盎裝治行後十餘日
漢太常袁盎は旅の仕度(したく)をととのえた。十余日後、
上使中尉召錯紿載行東市
上(漢孝景帝劉啓)は中尉をつかわし漢御史大夫晁錯を召し寄せさせ、いつわって載(の)せて東市に行かせた。
錯衣朝衣斬東市則遣袁盎奉宗廟
漢御史大夫晁錯は朝衣を着たまま東市で斬られた。そこで、漢太常袁盎を遣(つか)わし、宗廟に奉(たてまつ)らせ、
宗正輔親戚使告吳如盎策
漢宗正徳侯は親戚(しんせき)をよりどころに、呉に漢太常袁盎の策(さく)の如(ごと)くを告げさせた。
至吳吳楚兵已攻梁壁矣
呉に至ると、呉楚の兵はすでに梁の棘壁を攻(せ)めていた。
宗正以親故先入見諭吳王使拜受詔
漢宗正徳侯は親戚故(ゆえ)を以って、先(さき)んじて入見し、呉王劉濞に諭(さと)して、拝(はい)させて詔(みことのり)を受けさしめた。
吳王聞袁盎來亦知其欲說己笑而應曰
呉王劉濞は漢太常袁盎が来たと聞き、またその己(おのれ)を説こうと欲していることを知って、笑って、応(こた)えて曰く、
我已為東帝尚何誰拜
「我(われ)はすでに東帝と為ったのに、尚(なお)、どこの誰(だれ)が拝(はい)そうか」と。
不肯見盎而留之軍中欲劫使將
漢太常袁盎に見(まみ)えるをよしとせず、軍中にこれを留(とど)めておどして兵を率いさせようと欲した。
盎不肯使人圍守且殺之
漢太常袁盎はよしとしなかったので、人をして包囲して守らせ、まさにこれを殺さんとした。
盎得夜出步亡去走梁軍遂歸報
漢太常袁盎は夜に脱出することを得て、足で逃げ去り、梁軍に走り、遂(つい)に帰って報告した。
條侯將乘六乘傳會兵滎陽
漢太尉條侯周亞夫はまさに六台の兵車を乗り次(つ)いで、栄陽に兵を会(かい)さんとし、
至雒陽見劇孟喜曰
雒陽に至って、劇孟に見(まみ)え、喜んで曰く、
七國反吾乘傳至此不自意全
「七国が反乱し、吾(われ)は乗り次(つ)いでここに至ったが、自ら全(まっと)うするとは思わなかった。
又以為諸侯已得劇孟劇孟今無動
また諸侯がすでになんじを得たと思ったが、なんじは、今動いていなかった。
吾據滎陽以東無足憂者
吾(われ)は栄陽を拠点にして、東に憂(うれ)いに足(た)る者はいなくなるを以ってした」と。
至淮陽問父絳侯故客都尉曰
淮陽に至って、父の絳侯周勃の旧客の都尉に問うて、曰く、
策安出客曰吳兵銳甚
「策(さく)はいずこを出すのか?」と。客(都尉)曰く、「呉兵は勇猛なること甚(はなは)だで、
難與爭鋒楚兵輕不能久
ともに切っ先(きっさき)を争(あらそ)うは難しい。楚兵は身軽で(戦いを)久しくすることはできない。
方今為將軍計莫若引兵東北壁昌邑
まさに今将軍の為(ため)に計(はか)るに兵を引いて東北に進み、昌邑をとりでにするにこしたことはありません。
以梁委吳吳必盡銳攻之
梁を以って呉を委(ゆだ)ねれば、呉は必ず勇猛を尽(つ)くしてこれ(梁)を攻(せ)めるでしょう。
將軍深溝高壘使輕兵絕淮泗口
将軍は溝(みぞ)を深くして、塁壁(るいへき)を高くして、軽兵をして淮(川名)、泗(川名)の口を絶(た)たせ、
塞吳馕道彼吳梁相敝而糧食竭
