故吳王欲內以晁錯為討外隨大王後車
故吳王欲內以晁錯為討外隨大王後車 故(ゆえ)に呉王劉濞は内(うち)に漢御史大夫晁錯を以って討(う)とうと思い、外(そと)に大王の後車に付き従うことを欲し、 彷徉天下所鄉者降所指者下天下莫敢不服 天下をさまよい歩き、向かうところの者は降(くだ)り、指すところの者は下(くだ)し、天下は敢(あ)えて服従せずはなし。 大王誠幸而許之一言則吳王率楚王略函谷關...
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願王勉之楚元王子淮南三王或不沐洗十餘年 願わくは王はこれに勉(つと)めよ。楚元王(劉交)の子、淮南三王の或るものは、髪、足を洗わないこと十余年、 怨入骨髓欲一有所出之久矣寡人未得諸王之意未敢聽 怨みは骨髄(こつずい)に入り、一(いつ)に出(い)だすところ有(あ)るを欲すること久しいが、 わたしは未(ま)だ諸(もろもろ)の王の意を得ておらず、未(ま)だ敢(あ)えて聴いていない。...
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盎裝治行後十餘日 漢太常袁盎は旅の仕度(したく)をととのえた。十余日後、 上使中尉召錯紿載行東市 上(漢孝景帝劉啓)は中尉をつかわし漢御史大夫晁錯を召し寄せさせ、いつわって載(の)せて東市に行かせた。 錯衣朝衣斬東市則遣袁盎奉宗廟 漢御史大夫晁錯は朝衣を着たまま東市で斬られた。そこで、漢太常袁盎を遣(つか)わし、宗廟に奉(たてまつ)らせ、 宗正輔親戚使告吳如盎策...
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吳王專并將其兵未度淮 呉王劉濞は、専(もっぱ)らその兵を併(あわ)せ率(ひき)い、未(ま)だ淮(川名)を渡らなかった。 諸賓客皆得為將校尉候司馬獨周丘不得用 諸(もろもろ)の賓客は皆(みな)将軍、校尉、候、司馬に為り、独(ひと)り周丘だけが用いられるを得なかった。 周丘者下邳人亡命吳酤酒無行吳王濞薄之弗任 周丘という者は...
View Article初吳王之度淮與楚王遂西敗棘壁乘勝前銳甚
初吳王之度淮與楚王遂西敗棘壁乘勝前銳甚 呉王劉濞が淮を渡ったばかりのとき、楚王と遂(つい)に西に進んで棘壁を敗(やぶ)り、勝ちに乗じて前進して鋭いこと甚(はなは)だであった。 梁孝王恐遣六將軍擊吳又敗梁兩將士卒皆還走梁 梁孝王は恐れ、六将軍を遣(つか)わし呉を撃ち、また梁の二人の将軍を敗(やぶ)られ、士卒は皆(みな)梁に還(かえ)り走った。 梁數使使報條侯求救條侯不許...
View Article弓高侯執金鼓見之曰王苦軍事願聞王發兵狀
弓高侯執金鼓見之曰王苦軍事願聞王發兵狀 漢将弓高侯穨当は金の太鼓(たいこ)を執(と)て、これ(膠西王劉卬)に見(まみ)えて曰く、「王は軍事に苦しまれたが、王が兵を発した事情をお聞かせ願いたい」と。 王頓首膝行對曰今者晁錯天子用事臣變更高皇帝法令侵奪諸侯地...
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魏其侯竇嬰者孝文后從兄子也父世觀津人 魏其侯竇嬰という者は漢孝文帝劉恒の后(きさき)の従兄(いとこ)の子である。父の代は観津の人である。 喜賓客孝文時嬰為吳相病免孝景初即位為事 賓客を喜んだ。漢孝文帝劉恒の時、竇嬰は呉相と為り、病(やまい)にかかり免ぜられた。漢孝景帝劉啓が即位したばかりの時、事(せんじ 官職名)に為った。 梁孝王者孝景弟也其母竇太后愛之...
