故吳王欲內以晁錯為討外隨大王後車
故(ゆえ)に呉王劉濞は内(うち)に漢御史大夫晁錯を以って討(う)とうと思い、外(そと)に大王の後車に付き従うことを欲し、
彷徉天下所鄉者降所指者下天下莫敢不服
天下をさまよい歩き、向かうところの者は降(くだ)り、指すところの者は下(くだ)し、天下は敢(あ)えて服従せずはなし。
大王誠幸而許之一言則吳王率楚王略函谷關
大王が誠(まこと)に幸いにしてこの一言を聞き入れれば、呉王(劉濞)は楚王(劉戊)を率(ひき)いて函谷関を略(りゃく)し、
守滎陽敖倉之粟距漢兵治次舍須大王
栄陽の敖倉の粟(あわ)を守り、漢兵をこばみ、駅次の宿舎を治(なお)し、大王を待ち受けます。
大王有幸而臨之則天下可并兩主分割不亦可乎
大王が幸いにしてこれに臨(のぞ)むことが有れば、天下は併(あわ)せることができて、二人の主(あるじ)で分割(ぶんかつ)するもまた可(か)ならずや」と。
王曰善高歸報吳王
膠西王劉卬曰く、「よろしい」と、呉中大夫応高は帰って呉王劉濞に報告した。
吳王猶恐其不與乃身自為使使於膠西面結之
呉王劉濞は猶(なお)その与(くみ)さずを恐れ、すなわち身自(みずか)ら使者と為って、膠西に使いし、目の前で約束を結んだ。
膠西群臣或聞王謀諫曰承一帝至樂也
膠西の群臣の或(あ)るものは、王の謀(はかりごと)を聞き、諌(いさ)めて曰く、「一帝を承(うけたまわ)るは、最上の楽しみであります。
今大王與吳西鄉弟令事成兩主分爭患乃始結
今、大王は呉とともに西に向かい、事を成就(じょうじゅ)させ次第(しだい)、二人の主は争って分(わ)け、患(うれ)いはすなわち約束を結んだことに始まります。
諸侯之地不足為漢郡什二
諸侯の地が、漢郡と為るは十のうち二に足らず、
而為畔逆以憂太后非長策也
しこうして反逆を為して大いなる後(のち)を憂(うれ)えるを以ってするは、長期の策では非(あら)ざるなり」と。
王弗聽遂發使約齊菑川膠東
膠西王劉卬は聴き入れなかった。遂(つい)に使者を発し斉、菑川、膠東
濟南濟北皆許諾而曰
済南、済北に約(やく)し、皆(みな)許諾した。しこうして曰く、
城陽景王有義攻諸呂勿與事定分之耳
城陽景王は諸(もろもろ)の呂氏を攻(せ)めた義(ぎ)が有り、組(くみ)することなかれ、事が定まったらこれに分けるのみ」と。
諸侯既新削罰振恐多怨晁錯
諸侯はすでに新(あら)たに削(けず)られたり罰されたりして振(ふ)るえ恐れ、多くが漢御史大夫晁錯を怨(うら)んだ。
及削吳會稽豫章郡書至
呉の会稽郡、豫章郡を削(けず)る書状が至るに及んで、
則吳王先起兵膠西正月丙午誅漢吏二千石以下
すなわち呉王が先(さき)んじて兵を起(お)こし、膠西は正月丙午の日に漢の役人の二千石以下を誅(ちゅう)し、
膠東菑川濟南楚趙亦然遂發兵西
膠東、菑川、濟南、楚、趙もまたそのようにし、遂(つい)に兵を発して西に進んだ。
齊王後悔飲藥自殺畔約
斉王劉将閭は後悔(こうかい)して、薬を飲んで自殺し、約束に叛(そむ)いた。
濟北王城壞未完其郎中令劫守其王不得發兵
済北王(劉志)の城が壊(こわ)れ未(ま)だ完成しないうちで、その済北郎中令がその王をおびやかして守り、兵を発するを得られなかった。
膠西為渠率膠東菑川濟南共攻圍臨菑
膠西はかしらと為って膠東、菑川、済南を率(ひき)いて共(とも)に臨菑を攻めて包囲した。
趙王遂亦反陰使匈奴與連兵
趙王劉遂もまた反乱し、ひそかに匈奴をつかわしともに兵を連(つら)ねさせた。
七國之發也吳王悉其士卒下令國中曰
