願王勉之楚元王子淮南三王或不沐洗十餘年
願わくは王はこれに勉(つと)めよ。楚元王(劉交)の子、淮南三王の或るものは、髪、足を洗わないこと十余年、
怨入骨髓欲一有所出之久矣寡人未得諸王之意未敢聽
怨みは骨髄(こつずい)に入り、一(いつ)に出(い)だすところ有(あ)るを欲すること久しいが、
わたしは未(ま)だ諸(もろもろ)の王の意を得ておらず、未(ま)だ敢(あ)えて聴いていない。
今諸王茍能存亡繼絕振弱伐暴以安劉氏社稷之所願也
今、諸(もろもろ)の王はかりそめにも存(ながら)えること、亡(ほろ)びること、継続すること、
絶(た)つことができるが、弱きを振(ふ)るって暴虐(ぼうぎゃく)を征伐(せいばつ)し、劉氏の社稷を安(やす)んずるを以ってするのが、願うところである。
敝國雖貧寡人節衣食之用積金錢
わたしの国は貧しいと雖(いえど)も、わたしは衣食の用を節約し、金銭を積(つ)んで、
彊兵革聚穀食夜以繼日三十餘年矣
兵革(へいかく)を強め、穀食を集め、夜(よる)も昼(ひる)を継(つ)ぐを以ってすること、三十余年。
凡為此願諸王勉用之能斬捕大將者賜金五千斤封萬戶
凡(およ)そこのように為すのは、諸(もろもろ)の王がこれを用いることに勉(つと)めることを願うからである。大将を捕(と)らえて斬ることができた者には金五千斤を賜(たまわ)り、一万戸を封ずる。
列將三千斤封五千戶裨將二千斤封二千戶
列将は三千斤、封は五千戸、副将は二千斤、封は二千戸、
二千石千斤封千戶千石五百斤封五百戶
二千石は千斤、封は一千戸、一千石は五百斤、封は五百戸、
皆為列侯其以軍若城邑降者卒萬人邑萬戶如得大將
皆(みな)列侯と為す。その軍を以ってもしも城邑を降(くだ)した者には士卒一万人、邑(むら)一万戸、もしも大将をつかまえたら、
人戶五千如得列將人戶三千如得裨將
人も戸も五千、もし列将をつかまえたら、人も戸も三千、もし副将をつかまえたら、
人戶千如得二千石其小吏皆以差次受爵金
人も戸も一千、もしも二千石、その小役人をつかまえたら、皆(みな)差(さ)の順次を以って爵、金をさずける。
佗封賜皆倍軍法其有故爵邑者更益勿因
他(ほか)の封賜は皆(みな)軍法の倍(ばい)にする。その以前の爵邑が有る者は、改(あらた)めて益封し、改(あらた)めないことがないようにする。
願諸王明以令士大夫弗敢欺也
諸(もろもろ)の王には明らかにするに士大夫に令するを以ってし、敢(あ)えて欺(あざむ)くことがないことを願うのある。
寡人金錢在天下者往往而有非必取於吳諸王日夜用之弗能盡
わたしの金銭が天下に在(ある)るのは、往々(おうおう)にしていつも有り、必ずしも呉に於いて取るのではなく、諸(もろもろ)の王が日夜(にちや)これを用いても尽(つ)きることはできない。
有當賜者告寡人寡人且往遺之敬以聞
賞賜(しょうし)に当たる者が有れば、わたしに告げよ。わたしはまさにこれを贈(おく)りに往(ゆ)かんとし、つつしんで聞き入れるを以ってする」と。
七國反書聞天子天子乃遣太尉條侯周亞夫將三十六將軍往擊吳楚
七国の謀反書は天子の耳に入り、天子はそこで漢太尉條侯周亞夫を遣(つか)わして三十六の将軍を率(ひき)いさせて、呉、楚を撃(う)ちに往(ゆ)かせた。
遣曲周侯酈寄擊趙將軍欒布擊齊
曲周侯麗寄を遣(つか)わし趙を撃(う)たせ、漢将軍欒布には斉を撃(う)たせた。
大將軍竇嬰屯滎陽監齊趙兵
漢大将軍竇嬰に栄陽で駐屯(ちゅうとん)させ、斉、趙の兵を監視(かんし)させた。
吳楚反書聞兵未發竇嬰未行言故吳相袁盎
呉、楚の謀反の書が聞こえ、兵が未(ま)だ発されないうちで、漢大将軍竇嬰が未(ま)だ行かないうちに、前の呉相の袁盎に言った。
盎時家居詔召入見上方與晁錯調兵笇軍食上問袁盎曰
