき)いさせて、居延の北千余里(一里150m換算で約150km余り)ほどに出させ、
欲以分匈奴兵毋令專走貳師也陵既至期還
匈奴兵を分けるを以って漢貳師將軍李広利に専(もっぱ)ら走らせないようにしようと欲した。漢将軍建章監李陵がすでに還(かえ)る期日に至り、
而單于以兵八萬圍擊陵軍陵軍五千人兵矢既盡
しこうして単于は兵八万を以って漢将軍建章監李陵軍を撃ち包囲した。漢将軍建章監李陵軍の五千人は兵矢がすでに尽(つ)き、
士死者過半而所殺傷匈奴亦萬餘人
士の死んだ者は半分以上で、しこうして、匈奴を殺傷したところもまた一万余人だった。
且引且戰連鬬八日還未到居延百餘里匈奴遮狹絕道
引きながら、一方でまた戦い、連闘すること八日、還(かえ)って、居延に到(いた)らないうちの
百余里(一里150m換算で約15km余り)手前で、匈奴は狭(せば)まったところを遮断(しゃだん)して道を絶った。
陵食乏而救兵不到虜急擊招降陵陵曰無面目報陛下
漢将軍建章監李陵の食糧が乏(とぼ)しくなり、救兵は到(いた)らず、敵は急いで撃ち、李陵に降服をすすめた。
漢将軍建章監李陵曰く、「陛下に報告する面目(めんぼく)が無い」と。
遂降匈奴其兵盡沒餘亡散得歸漢者四百餘人
遂(つい)に匈奴に降(くだ)った。その兵はことごとく没し、残りは逃げ散じ、漢に帰り得た者は四百余人だった。
單于既得陵素聞其家聲及戰又壯
単于(匈奴王)がすでに漢将軍建章監李陵をつかまえ、素(もと)よりその家柄の評判を聞いており、戦いに及んではまた勇壮(ゆうそう)で、
乃以其女妻陵而貴之漢聞族陵母妻子
そこで、その娘を以って李陵に娶(めと)らせてこれを貴(とうと)んだ。漢は聞いて、李陵の母、妻、子を族刑にした。
自是之後李氏名敗而隴西之士居門下者皆用為恥焉
これの後より、李氏の名声は敗(やぶ)れ、しこうして、隴西の士の門下に居(きょ)した者は、皆(みな)用いられて恥(はじ)と為った。
太史公曰傳曰其身正不令而行
太史公曰く、「伝に曰く、その身が正しければ、令さずして行われ、
其身不正雖令不從其李將軍之謂也
其の身が不正ならば令したと雖(いえど)も従わない、と。その李将軍(李広)のことを謂(い)ったのであろうか。
余睹李將軍悛悛如鄙人口不能道辭
わたしは、李将軍は悛悛(しゅんしゅん)と田舎者の如(ごと)くおだやかで、口は達者ではなかったと見知っている。
及死之日天下知與不知皆為盡哀
死んだ日に及んで、天下の知る者も知らない者も皆(みな)哀(かな)しみを尽くした。
彼其忠實心誠信於士大夫也
彼(か)のその忠実心は誠(まこと)に士大夫に於いて信ぜられたのである。
諺曰桃李不言下自成蹊
諺(ことわざ)に曰く、桃(もも)李(すもも)は口はきかなくとも、下(した)には自(おのず)から小道(こみち)を成す、と。
此言雖小可以諭大也
この言葉はわずかなことと雖(いえど)も、広く大きなことを諭(さと)すことができるのである」と。
今日で史記 李将軍列伝は終わりです。次の匈奴列伝は2009.11.21から既に和訳してありますので、
明日からは史記 衛將軍驃騎列伝に入ります。