七国が発するは、呉王劉濞はその士卒をことごとくし、国中に令を下(くだ)して曰く、
寡人年六十二身自將少子年十四亦為士卒先
「わたしの年は六十二歳で身(み)自ら兵を率(ひき)いる。末の子は年十四歳でまた士卒の先頭と為る。
諸年上與寡人比下與少子等者皆發
諸(もろもろ)の年の上(うえ)はわたしと並ぶ者、年の下(した)は末子と等(ひと)しくする者まで、皆(みな)発する」と。
發二十餘萬人南使閩越東越東越亦發兵從
二十余万人を発した。南に閩越、東越に使(つか)いし、東越もまた兵を発して従(したが)った。
孝景帝三年正月甲子初起兵於廣陵
漢孝景帝劉啓三年、正月甲子の日、初めて広陵に於いて兵を起こした。
西涉淮因并楚兵發使遺諸侯書曰
西に進んで淮を渉(わた)り、因(よ)りて楚の兵を併(あわ)せた。使者を発して諸侯に書状を送り曰く、
吳王劉濞敬問膠西王膠東王
「吳王劉濞はつつしんで膠西王(劉卬)、膠東王(劉雄渠)、
菑川王濟南王趙王楚王淮南王
菑川王(劉賢)、済南王(劉辟光)、趙王(劉遂)、楚王(劉戊)、淮南王(劉安)、
衡山王廬江王故長沙王子幸教寡人
衡山王(劉勃)、廬江王(劉賜)、前の長沙王の子に問(と)う。わたしにご教示しただければ幸いである。
以漢有賊臣無功天下侵奪諸侯地
漢を以って賊臣が有って天下に手柄(てがら)が無く、諸侯の地を侵(おか)し奪(うば)い、
使吏劾系訊治以僇辱之為故
役人をして罪を調べて繋(つな)ぎ聞きただして治(おさ)め、これをはずかしめるを以ってことさらの為し、
不以諸侯人君禮遇劉氏骨肉絕先帝功臣
諸侯には人君の礼を以って劉氏の骨肉(こくにく)を待遇(たいぐう)せず、先帝(文帝劉恒)の功臣(こうしん)を絶(た)ち、
進任姦宄詿亂天下欲危社稷
不正でよこしまな者に委(ゆだ)ね、天下をあざむいて乱(みだ)すことを進め、社稷(しゃしょく)を危(あや)うくしようと欲している。
陛下多病志失不能省察
陛下は病(やまい)が多く、志(こころざし)は失(うしな)われ、省察(せいさつ)することができない。
欲舉兵誅之謹聞教敝國雖狹地方三千里
兵を挙(あ)げてこれを誅(ちゅう)し、謹(つつし)んで教えを聞くことを欲す。わたしの国は狭(せま)いと雖(いえど)も、地は三千里四方で、
人雖少精兵可具五十萬
人々は少ないと雖(いえど)も、精兵は五十万人をそろえることができる。
寡人素事南越三十餘年
わたしは素(もと)より南越に仕(つか)えること三十余年、
其王君皆不辭分其卒以隨寡人又可得三十餘萬
その王君は皆(みな)その兵卒を分けてわたしにつき従わせるを以ってするを辞(じ)さず、また三十余万人を得ることができる。
寡人雖不肖願以身從諸王
わたしは不肖(ふしょう)と雖(いえど)も、身(み)を以って諸(もろもろ)の王に従うことを願う。
越直長沙者因王子定長沙以北西走蜀漢中
越の向かいの長沙とは、王子に因(よ)りて長沙以北を定め、西に蜀、漢中に走る。
告越楚王淮南三王與寡人西面
越王、楚王、淮南の三人の王はわたしと西にむかうことを告げる。
齊諸王與趙王定河河內或入臨晉關或與寡人會雒陽
斉の諸(もろもろ)の王は趙王とともに河間、河内を定め、或いは臨晋の関に入り、或いはわたしと雒陽に会(かい)する。
燕王趙王固與胡王有約
燕王、趙王は固(かた)く匈奴王と約束を有(ゆう)し、
燕王北定代雲中摶胡眾入蕭關
燕王は北に代、雲中を定め、匈奴の衆をひとつにまとめ蕭の関に入る。
走長安匡正天子以安高廟
長安に走り、天子をだたし、高廟を安んずるを以ってする。