呉の糧道を塞(ふさ)ぐのです。彼(か)の呉、梁は相(あい)疲弊(ひへい)して、食糧は尽(つ)きて、
乃以全彊制其罷極破吳必矣
すなわち、強を全(まっと)うするを以って、その疲弊の極(きわ)みを制(せい)すれば、呉を破(やぶ)ること必ずです」と。
條侯曰善從其策
漢太尉條侯周亞夫曰く、「よろしい」と。その策(さく)に従(したが)った。
遂堅壁昌邑南輕兵絕吳馕道
遂(つい)に昌邑の南に塁壁(るいへき)を堅(かた)くして、軽兵は呉の糧道を絶(た)った。
吳王之初發也吳臣田祿伯為大將軍
呉王劉濞の兵を発したばかりのとき、呉の臣下の田禄伯が大将軍に為った。
田祿伯曰兵屯聚而西
呉大将軍田禄伯曰く、「兵は多くの人を集めて西へ進み、
無佗奇道難以就功
他のすぐれた道は無ければ、手柄に就(つ)くを以ってするは難(むずか)しいです。
臣願得五萬人別循江淮而上
わたしは、五万人を得ることを願います。別(わか)れて江(川名)、淮(川名)にそってゆきて上(のぼ)り、
收淮南長沙入武關
淮南、長沙を収(おさ)めて、武関に入り、
與大王會此亦一奇也
大王(呉王劉濞)と会(かい)したいと思います。これもまた一つの奇計であります」と。
吳王太子諫曰王以反為名
呉王劉濞の太子が諌(いさ)めて曰く、「王(呉王劉濞)は叛(そむ)くを以って名目と為し、
此兵難以藉人藉人亦且反王柰何
このような兵は人に貸(か)すを以ってするは難(むずか)しく、人に貸(か)してまた、まさに王に叛(そむ)かんとすれば、どうしますか?
且擅兵而別多佗利害未可知也
まさに兵を思うままにして別れれば、他の未(ま)だ知ることのできない利害が多く、
徒自損耳吳王即不許田祿伯
むだに自らを損(そこ)ねるだけであります」と。呉王劉濞はそこで呉大将軍田禄伯を聞き入れなかった。
吳少將桓將軍說王曰
呉少将桓将軍は王(呉王劉濞)を説(と)いて曰く、
吳多步兵步兵利險
「呉は歩兵が多く、歩兵は険阻(けんそ)に有利で、
漢多車騎車騎利平地
漢は車騎が多く、車騎は平地に有利です。
願大王所過城邑不下直棄去
大王(呉王劉濞)が立ち寄ったところの城邑が下(くだ)らなかったら、すぐに棄(す)てて去(さ)ることを願います。
疾西據雒陽武庫食敖倉粟
いそいで西に進み、雒陽の武庫を拠点にして、敖倉の粟(あわ)を食べて、
阻山河之險以令諸侯
山河の険阻(けんそ)を阻(はば)み諸侯に令(れい)するを以ってすれば、
雖毋入關天下固已定矣
関に入らずと雖(いえど)も、天下はいうまでもなくやがて定まります。
即大王徐行留下城邑
すなわち、大王(呉王劉濞)は徐行(じょこう)して、城邑を下(くだ)しに留(とど)まれば、
漢軍車騎至馳入梁楚之郊事敗矣
漢軍の車騎が至って梁、楚の郊外に馳(は)せて入れば、事(こと)は失敗します」と。
吳王問諸老將老將曰
呉王劉濞は諸(もろもろ)の老将に問うた。老将曰く、
此少年推鋒之計可耳
「これは少年が鋒(ほこさき)の計を推し進めるによいだけで、
安知大慮乎於是王不用桓將軍計
いずこに大いなる慮(おもんばか)りをわきまえているでしょうか」と。ここに於いて王(呉王劉濞)は呉少将桓将軍の計画を用いなかった。
