嬰乃言袁盎欒布諸名將賢士在家者進之
漢大将軍竇嬰は漢太常袁盎、漢都尉欒布、諸(もろもろ)の名将、賢士、在家の者に言い、
これ(金)を進めた。
所賜金陳之廊廡下軍吏過輒令財取為用金無入家者
賜(たまわ)ったところの金は廊下(ろうか)のもとにこれを並(なら)べ、軍吏が立ち寄ると、そのたびごとに財(ざい)をして用いる為(ため)に取らせ、金は家に入れることは無かった。
竇嬰守滎陽監齊趙兵七國兵已盡破封嬰為魏其侯
漢大将軍竇嬰は栄陽を守り、斉兵、趙兵を監視(かんし)した。七国の兵がすでにことごとく破れると、
漢大将軍竇嬰に封じて魏其侯と為さしめた。
諸游士賓客爭歸魏其侯
諸(もろもろ)の游士、賓客は争って魏其侯竇嬰に帰属(きぞく)した。
孝景時每朝議大事條侯魏其侯諸列侯莫敢與亢禮
漢孝景帝劉啓の時は、朝するごとに大事を議(ぎ)して、漢太尉條侯周亞夫、魏其侯竇嬰、諸(もろもろ)の列侯は敢(あ)えてともに対等の礼をとらなかった。
孝景四年立栗太子使魏其侯為太子傅
漢孝景帝劉啓四年、栗太子(劉栄)を立てて、魏其侯竇嬰をして太子傅と為さしめた。
孝景七年栗太子廢魏其數爭不能得
漢孝景帝劉啓七年、栗太子(劉栄)が廃(はい)されることになり、漢太子傅魏其侯竇嬰はたびたび争ったが得ることはできなかった。
魏其謝病屏居藍田南山之下數月諸賓客辯士說之莫能來
魏其侯竇嬰は病(やまい)を謝(しゃ)して、藍田南山の下(もと)で数ヶ月隠居(いんきょ)した。
もろもろの賓客、弁士がこれに説(と)いたが、来させることができなかった。
梁人高遂乃說魏其曰能富貴將軍者上也
梁人の高遂がそこで魏其侯竇嬰に説(と)いた、曰く、「将軍(竇嬰)を富貴にできるのは、上(漢孝景帝劉啓)であります。
能親將軍者太后也今將軍傅太子太子廢而不能爭
将軍(竇嬰)に親(した)しくできるのは、竇太后であります。今、将軍(竇嬰)は太子を教育して、太子が廃(はい)されることになって争うことができず、
爭不能得又弗能死自引謝病擁趙女屏處而不朝
争っても得ることができず、また死ぬこともできませんでした。自ら引いて病(やまい)を謝(しゃ)して、趙の女を抱(だ)いて、なんの用事もなくひきこもりて朝せず、
相提而論是自明揚主上之過有如兩宮螫將軍則妻子毋類矣
相(あい)持ち出しては論(ろん)じ、これ、自ら主上の過(あやま)ちを揚(あ)げて明らかにしています。二人の宮(皇帝と太后)が将軍を危(あや)める如(ごと)くが有れば、妻子は類(たぐ)えないでしょうか?」と。
魏其侯然之乃遂起朝請如故
魏其侯竇嬰はその通りだと思い、そこで遂(つい)に立ち上がって、以前の如(ごと)く朝請した。
桃侯免相竇太后數言魏其侯
桃侯劉舎は漢丞相を免(めん)ぜられ、竇太后はたびたび魏其侯竇嬰を言った。
孝景帝曰太后豈以為臣有愛不相魏其魏其者沾沾自喜耳多易
漢孝景帝劉啓曰く、「太后はいったいわたしが惜(お)しんで魏其侯を丞相にしないと思われるのですか?魏其侯という者は、沾沾(せんせん)と衣服をきちんとして自らを喜んでいるだけで、和(やわ)らぎを多(た)とします。
難以為相持重遂不用用建陵侯衛綰為丞相
丞相として重責(じゅうせき)を持たせることは難(むずか)しいです」と。