View Article嬰乃言袁盎欒布諸名將賢士在家者進之
嬰乃言袁盎欒布諸名將賢士在家者進之 漢大将軍竇嬰は漢太常袁盎、漢都尉欒布、諸(もろもろ)の名将、賢士、在家の者に言い、 これ(金)を進めた。 所賜金陳之廊廡下軍吏過輒令財取為用金無入家者 賜(たまわ)ったところの金は廊下(ろうか)のもとにこれを並(なら)べ、軍吏が立ち寄ると、そのたびごとに財(ざい)をして用いる為(ため)に取らせ、金は家に入れることは無かった。...
View Article遂不用用建陵侯衛綰為丞相
遂不用用建陵侯衛綰為丞相 遂(つい)に用いず、建陵侯衛綰を用いて漢丞相と為さしめた。 武安侯田蚡者孝景后同母弟也生長陵 武安侯田蚡という者は、漢孝景帝劉啓の后(きさき 王氏)と母を同じくする弟(異父弟)であり、 長陵に生まれた。 魏其已為大將軍後方盛蚡為諸郎未貴往來侍酒魏其跪起如子姓...
View Article籍福賀魏其侯因弔曰君侯資性喜善疾惡
籍福賀魏其侯因弔曰君侯資性喜善疾惡 籍福は漢丞相魏其侯竇嬰を賀して、 因りて心配して曰く、「君侯は生まれつき善を喜び悪を憎む 方今善人譽君侯故至丞相 まさに今、善人が君侯を誉めて、故に丞相に至りました。 然君侯且疾惡惡人眾亦且毀君侯 然るに君侯がまさに悪を憎まんとすれば、悪人が集まって、またまさに君侯をそしらんとするでしょう。 君侯能兼容則幸久不能今以毀去矣魏其不聽...
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武安侯雖不任職以王太后故親幸 武安侯田蚡は職を任(まか)せられていないと雖(いえど)も、王太后の故(ゆえ)を以って、親しまれかわいがられた。 數言事多效天下吏士趨勢利者皆去魏其歸武安武安日益 たびたび事を言って効力が多く、天下の役人、士の権勢と利益にはしる者は、皆(みな)魏其侯竇嬰を去(さ)って武安侯田蚡に帰属し、武安侯田蚡は日に日に益々(ますます)勝手きままになっていった。...
View Article魏其失竇太后益疏不用無勢
魏其失竇太后益疏不用無勢 魏其侯竇嬰は竇太后を失い、益々(ますます)疎(うと)んぜられて用いられず、勢(いきお)いが 無くなり、 諸客稍稍自引而怠傲唯灌將軍獨不失故 諸(もろもろ)の客は稍稍とだんだんに自ら引いてゆき、唯(ただ)灌将軍だけが独(ひと)り旧交を失わなかった。 魏其日默默不得志而獨厚遇灌將軍...
View Article灌夫為人剛直使酒不好面諛
灌夫為人剛直使酒不好面諛 灌夫の人と為りは剛直(ごうちょく)で酒をしておべっかを使うことを好まなかった。 貴戚諸有勢在己之右不欲加禮必陵 貴戚(王と同族の親戚)、諸(もろもろ)の勢いの有る者が己(おのれ)の右に在(あ)っても、礼(れい)を加えることを欲さず、必ず軽くみた。 諸士在己之左愈貧賤尤益敬與鈞...
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灌夫有服過丞相丞相從容曰 灌夫に服喪が有ったとき、漢丞相武安侯田蚡に立ち寄った。漢丞相武安侯田蚡は従容(しょうよう)としてそれとなく曰く、 吾欲與仲孺過魏其侯會仲孺有服 「吾(われ)は仲孺(灌夫の字)とともに魏其侯(竇嬰)に立ち寄ろうと欲するが、ちょうどいま仲孺(灌夫)は服喪にある」と。 灌夫曰將軍乃肯幸臨況魏其侯夫安敢以服為解 灌夫曰く、「将軍がそこで...