袁盎はこの時家住まいをしていたが、詔(みことのり)をして召し寄せ入見させた。上(漢孝景帝劉啓)はまさに漢御史大夫晁錯と兵を調べ、軍の食糧を計算した。上(漢孝景帝劉啓)は漢御史大夫晁錯に問うた、曰く、
君嘗為吳相知吳臣田祿伯為人乎今吳楚反於公何如
「君は嘗(かつ)て呉相に為っており、呉臣の田禄伯の人と為りを知っているか?今、呉、楚が反乱し、公においてはいかに?」と。
對曰不足憂也今破矣上曰
応(こた)えて曰く、「憂(うれ)えるには足りません、今に破(やぶ)れます」と。
上(漢孝景帝劉啓)曰く、
吳王即山鑄錢煮海水為鹽誘天下豪桀白頭舉事
「呉王はすなわち銭(ぜに)を山(やま)と鋳(い)て、海水を煮て塩をつくり、天下の豪傑を誘(さそ)い、白髪頭で事を挙(あ)げようとしている。
若此其計不百全豈發乎何以言其無能為也
このごとくで、その計画は完全に全(まっと)うしないと、どうして発言するのか?何ものを以ってその為すことができないと言うのか」と。
袁盎對曰吳有銅鹽利則有之安得豪桀而誘之
袁盎は応(こた)えて曰く、「呉には銅、塩の利(り)が有って、すなわちこれを有(ゆう)し、
いずこに豪傑(ごうけつ)にしてこれを誘(さそ)うことができましょうか。
誠令吳得豪桀亦且輔王為義不反矣
誠(まこと)に呉に豪傑(ごうけつ)を得さしめれば、またまさに王を補佐して叛(そむ)かずを義(ぎ)と為すでしょう。
吳所誘皆無子弟亡命鑄錢姦人故相率以反
呉が誘ったところは皆(みな)頼(たよ)る子弟(してい)が無く、亡命して銭を鋳(い)る悪人で、故(ゆえ)に相(あい)率(ひき)いるに反するを以ってするでしょう」と。
晁錯曰袁盎策之善上問曰計安出
漢御史大夫晁錯曰く、「袁盎の策(さく)は善(よ)い」と。上(漢孝景帝劉啓)曰く、
「計(はか)りごとはいずこで出すのか?」と。
盎對曰願屏左右上屏人獨錯在
袁盎は応(こた)えて曰く、「願わくは左右の者をしりぞけてください」と。上(漢孝景帝劉啓)は
人ばらいをして、独(ひと)り漢御史大夫晁錯だけがのこった。
盎曰臣所言人臣不得知也乃屏錯
袁盎曰く、「わたしの言うところは、人臣は知ることができません」と。すなわち漢御史大夫晁錯を
しりぞかせた。
錯趨避東廂恨甚上卒問盎盎對曰
漢御史大夫晁錯は小走りに東廂にしりぞき、恨(うら)めしく思うこと甚(はなは)だであった。
上(漢孝景帝劉啓)はついに袁盎に問うた。袁盎は応(こた)えて曰く、
吳楚相遺書曰高帝王子弟各有分地
「呉、楚は相(あい)書状を送りあって、曰く、高帝(劉邦)の王子、弟が各々(おのおの)
分地を有(ゆう)し、
今賊臣晁錯擅適過諸侯削奪之地
今、賊臣の晁錯が思うままに過(あやま)ちを諸侯に懲(こ)らしめ、この地を削(けず)り
奪(うば)っている、と。
故以反為名西共誅晁錯復故地而罷
故(ゆえ)に反するを以って名目(めいもく)と為すは、西に進んで共(とも)に晁錯を誅(ちゅう)し、故地をとりもどして止(や)めると。
方今計獨斬晁錯發使赦吳楚七國復其故削地
まさに今、計(はか)るはただ晁錯を斬り、使者を発して呉楚七国を赦(ゆる)し、
その前に削られた土地をもとに復(ふく)すれば、
則兵可無血刃而俱罷於是上嘿然良久曰
すなわち戦いは血の刃(やいば)無くしてともに止(や)めることができます」と。ここに於いて上(漢孝景帝劉啓)は黙然(もくぜん)とだまりこんで、しばらくして曰く、
顧誠何如吾不愛一人以謝天下盎曰
「顧(かえり)みて誠(まこと)に、吾(われ)が一人を愛(め)でず、天下に謝するを以ってするはどうしたらよいか」と。袁盎曰く、
臣愚計無出此願上孰計之
「わたしの愚計はここに出すことなかれ。願わくは上がこれを熟計ください」と。
乃拜盎為太常吳王弟子侯為宗正
そこで、袁盎に官をさずけて太常と為し、呉王劉濞の弟の子の徳侯には宗正と為した。
