武安已罷朝出止車門召韓御史大夫載怒曰
漢丞相武安侯田蚡はすでに朝廷を退出して、出て車門に止(と)まり、漢御史大夫韓安国を召し寄せて
載(の)せて、怒って曰く、
與長孺共一老禿翁何為首鼠兩端
「長孺(韓安国)と一人の老いて禿(は)げた翁(おきな)を共(とも)にしたのに、どうしてひよりみをするのか?」と。
韓禦史良久謂丞相曰君何不自喜
韓禦史(韓安国)はしばらくして漢丞相武安侯田蚡に謂(い)った、曰く、「君はどうして自らを喜ばないのか?
夫魏其毀君君當免冠解印綬歸曰
それ、魏其侯が君をそしれば、君はまさに冠(かんむり)を脱(ぬ)いで印綬(いんじゅ)を解くべきであり、いうのです、
臣以肺腑幸得待罪固非其任魏其言皆是
わたしは外戚を以って幸いにも任用を得て、固(もと)よりその任に非(あら)ず、魏其侯の言は皆(みな)正しいです、と。
如此上必多君有讓不廢君
この如(ごと)くすれば、上は必ず君の譲(ゆず)る気持ちが有るを多(た)とし、君を廃(はい)さないでしょう。
魏其必內愧杜門齰舌自殺
魏其侯は必ず内(うち)に愧(は)じて、門を閉めて舌(した)を噛(か)んで、自殺するでしょう。
今人毀君君亦毀人譬如賈豎女子爭言何其無大體也
今、人が君をそしり、君もまた人をそしれば、譬(たと)えるといやしい商人、女子供の言い争いの如(ごと)くで、どうしてその大きな本(もと)のあらましを無くしてしまわれるのか」と。
武安謝罪曰爭時急不知出此
漢丞相武安侯田蚡は謝罪して曰く、「言い争って時はさしせまり、そのように出ることをわきまえなかった」と。
於是上使禦史簿責魏其所言灌夫頗不讎欺謾
ここに於いて上(漢孝武帝劉徹)は禦史をして、魏其侯竇嬰の灌夫を言ったところは、頗(すこぶ)る
一致せず欺瞞(ぎまん)であると書類を証拠として問い責(せ)めさせた。
劾系都司空孝景時魏其常受遺詔曰
弾劾(だんがい)して都司空に繋(つな)いだ。漢孝景帝劉啓の時、魏其侯竇嬰は常に遺詔(いしょう)を受けており、曰く、
事有不便以便宜論上」及系灌夫罪至族
「事に不便が有れば、便宜(べんぎ)を以って上に論ぜよ」と。繋(つな)がれるに及んで、灌夫の罪は族刑に至った。
事日急諸公莫敢複明言於上
事は日に日にさしせまったが、諸(もろもろ)の公たちは敢(あ)えて上に於いて明言を重ねなかった。
魏其乃使昆弟子上書言之幸得複召見
魏其侯竇嬰はそこで兄弟の子をつかわして上書させ、幸いにもまた召見を得ることを言上した。
書奏上而案尚書大行無遺詔
事は奏上(そうじょう)され、しこうして、尚書(官名)、大行(官名)を調べたが遺詔(いしょう)は無かった。
詔書獨藏魏其家家丞封
詔(みことのり)の書状はただ魏其侯竇嬰の家にしまわれていて、家丞が封(ふう)じていた。
乃劾魏其矯先帝詔罪當棄市
すなわち、魏其侯竇嬰は先帝の詔(みことのり)をいつわったと弾劾され、罪は棄市刑に当てられた。
五年十月悉論灌夫及家屬
元光五年十月、ことごとくみな灌夫及び家属に論告した。
魏其良久乃聞聞即恚病痱不食欲死
魏其侯竇嬰はしばらくしてすなわち聞き、聞いてすなわち腹をたてて、痱(病名)を病(や)み、
食欲がなく死んだ。
或聞上無意殺魏其魏其複食治病議定不死矣
或(ある)いは聞く、上(漢孝武帝劉徹)には魏其侯を殺す意図(いと)は無く、魏其侯はまた食べて病を治(なお)し、議(ぎ)して死刑にはしないことを定(さだ)め、
乃有蜚語為惡言聞上故以十二月晦論棄市渭城
そこで、どこからともなくでる根のないうわさが有って、悪言と為って上(漢孝武帝劉徹)に
聞こえ、故(ゆえ)に元光五年十二月晦日を以って、渭城で棄市罪を論告された、と。
漢丞相武安侯田蚡はすでに朝廷を退出して、出て車門に止(と)まり、漢御史大夫韓安国を召し寄せて
載(の)せて、怒って曰く、
與長孺共一老禿翁何為首鼠兩端
「長孺(韓安国)と一人の老いて禿(は)げた翁(おきな)を共(とも)にしたのに、どうしてひよりみをするのか?」と。
韓禦史良久謂丞相曰君何不自喜
韓禦史(韓安国)はしばらくして漢丞相武安侯田蚡に謂(い)った、曰く、「君はどうして自らを喜ばないのか?