故(ゆえ)に呉王劉濞は内(うち)に漢御史大夫晁錯を以って討(う)とうと思い、外(そと)に大王の後車に付き従うことを欲し、
彷徉天下所鄉者降所指者下天下莫敢不服
天下をさまよい歩き、向かうところの者は降(くだ)り、指すところの者は下(くだ)し、天下は敢(あ)えて服従せずはなし。
大王誠幸而許之一言則吳王率楚王略函谷關
大王が誠(まこと)に幸いにしてこの一言を聞き入れれば、呉王(劉濞)は楚王(劉戊)を率(ひき)いて函谷関を略(りゃく)し、
守滎陽敖倉之粟距漢兵治次舍須大王
栄陽の敖倉の粟(あわ)を守り、漢兵をこばみ、駅次の宿舎を治(なお)し、大王を待ち受けます。
大王有幸而臨之則天下可并兩主分割不亦可乎
大王が幸いにしてこれに臨(のぞ)むことが有れば、天下は併(あわ)せることができて、二人の主(あるじ)で分割(ぶんかつ)するもまた可(か)ならずや」と。
王曰善高歸報吳王
膠西王劉卬曰く、「よろしい」と、呉中大夫応高は帰って呉王劉濞に報告した。
吳王猶恐其不與乃身自為使使於膠西面結之
呉王劉濞は猶(なお)その与(くみ)さずを恐れ、すなわち身自(みずか)ら使者と為って、膠西に使いし、目の前で約束を結んだ。
膠西群臣或聞王謀諫曰承一帝至樂也
膠西の群臣の或(あ)るものは、王の謀(はかりごと)を聞き、諌(いさ)めて曰く、「一帝を承(うけたまわ)るは、最上の楽しみであります。
今大王與吳西鄉弟令事成兩主分爭患乃始結
今、大王は呉とともに西に向かい、事を成就(じょうじゅ)させ次第(しだい)、二人の主は争って分(わ)け、患(うれ)いはすなわち約束を結んだことに始まります。
諸侯之地不足為漢郡什二
諸侯の地が、漢郡と為るは十のうち二に足らず、
而為畔逆以憂太后非長策也
しこうして反逆を為して大いなる後(のち)を憂(うれ)えるを以ってするは、長期の策では非(あら)ざるなり」と。
王弗聽遂發使約齊菑川膠東
膠西王劉卬は聴き入れなかった。遂(つい)に使者を発し斉、菑川、膠東
濟南濟北皆許諾而曰
済南、済北に約(やく)し、皆(みな)許諾した。しこうして曰く、
城陽景王有義攻諸呂勿與事定分之耳
城陽景王は諸(もろもろ)の呂氏を攻(せ)めた義(ぎ)が有り、組(くみ)することなかれ、事が定まったらこれに分けるのみ」と。
諸侯既新削罰振恐多怨晁錯
諸侯はすでに新(あら)たに削(けず)られたり罰されたりして振(ふ)るえ恐れ、多くが漢御史大夫晁錯を怨(うら)んだ。
及削吳會稽豫章郡書至
呉の会稽郡、豫章郡を削(けず)る書状が至るに及んで、
則吳王先起兵膠西正月丙午誅漢吏二千石以下
すなわち呉王が先(さき)んじて兵を起(お)こし、膠西は正月丙午の日に漢の役人の二千石以下を誅(ちゅう)し、
膠東菑川濟南楚趙亦然遂發兵西
膠東、菑川、濟南、楚、趙もまたそのようにし、遂(つい)に兵を発して西に進んだ。
齊王後悔飲藥自殺畔約
斉王劉将閭は後悔(こうかい)して、薬を飲んで自殺し、約束に叛(そむ)いた。
濟北王城壞未完其郎中令劫守其王不得發兵
済北王(劉志)の城が壊(こわ)れ未(ま)だ完成しないうちで、その済北郎中令がその王をおびやかして守り、兵を発するを得られなかった。
膠西為渠率膠東菑川濟南共攻圍臨菑
膠西はかしらと為って膠東、菑川、済南を率(ひき)いて共(とも)に臨菑を攻めて包囲した。
趙王遂亦反陰使匈奴與連兵
趙王劉遂もまた反乱し、ひそかに匈奴をつかわしともに兵を連(つら)ねさせた。
七國之發也吳王悉其士卒下令國中曰