View Article丞相嘗使籍福請魏其城南田
丞相嘗使籍福請魏其城南田 漢丞相武安侯田蚡は嘗(かつ)て籍福をして魏其侯竇嬰の城南の田を請(こ)わせた。 魏其大望曰老僕雖棄將軍雖貴寧可以勢奪乎 魏其侯竇嬰は大いに恨(うら)んで曰く、「老いぼれのわたしが棄てられたと雖(いえど)も、将軍が地位が高いと雖(いえど)も、よもや勢いを以って奪うことができるのか」と。 不許灌夫聞怒罵籍福籍福惡兩人有郤乃謾自好謝丞相曰...
View Article夫無所發怒乃罵臨汝侯曰
夫無所發怒乃罵臨汝侯曰 灌夫は怒りを発するところ無く、そこで臨汝侯を罵(ののし)って曰く、 生平毀程不識不直一錢今日長者為壽 「ふだん、程不識は一銭にも値(あたい)しないとそしっておりながら、今日、長者が寿(ことほ)ぎを為しているのに、 乃效女兒呫囁耳語武安謂灌夫曰 そこで、女子供をまねてひそひそと耳に囁(ささや)いて話すのか」と。漢丞相武安侯田蚡は灌夫に謂(い)った、曰く、...
View Article魏其之東朝盛推灌夫之善
魏其之東朝盛推灌夫之善 魏其侯竇嬰は東朝に行き、盛んに灌夫の善(ぜん)を推(お)し、 言其醉飽得過乃丞相以他事誣罪之 その酔って満腹になって過(あやま)ちを得たのだと言った。そこで、漢丞相武安侯田蚡は他事を以ってこれを罪におとしいれようとした。 武安又盛毀灌夫所為恣罪逆不道 漢丞相武安侯田蚡もまた盛んに灌夫が思うままにしているところは、罪は悪逆無道であると謗(そし)った。 魏其度不可奈何因言丞相短...
View Article武安已罷朝
武安已罷朝出止車門召韓御史大夫載怒曰 漢丞相武安侯田蚡はすでに朝廷を退出して、出て車門に止(と)まり、漢御史大夫韓安国を召し寄せて 載(の)せて、怒って曰く、 與長孺共一老禿翁何為首鼠兩端 「長孺(韓安国)と一人の老いて禿(は)げた翁(おきな)を共(とも)にしたのに、どうしてひよりみをするのか?」と。 韓禦史良久謂丞相曰君何不自喜...
View Article其春武安侯病專呼服謝罪
其春武安侯病專呼服謝罪 その春(元光六年春)漢丞相武安侯田蚡は病(やまい)にかかり、専(もっぱ)ら叫んで、 罪をみとめ謝(あやま)った。 使巫視鬼者視之見魏其灌夫共守欲殺之 巫視鬼者をしてこれを視(み)させると、魏其侯竇嬰、灌夫が共(とも)にとりついてこれを殺そうと欲していると見た。 竟死子恬嗣元朔三年武安侯坐衣襜褕入宮不敬...
View Article史記 韓長孺列伝 始め
御史大夫韓安國者梁成安人也後徙睢陽 漢御史大夫韓安国という者は、梁の成安の人であり、後に睢陽に移った。 嘗受韓子雜家說於騶田生所 嘗(かつ)て韓非子、雑家(諸子百家の一つ)の説を騶の田先生の所で教えを受けた。 事梁孝王為中大夫吳楚反時 梁孝王劉武(漢孝景帝劉啓の同母弟)に仕(つか)えて梁中大夫と為った。呉、楚が反乱した時、 孝王使安國及張羽為將捍吳兵於東界...
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