至莫府廣謂其麾下曰廣結發與匈奴大小七十餘戰
幕府に至ると、漢前将軍郎中令李広はその旗の下に謂(い)った、曰く、「わたしは弓矢を交(まじ)え匈奴と大小七十余り戦ったが、
今幸從大將軍出接單于兵而大將軍又徙廣部行回遠
今、幸いにも大将軍が出征して単于(匈奴王)兵に接することに従ったが、しかし、大将軍はまたわたしの部隊を移して曲がりくねって遠い道を行かせ、
而又迷失道豈非天哉且廣年六十餘矣終不能復對刀筆之吏
しこうしてまた道に迷(まよ)い見失ったのは、どうして天運ではないだろうかな。まさにわたしの年は六十余歳、終(しま)いまで、もはや文書を書き写すだけの小役人に応(こた)えることなどできない」と。
遂引刀自剄廣軍士大夫一軍皆哭百姓聞之知與不知無老壯皆為垂涕
遂(つい)に刀を引いて自ら首をかききった。李広軍の士大夫全軍が皆(みな)号泣(ごうきゅう)した。百姓はこれを聞いて、知る者と知らない者、老人、壮年も無く皆(みな)涙を垂(た)らして泣いた。
而右將軍獨下吏當死贖為庶人
しこうして、漢右将軍趙食其だけが役人に下(くだ)され、死罪に当てられ、罪を購(あがな)って
庶人と為った。
廣子三人曰當戶椒敢為郎
李広の子は三人で、当戸、椒、敢といい、郎(官名)に為った。
天子與韓嫣戲嫣少不遜當戶擊嫣嫣走
天子(漢孝武帝劉徹)は韓嫣と戯(たわむ)れ、韓嫣は少し不遜(ふそん)で、李当戸は韓嫣を撃(う)ち、韓嫣は逃走した。
於是天子以為勇當戶早死拜椒為代郡太守皆先廣死
ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)は勇(いさ)ましいと思った。李当戸は早死にしたので、
李椒に官をさずけて代郡太守に為さしめたが、皆(みな)李広に先んじて死んだ。
當戶有遺腹子名陵廣死軍時敢從驃騎將軍
李当戸には腹(はら)に遺(のこ)した子が有り、名は陵といった。李広が軍に死した時、李敢は漢驃騎將軍冠軍侯霍去病に従った。
廣死明年李蔡以丞相坐侵孝景園壖地當下吏治
李広の死の明くる年、李蔡は漢丞相を以って漢孝景帝劉啓の園壖地を侵(おか)した罪に問われ、
まさに役人に下され処分された。
蔡亦自殺不對獄國除李敢以校尉從驃騎將軍擊胡左賢王
漢丞相李蔡もまた自殺し、裁判に応(こた)えず、国は除(のぞ)かれた。李敢は漢校尉を以って
漢驃騎將軍冠軍侯霍去病が匈奴の左賢王を撃つのに従った。
力戰奪左賢王鼓旗斬首多賜爵關內侯食邑二百戶代廣為郎中令
力戦して、左賢王の鼓(つづみ)旗(はた)を奪(うば)い、首を斬ること多く、
爵の関内侯を賜(たまわ)り、食邑は二百戸で、李広に代わって漢郎中令と為った。
頃之怨大將軍青之恨其父乃擊傷大將軍大將軍匿諱之
しばらくして、漢大将軍長平侯衛青のその父(李広)を恨(うら)むを怨(うら)み、
そこで、漢大将軍長平侯衛青を撃(う)ち傷つけ、漢大将軍長平侯衛青は隠(かく)れてこれをおそれはばかった。
居無何敢從上雍至甘泉宮獵
いくばくもたたないうちに、漢郎中令李敢は上(漢孝武帝劉徹)がやわらいで甘泉宮に到って猟(りょう)をするのに従った。
驃騎將軍去病與青有親射殺敢
漢驃騎將軍冠軍侯霍去病は漢大将軍長平侯衛青と親戚であり、漢郎中令李敢を射殺した。
去病時方貴幸上諱云鹿觸殺之居歲餘去病死
漢驃騎將軍冠軍侯霍去病は時(とき)にまさに貴(とうと)ばれ寵愛されており、上(漢孝武帝劉徹)は
おそれはばかって、鹿(しか)が角(つの)であたってこれを殺したと云(い)った。
居ること一年余り、漢驃騎將軍冠軍侯霍去病は死んだ。
而敢有女為太子中人愛幸敢男禹有寵於太子然好利李氏陵遲衰微矣
しこうして、漢郎中令李敢には娘が有り漢太子劉拠の中人(側室)に為り、愛されかわいがられた。
漢郎中令李敢の息子の李禹は漢太子劉拠より寵愛が有ったが、然(しか)るに利(り)を好み、李氏は
しだいにだんだんと衰微(すいび)していったのである。