七国が発するは、呉王劉濞はその士卒をことごとくし、国中に令を下(くだ)して曰く、
寡人年六十二身自將少子年十四亦為士卒先
「わたしの年は六十二歳で身(み)自ら兵を率(ひき)いる。末の子は年十四歳でまた士卒の先頭と為る。
諸年上與寡人比下與少子等者皆發
諸(もろもろ)の年の上(うえ)はわたしと並ぶ者、年の下(した)は末子と等(ひと)しくする者まで、皆(みな)発する」と。
發二十餘萬人南使閩越東越東越亦發兵從
二十余万人を発した。南に閩越、東越に使(つか)いし、東越もまた兵を発して従(したが)った。
孝景帝三年正月甲子初起兵於廣陵
漢孝景帝劉啓三年、正月甲子の日、初めて広陵に於いて兵を起こした。
西涉淮因并楚兵發使遺諸侯書曰
西に進んで淮を渉(わた)り、因(よ)りて楚の兵を併(あわ)せた。使者を発して諸侯に書状を送り曰く、
吳王劉濞敬問膠西王膠東王
「吳王劉濞はつつしんで膠西王(劉卬)、膠東王(劉雄渠)、
菑川王濟南王趙王楚王淮南王
菑川王(劉賢)、済南王(劉辟光)、趙王(劉遂)、楚王(劉戊)、淮南王(劉安)、
衡山王廬江王故長沙王子幸教寡人
衡山王(劉勃)、廬江王(劉賜)、前の長沙王の子に問(と)う。わたしにご教示しただければ幸いである。
以漢有賊臣無功天下侵奪諸侯地
漢を以って賊臣が有って天下に手柄(てがら)が無く、諸侯の地を侵(おか)し奪(うば)い、
使吏劾系訊治以僇辱之為故
役人をして罪を調べて繋(つな)ぎ聞きただして治(おさ)め、これをはずかしめるを以ってことさらの為し、
不以諸侯人君禮遇劉氏骨肉絕先帝功臣
諸侯には人君の礼を以って劉氏の骨肉(こくにく)を待遇(たいぐう)せず、先帝(文帝劉恒)の功臣(こうしん)を絶(た)ち、
進任姦宄詿亂天下欲危社稷
不正でよこしまな者に委(ゆだ)ね、天下をあざむいて乱(みだ)すことを進め、社稷(しゃしょく)を危(あや)うくしようと欲している。
陛下多病志失不能省察
陛下は病(やまい)が多く、志(こころざし)は失(うしな)われ、省察(せいさつ)することができない。
欲舉兵誅之謹聞教敝國雖狹地方三千里
兵を挙(あ)げてこれを誅(ちゅう)し、謹(つつし)んで教えを聞くことを欲す。わたしの国は狭(せま)いと雖(いえど)も、地は三千里四方で、
人雖少精兵可具五十萬
人々は少ないと雖(いえど)も、精兵は五十万人をそろえることができる。
寡人素事南越三十餘年
わたしは素(もと)より南越に仕(つか)えること三十余年、
其王君皆不辭分其卒以隨寡人又可得三十餘萬
その王君は皆(みな)その兵卒を分けてわたしにつき従わせるを以ってするを辞(じ)さず、また三十余万人を得ることができる。
寡人雖不肖願以身從諸王
わたしは不肖(ふしょう)と雖(いえど)も、身(み)を以って諸(もろもろ)の王に従うことを願う。
越直長沙者因王子定長沙以北西走蜀漢中
越の向かいの長沙とは、王子に因(よ)りて長沙以北を定め、西に蜀、漢中に走る。
告越楚王淮南三王與寡人西面
越王、楚王、淮南の三人の王はわたしと西にむかうことを告げる。
齊諸王與趙王定河河內或入臨晉關或與寡人會雒陽
斉の諸(もろもろ)の王は趙王とともに河間、河内を定め、或いは臨晋の関に入り、或いはわたしと雒陽に会(かい)する。
燕王趙王固與胡王有約
燕王、趙王は固(かた)く匈奴王と約束を有(ゆう)し、
燕王北定代雲中摶胡眾入蕭關
燕王は北に代、雲中を定め、匈奴の衆をひとつにまとめ蕭の関に入る。
走長安匡正天子以安高廟
長安に走り、天子をだたし、高廟を安んずるを以ってする。