漢太常袁盎は旅の仕度(したく)をととのえた。十余日後、
上使中尉召錯紿載行東市
上(漢孝景帝劉啓)は中尉をつかわし漢御史大夫晁錯を召し寄せさせ、いつわって載(の)せて東市に行かせた。
錯衣朝衣斬東市則遣袁盎奉宗廟
漢御史大夫晁錯は朝衣を着たまま東市で斬られた。そこで、漢太常袁盎を遣(つか)わし、宗廟に奉(たてまつ)らせ、
宗正輔親戚使告吳如盎策
漢宗正徳侯は親戚(しんせき)をよりどころに、呉に漢太常袁盎の策(さく)の如(ごと)くを告げさせた。
至吳吳楚兵已攻梁壁矣
呉に至ると、呉楚の兵はすでに梁の棘壁を攻(せ)めていた。
宗正以親故先入見諭吳王使拜受詔
漢宗正徳侯は親戚故(ゆえ)を以って、先(さき)んじて入見し、呉王劉濞に諭(さと)して、拝(はい)させて詔(みことのり)を受けさしめた。
吳王聞袁盎來亦知其欲說己笑而應曰
呉王劉濞は漢太常袁盎が来たと聞き、またその己(おのれ)を説こうと欲していることを知って、笑って、応(こた)えて曰く、
我已為東帝尚何誰拜
「我(われ)はすでに東帝と為ったのに、尚(なお)、どこの誰(だれ)が拝(はい)そうか」と。
不肯見盎而留之軍中欲劫使將
漢太常袁盎に見(まみ)えるをよしとせず、軍中にこれを留(とど)めておどして兵を率いさせようと欲した。
盎不肯使人圍守且殺之
漢太常袁盎はよしとしなかったので、人をして包囲して守らせ、まさにこれを殺さんとした。
盎得夜出步亡去走梁軍遂歸報
漢太常袁盎は夜に脱出することを得て、足で逃げ去り、梁軍に走り、遂(つい)に帰って報告した。
條侯將乘六乘傳會兵滎陽
漢太尉條侯周亞夫はまさに六台の兵車を乗り次(つ)いで、栄陽に兵を会(かい)さんとし、
至雒陽見劇孟喜曰
雒陽に至って、劇孟に見(まみ)え、喜んで曰く、
七國反吾乘傳至此不自意全
「七国が反乱し、吾(われ)は乗り次(つ)いでここに至ったが、自ら全(まっと)うするとは思わなかった。
又以為諸侯已得劇孟劇孟今無動
また諸侯がすでになんじを得たと思ったが、なんじは、今動いていなかった。
吾據滎陽以東無足憂者
吾(われ)は栄陽を拠点にして、東に憂(うれ)いに足(た)る者はいなくなるを以ってした」と。
至淮陽問父絳侯故客都尉曰
淮陽に至って、父の絳侯周勃の旧客の都尉に問うて、曰く、
策安出客曰吳兵銳甚
「策(さく)はいずこを出すのか?」と。客(都尉)曰く、「呉兵は勇猛なること甚(はなは)だで、
難與爭鋒楚兵輕不能久
ともに切っ先(きっさき)を争(あらそ)うは難しい。楚兵は身軽で(戦いを)久しくすることはできない。
方今為將軍計莫若引兵東北壁昌邑
まさに今将軍の為(ため)に計(はか)るに兵を引いて東北に進み、昌邑をとりでにするにこしたことはありません。
以梁委吳吳必盡銳攻之
梁を以って呉を委(ゆだ)ねれば、呉は必ず勇猛を尽(つ)くしてこれ(梁)を攻(せ)めるでしょう。
將軍深溝高壘使輕兵絕淮泗口
将軍は溝(みぞ)を深くして、塁壁(るいへき)を高くして、軽兵をして淮(川名)、泗(川名)の口を絶(た)たせ、
塞吳馕道彼吳梁相敝而糧食竭