願わくは王はこれに勉(つと)めよ。楚元王(劉交)の子、淮南三王の或るものは、髪、足を洗わないこと十余年、
怨入骨髓欲一有所出之久矣寡人未得諸王之意未敢聽
怨みは骨髄(こつずい)に入り、一(いつ)に出(い)だすところ有(あ)るを欲すること久しいが、
わたしは未(ま)だ諸(もろもろ)の王の意を得ておらず、未(ま)だ敢(あ)えて聴いていない。
今諸王茍能存亡繼絕振弱伐暴以安劉氏社稷之所願也
今、諸(もろもろ)の王はかりそめにも存(ながら)えること、亡(ほろ)びること、継続すること、
絶(た)つことができるが、弱きを振(ふ)るって暴虐(ぼうぎゃく)を征伐(せいばつ)し、劉氏の社稷を安(やす)んずるを以ってするのが、願うところである。
敝國雖貧寡人節衣食之用積金錢
わたしの国は貧しいと雖(いえど)も、わたしは衣食の用を節約し、金銭を積(つ)んで、
彊兵革聚穀食夜以繼日三十餘年矣
兵革(へいかく)を強め、穀食を集め、夜(よる)も昼(ひる)を継(つ)ぐを以ってすること、三十余年。
凡為此願諸王勉用之能斬捕大將者賜金五千斤封萬戶
凡(およ)そこのように為すのは、諸(もろもろ)の王がこれを用いることに勉(つと)めることを願うからである。大将を捕(と)らえて斬ることができた者には金五千斤を賜(たまわ)り、一万戸を封ずる。
列將三千斤封五千戶裨將二千斤封二千戶
列将は三千斤、封は五千戸、副将は二千斤、封は二千戸、
二千石千斤封千戶千石五百斤封五百戶
二千石は千斤、封は一千戸、一千石は五百斤、封は五百戸、
皆為列侯其以軍若城邑降者卒萬人邑萬戶如得大將
皆(みな)列侯と為す。その軍を以ってもしも城邑を降(くだ)した者には士卒一万人、邑(むら)一万戸、もしも大将をつかまえたら、
人戶五千如得列將人戶三千如得裨將
人も戸も五千、もし列将をつかまえたら、人も戸も三千、もし副将をつかまえたら、
人戶千如得二千石其小吏皆以差次受爵金
人も戸も一千、もしも二千石、その小役人をつかまえたら、皆(みな)差(さ)の順次を以って爵、金をさずける。
佗封賜皆倍軍法其有故爵邑者更益勿因
他(ほか)の封賜は皆(みな)軍法の倍(ばい)にする。その以前の爵邑が有る者は、改(あらた)めて益封し、改(あらた)めないことがないようにする。
願諸王明以令士大夫弗敢欺也
諸(もろもろ)の王には明らかにするに士大夫に令するを以ってし、敢(あ)えて欺(あざむ)くことがないことを願うのある。
寡人金錢在天下者往往而有非必取於吳諸王日夜用之弗能盡
わたしの金銭が天下に在(ある)るのは、往々(おうおう)にしていつも有り、必ずしも呉に於いて取るのではなく、諸(もろもろ)の王が日夜(にちや)これを用いても尽(つ)きることはできない。
有當賜者告寡人寡人且往遺之敬以聞
賞賜(しょうし)に当たる者が有れば、わたしに告げよ。わたしはまさにこれを贈(おく)りに往(ゆ)かんとし、つつしんで聞き入れるを以ってする」と。
七國反書聞天子天子乃遣太尉條侯周亞夫將三十六將軍往擊吳楚
七国の謀反書は天子の耳に入り、天子はそこで漢太尉條侯周亞夫を遣(つか)わして三十六の将軍を率(ひき)いさせて、呉、楚を撃(う)ちに往(ゆ)かせた。
遣曲周侯酈寄擊趙將軍欒布擊齊
曲周侯麗寄を遣(つか)わし趙を撃(う)たせ、漢将軍欒布には斉を撃(う)たせた。
大將軍竇嬰屯滎陽監齊趙兵
漢大将軍竇嬰に栄陽で駐屯(ちゅうとん)させ、斉、趙の兵を監視(かんし)させた。
吳楚反書聞兵未發竇嬰未行言故吳相袁盎
呉、楚の謀反の書が聞こえ、兵が未(ま)だ発されないうちで、漢大将軍竇嬰が未(ま)だ行かないうちに、前の呉相の袁盎に言った。
盎時家居詔召入見上方與晁錯調兵笇軍食上問袁盎曰