漢大将軍竇嬰は漢太常袁盎、漢都尉欒布、諸(もろもろ)の名将、賢士、在家の者に言い、
これ(金)を進めた。
所賜金陳之廊廡下軍吏過輒令財取為用金無入家者
賜(たまわ)ったところの金は廊下(ろうか)のもとにこれを並(なら)べ、軍吏が立ち寄ると、そのたびごとに財(ざい)をして用いる為(ため)に取らせ、金は家に入れることは無かった。
竇嬰守滎陽監齊趙兵七國兵已盡破封嬰為魏其侯
漢大将軍竇嬰は栄陽を守り、斉兵、趙兵を監視(かんし)した。七国の兵がすでにことごとく破れると、
漢大将軍竇嬰に封じて魏其侯と為さしめた。
諸游士賓客爭歸魏其侯
諸(もろもろ)の游士、賓客は争って魏其侯竇嬰に帰属(きぞく)した。
孝景時每朝議大事條侯魏其侯諸列侯莫敢與亢禮
漢孝景帝劉啓の時は、朝するごとに大事を議(ぎ)して、漢太尉條侯周亞夫、魏其侯竇嬰、諸(もろもろ)の列侯は敢(あ)えてともに対等の礼をとらなかった。
孝景四年立栗太子使魏其侯為太子傅
漢孝景帝劉啓四年、栗太子(劉栄)を立てて、魏其侯竇嬰をして太子傅と為さしめた。
孝景七年栗太子廢魏其數爭不能得
漢孝景帝劉啓七年、栗太子(劉栄)が廃(はい)されることになり、漢太子傅魏其侯竇嬰はたびたび争ったが得ることはできなかった。
魏其謝病屏居藍田南山之下數月諸賓客辯士說之莫能來
魏其侯竇嬰は病(やまい)を謝(しゃ)して、藍田南山の下(もと)で数ヶ月隠居(いんきょ)した。
もろもろの賓客、弁士がこれに説(と)いたが、来させることができなかった。
梁人高遂乃說魏其曰能富貴將軍者上也
梁人の高遂がそこで魏其侯竇嬰に説(と)いた、曰く、「将軍(竇嬰)を富貴にできるのは、上(漢孝景帝劉啓)であります。
能親將軍者太后也今將軍傅太子太子廢而不能爭
将軍(竇嬰)に親(した)しくできるのは、竇太后であります。今、将軍(竇嬰)は太子を教育して、太子が廃(はい)されることになって争うことができず、
爭不能得又弗能死自引謝病擁趙女屏處而不朝
争っても得ることができず、また死ぬこともできませんでした。自ら引いて病(やまい)を謝(しゃ)して、趙の女を抱(だ)いて、なんの用事もなくひきこもりて朝せず、
相提而論是自明揚主上之過有如兩宮螫將軍則妻子毋類矣
相(あい)持ち出しては論(ろん)じ、これ、自ら主上の過(あやま)ちを揚(あ)げて明らかにしています。二人の宮(皇帝と太后)が将軍を危(あや)める如(ごと)くが有れば、妻子は類(たぐ)えないでしょうか?」と。
魏其侯然之乃遂起朝請如故
魏其侯竇嬰はその通りだと思い、そこで遂(つい)に立ち上がって、以前の如(ごと)く朝請した。
桃侯免相竇太后數言魏其侯
桃侯劉舎は漢丞相を免(めん)ぜられ、竇太后はたびたび魏其侯竇嬰を言った。
孝景帝曰太后豈以為臣有愛不相魏其魏其者沾沾自喜耳多易
漢孝景帝劉啓曰く、「太后はいったいわたしが惜(お)しんで魏其侯を丞相にしないと思われるのですか?魏其侯という者は、沾沾(せんせん)と衣服をきちんとして自らを喜んでいるだけで、和(やわ)らぎを多(た)とします。
難以為相持重遂不用用建陵侯衛綰為丞相
丞相として重責(じゅうせき)を持たせることは難(むずか)しいです」と。