呉の糧道を塞(ふさ)ぐのです。彼(か)の呉、梁は相(あい)疲弊(ひへい)して、食糧は尽(つ)きて、
乃以全彊制其罷極破吳必矣
すなわち、強を全(まっと)うするを以って、その疲弊の極(きわ)みを制(せい)すれば、呉を破(やぶ)ること必ずです」と。
條侯曰善從其策
漢太尉條侯周亞夫曰く、「よろしい」と。その策(さく)に従(したが)った。
遂堅壁昌邑南輕兵絕吳馕道
遂(つい)に昌邑の南に塁壁(るいへき)を堅(かた)くして、軽兵は呉の糧道を絶(た)った。
吳王之初發也吳臣田祿伯為大將軍
呉王劉濞の兵を発したばかりのとき、呉の臣下の田禄伯が大将軍に為った。
田祿伯曰兵屯聚而西
呉大将軍田禄伯曰く、「兵は多くの人を集めて西へ進み、
無佗奇道難以就功
他のすぐれた道は無ければ、手柄に就(つ)くを以ってするは難(むずか)しいです。
臣願得五萬人別循江淮而上
わたしは、五万人を得ることを願います。別(わか)れて江(川名)、淮(川名)にそってゆきて上(のぼ)り、
收淮南長沙入武關
淮南、長沙を収(おさ)めて、武関に入り、
與大王會此亦一奇也
大王(呉王劉濞)と会(かい)したいと思います。これもまた一つの奇計であります」と。
吳王太子諫曰王以反為名
呉王劉濞の太子が諌(いさ)めて曰く、「王(呉王劉濞)は叛(そむ)くを以って名目と為し、
此兵難以藉人藉人亦且反王柰何
このような兵は人に貸(か)すを以ってするは難(むずか)しく、人に貸(か)してまた、まさに王に叛(そむ)かんとすれば、どうしますか?
且擅兵而別多佗利害未可知也
まさに兵を思うままにして別れれば、他の未(ま)だ知ることのできない利害が多く、
徒自損耳吳王即不許田祿伯
むだに自らを損(そこ)ねるだけであります」と。呉王劉濞はそこで呉大将軍田禄伯を聞き入れなかった。
吳少將桓將軍說王曰
呉少将桓将軍は王(呉王劉濞)を説(と)いて曰く、
吳多步兵步兵利險
「呉は歩兵が多く、歩兵は険阻(けんそ)に有利で、
漢多車騎車騎利平地
漢は車騎が多く、車騎は平地に有利です。
願大王所過城邑不下直棄去
大王(呉王劉濞)が立ち寄ったところの城邑が下(くだ)らなかったら、すぐに棄(す)てて去(さ)ることを願います。
疾西據雒陽武庫食敖倉粟
いそいで西に進み、雒陽の武庫を拠点にして、敖倉の粟(あわ)を食べて、
阻山河之險以令諸侯
山河の険阻(けんそ)を阻(はば)み諸侯に令(れい)するを以ってすれば、
雖毋入關天下固已定矣
関に入らずと雖(いえど)も、天下はいうまでもなくやがて定まります。
即大王徐行留下城邑
すなわち、大王(呉王劉濞)は徐行(じょこう)して、城邑を下(くだ)しに留(とど)まれば、
漢軍車騎至馳入梁楚之郊事敗矣
漢軍の車騎が至って梁、楚の郊外に馳(は)せて入れば、事(こと)は失敗します」と。
吳王問諸老將老將曰
呉王劉濞は諸(もろもろ)の老将に問うた。老将曰く、
此少年推鋒之計可耳
「これは少年が鋒(ほこさき)の計を推し進めるによいだけで、
安知大慮乎於是王不用桓將軍計
いずこに大いなる慮(おもんばか)りをわきまえているでしょうか」と。ここに於いて王(呉王劉濞)は呉少将桓将軍の計画を用いなかった。