夫魏其毀君君當免冠解印綬歸曰
それ、魏其侯が君をそしれば、君はまさに冠(かんむり)を脱(ぬ)いで印綬(いんじゅ)を解くべきであり、いうのです、
臣以肺腑幸得待罪固非其任魏其言皆是
わたしは外戚を以って幸いにも任用を得て、固(もと)よりその任に非(あら)ず、魏其侯の言は皆(みな)正しいです、と。
如此上必多君有讓不廢君
この如(ごと)くすれば、上は必ず君の譲(ゆず)る気持ちが有るを多(た)とし、君を廃(はい)さないでしょう。
魏其必內愧杜門齰舌自殺
魏其侯は必ず内(うち)に愧(は)じて、門を閉めて舌(した)を噛(か)んで、自殺するでしょう。
今人毀君君亦毀人譬如賈豎女子爭言何其無大體也
今、人が君をそしり、君もまた人をそしれば、譬(たと)えるといやしい商人、女子供の言い争いの如(ごと)くで、どうしてその大きな本(もと)のあらましを無くしてしまわれるのか」と。
武安謝罪曰爭時急不知出此
漢丞相武安侯田蚡は謝罪して曰く、「言い争って時はさしせまり、そのように出ることをわきまえなかった」と。
於是上使禦史簿責魏其所言灌夫頗不讎欺謾
ここに於いて上(漢孝武帝劉徹)は禦史をして、魏其侯竇嬰の灌夫を言ったところは、頗(すこぶ)る
一致せず欺瞞(ぎまん)であると書類を証拠として問い責(せ)めさせた。
劾系都司空孝景時魏其常受遺詔曰
弾劾(だんがい)して都司空に繋(つな)いだ。漢孝景帝劉啓の時、魏其侯竇嬰は常に遺詔(いしょう)を受けており、曰く、
事有不便以便宜論上」及系灌夫罪至族
「事に不便が有れば、便宜(べんぎ)を以って上に論ぜよ」と。繋(つな)がれるに及んで、灌夫の罪は族刑に至った。
事日急諸公莫敢複明言於上
事は日に日にさしせまったが、諸(もろもろ)の公たちは敢(あ)えて上に於いて明言を重ねなかった。
魏其乃使昆弟子上書言之幸得複召見
魏其侯竇嬰はそこで兄弟の子をつかわして上書させ、幸いにもまた召見を得ることを言上した。
書奏上而案尚書大行無遺詔
事は奏上(そうじょう)され、しこうして、尚書(官名)、大行(官名)を調べたが遺詔(いしょう)は無かった。
詔書獨藏魏其家家丞封
詔(みことのり)の書状はただ魏其侯竇嬰の家にしまわれていて、家丞が封(ふう)じていた。
乃劾魏其矯先帝詔罪當棄市
すなわち、魏其侯竇嬰は先帝の詔(みことのり)をいつわったと弾劾され、罪は棄市刑に当てられた。
五年十月悉論灌夫及家屬
元光五年十月、ことごとくみな灌夫及び家属に論告した。
魏其良久乃聞聞即恚病痱不食欲死
魏其侯竇嬰はしばらくしてすなわち聞き、聞いてすなわち腹をたてて、痱(病名)を病(や)み、
食欲がなく死んだ。
或聞上無意殺魏其魏其複食治病議定不死矣
或(ある)いは聞く、上(漢孝武帝劉徹)には魏其侯を殺す意図(いと)は無く、魏其侯はまた食べて病を治(なお)し、議(ぎ)して死刑にはしないことを定(さだ)め、
乃有蜚語為惡言聞上故以十二月晦論棄市渭城
そこで、どこからともなくでる根のないうわさが有って、悪言と為って上(漢孝武帝劉徹)に
聞こえ、故(ゆえ)に元光五年十二月晦日を以って、渭城で棄市罪を論告された、と。