袁盎はこの時家住まいをしていたが、詔(みことのり)をして召し寄せ入見させた。上(漢孝景帝劉啓)はまさに漢御史大夫晁錯と兵を調べ、軍の食糧を計算した。上(漢孝景帝劉啓)は漢御史大夫晁錯に問うた、曰く、
君嘗為吳相知吳臣田祿伯為人乎今吳楚反於公何如
「君は嘗(かつ)て呉相に為っており、呉臣の田禄伯の人と為りを知っているか?今、呉、楚が反乱し、公においてはいかに?」と。
對曰不足憂也今破矣上曰
応(こた)えて曰く、「憂(うれ)えるには足りません、今に破(やぶ)れます」と。
上(漢孝景帝劉啓)曰く、
吳王即山鑄錢煮海水為鹽誘天下豪桀白頭舉事
「呉王はすなわち銭(ぜに)を山(やま)と鋳(い)て、海水を煮て塩をつくり、天下の豪傑を誘(さそ)い、白髪頭で事を挙(あ)げようとしている。
若此其計不百全豈發乎何以言其無能為也
このごとくで、その計画は完全に全(まっと)うしないと、どうして発言するのか?何ものを以ってその為すことができないと言うのか」と。
袁盎對曰吳有銅鹽利則有之安得豪桀而誘之
袁盎は応(こた)えて曰く、「呉には銅、塩の利(り)が有って、すなわちこれを有(ゆう)し、
いずこに豪傑(ごうけつ)にしてこれを誘(さそ)うことができましょうか。
誠令吳得豪桀亦且輔王為義不反矣
誠(まこと)に呉に豪傑(ごうけつ)を得さしめれば、またまさに王を補佐して叛(そむ)かずを義(ぎ)と為すでしょう。
吳所誘皆無子弟亡命鑄錢姦人故相率以反
呉が誘ったところは皆(みな)頼(たよ)る子弟(してい)が無く、亡命して銭を鋳(い)る悪人で、故(ゆえ)に相(あい)率(ひき)いるに反するを以ってするでしょう」と。
晁錯曰袁盎策之善上問曰計安出
漢御史大夫晁錯曰く、「袁盎の策(さく)は善(よ)い」と。上(漢孝景帝劉啓)曰く、
「計(はか)りごとはいずこで出すのか?」と。
盎對曰願屏左右上屏人獨錯在
袁盎は応(こた)えて曰く、「願わくは左右の者をしりぞけてください」と。上(漢孝景帝劉啓)は
人ばらいをして、独(ひと)り漢御史大夫晁錯だけがのこった。
盎曰臣所言人臣不得知也乃屏錯
袁盎曰く、「わたしの言うところは、人臣は知ることができません」と。すなわち漢御史大夫晁錯を
しりぞかせた。
錯趨避東廂恨甚上卒問盎盎對曰
漢御史大夫晁錯は小走りに東廂にしりぞき、恨(うら)めしく思うこと甚(はなは)だであった。
上(漢孝景帝劉啓)はついに袁盎に問うた。袁盎は応(こた)えて曰く、
吳楚相遺書曰高帝王子弟各有分地
「呉、楚は相(あい)書状を送りあって、曰く、高帝(劉邦)の王子、弟が各々(おのおの)
分地を有(ゆう)し、
今賊臣晁錯擅適過諸侯削奪之地
今、賊臣の晁錯が思うままに過(あやま)ちを諸侯に懲(こ)らしめ、この地を削(けず)り
奪(うば)っている、と。
故以反為名西共誅晁錯復故地而罷
故(ゆえ)に反するを以って名目(めいもく)と為すは、西に進んで共(とも)に晁錯を誅(ちゅう)し、故地をとりもどして止(や)めると。
方今計獨斬晁錯發使赦吳楚七國復其故削地
まさに今、計(はか)るはただ晁錯を斬り、使者を発して呉楚七国を赦(ゆる)し、
その前に削られた土地をもとに復(ふく)すれば、
則兵可無血刃而俱罷於是上嘿然良久曰
すなわち戦いは血の刃(やいば)無くしてともに止(や)めることができます」と。ここに於いて上(漢孝景帝劉啓)は黙然(もくぜん)とだまりこんで、しばらくして曰く、
顧誠何如吾不愛一人以謝天下盎曰
「顧(かえり)みて誠(まこと)に、吾(われ)が一人を愛(め)でず、天下に謝するを以ってするはどうしたらよいか」と。袁盎曰く、
臣愚計無出此願上孰計之
「わたしの愚計はここに出すことなかれ。願わくは上がこれを熟計ください」と。
乃拜盎為太常吳王弟子侯為宗正
そこで、袁盎に官をさずけて太常と為し、呉王劉濞の弟の子の徳侯には宗正と為した。