幕府に至ると、漢前将軍郎中令李広はその旗の下に謂(い)った、曰く、「わたしは弓矢を交(まじ)え匈奴と大小七十余り戦ったが、
今幸從大將軍出接單于兵而大將軍又徙廣部行回遠
今、幸いにも大将軍が出征して単于(匈奴王)兵に接することに従ったが、しかし、大将軍はまたわたしの部隊を移して曲がりくねって遠い道を行かせ、
而又迷失道豈非天哉且廣年六十餘矣終不能復對刀筆之吏
しこうしてまた道に迷(まよ)い見失ったのは、どうして天運ではないだろうかな。まさにわたしの年は六十余歳、終(しま)いまで、もはや文書を書き写すだけの小役人に応(こた)えることなどできない」と。
遂引刀自剄廣軍士大夫一軍皆哭百姓聞之知與不知無老壯皆為垂涕
遂(つい)に刀を引いて自ら首をかききった。李広軍の士大夫全軍が皆(みな)号泣(ごうきゅう)した。百姓はこれを聞いて、知る者と知らない者、老人、壮年も無く皆(みな)涙を垂(た)らして泣いた。
而右將軍獨下吏當死贖為庶人
しこうして、漢右将軍趙食其だけが役人に下(くだ)され、死罪に当てられ、罪を購(あがな)って
庶人と為った。
廣子三人曰當戶椒敢為郎
李広の子は三人で、当戸、椒、敢といい、郎(官名)に為った。
天子與韓嫣戲嫣少不遜當戶擊嫣嫣走
天子(漢孝武帝劉徹)は韓嫣と戯(たわむ)れ、韓嫣は少し不遜(ふそん)で、李当戸は韓嫣を撃(う)ち、韓嫣は逃走した。
於是天子以為勇當戶早死拜椒為代郡太守皆先廣死
ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)は勇(いさ)ましいと思った。李当戸は早死にしたので、
李椒に官をさずけて代郡太守に為さしめたが、皆(みな)李広に先んじて死んだ。
當戶有遺腹子名陵廣死軍時敢從驃騎將軍
李当戸には腹(はら)に遺(のこ)した子が有り、名は陵といった。李広が軍に死した時、李敢は漢驃騎將軍冠軍侯霍去病に従った。
廣死明年李蔡以丞相坐侵孝景園壖地當下吏治
李広の死の明くる年、李蔡は漢丞相を以って漢孝景帝劉啓の園壖地を侵(おか)した罪に問われ、
まさに役人に下され処分された。
蔡亦自殺不對獄國除李敢以校尉從驃騎將軍擊胡左賢王
漢丞相李蔡もまた自殺し、裁判に応(こた)えず、国は除(のぞ)かれた。李敢は漢校尉を以って
漢驃騎將軍冠軍侯霍去病が匈奴の左賢王を撃つのに従った。
力戰奪左賢王鼓旗斬首多賜爵關內侯食邑二百戶代廣為郎中令
力戦して、左賢王の鼓(つづみ)旗(はた)を奪(うば)い、首を斬ること多く、
爵の関内侯を賜(たまわ)り、食邑は二百戸で、李広に代わって漢郎中令と為った。
頃之怨大將軍青之恨其父乃擊傷大將軍大將軍匿諱之
しばらくして、漢大将軍長平侯衛青のその父(李広)を恨(うら)むを怨(うら)み、
そこで、漢大将軍長平侯衛青を撃(う)ち傷つけ、漢大将軍長平侯衛青は隠(かく)れてこれをおそれはばかった。
居無何敢從上雍至甘泉宮獵
いくばくもたたないうちに、漢郎中令李敢は上(漢孝武帝劉徹)がやわらいで甘泉宮に到って猟(りょう)をするのに従った。
驃騎將軍去病與青有親射殺敢
漢驃騎將軍冠軍侯霍去病は漢大将軍長平侯衛青と親戚であり、漢郎中令李敢を射殺した。
去病時方貴幸上諱云鹿觸殺之居歲餘去病死
漢驃騎將軍冠軍侯霍去病は時(とき)にまさに貴(とうと)ばれ寵愛されており、上(漢孝武帝劉徹)は
おそれはばかって、鹿(しか)が角(つの)であたってこれを殺したと云(い)った。
居ること一年余り、漢驃騎將軍冠軍侯霍去病は死んだ。
而敢有女為太子中人愛幸敢男禹有寵於太子然好利李氏陵遲衰微矣
しこうして、漢郎中令李敢には娘が有り漢太子劉拠の中人(側室)に為り、愛されかわいがられた。
漢郎中令李敢の息子の李禹は漢太子劉拠より寵愛が有ったが、然(しか)るに利(り)を好み、李氏は
しだいにだんだんと衰微(すいび)していったのである。