魏其失竇太后益疏不用無勢
魏其侯竇嬰は竇太后を失い、益々(ますます)疎(うと)んぜられて用いられず、勢(いきお)いが
無くなり、
諸客稍稍自引而怠傲唯灌將軍獨不失故
諸(もろもろ)の客は稍稍とだんだんに自ら引いてゆき、唯(ただ)灌将軍だけが独(ひと)り旧交を失わなかった。
魏其日默默不得志而獨厚遇灌將軍
魏其侯竇嬰は毎日黙々とだまりこんで、志を得られず、しこうして、独(ひと)り灌将軍だけを厚遇(こうぐう)した。
灌將軍夫者潁陰人也
灌将軍夫という者は、潁陰の人である。
夫父張孟嘗為潁陰侯嬰舍人得幸
灌夫の父は張孟で、嘗(かつ)て潁陰侯灌嬰の舎人と為り、寵愛を得た。
因進之至二千石故蒙灌氏姓為灌孟
因(よ)りてこれを進めて二千石に至り、故(ゆえ)に灌氏の姓を身にうけて、灌孟と為った。
吳楚反時潁陰侯灌何為將軍屬太尉請灌孟為校尉
呉楚が反乱した時、潁陰侯灌何(灌嬰の子)が漢将軍に為り、漢太尉條侯周亞夫に属して、灌孟を漢校尉と為すことを請(こ)うた。
夫以千人與父俱灌孟年老潁陰侯彊請之
灌夫は千人を以って父とともにした。漢校尉灌孟は年老いて、潁陰侯灌何は強(し)いてこれに請(こ)うたが、
郁郁不得意故戰常陷堅遂死吳軍中
郁々(いくいく)と気がふさぎ意(い)を得ず、故(ゆえ)に戦いは常に堅塞を攻めおとされ、遂(つい)に呉軍の中で死んだ。
軍法父子俱從軍有死事得與喪歸
軍法では、父子がともに従軍し、死ぬ事が有ったら、柩(ひつぎ)とともに帰ることができた。
灌夫不肯隨喪歸奮曰願取吳王若將軍頭以報父之仇
灌夫は柩(ひつぎ)によりそって帰ることをよしとせず、奮(ふる)って曰く、「呉王もしくは将軍の頭を取って父の仇(あだ)に報(むく)いるを以ってすることを願います」と。
於是灌夫被甲持戟募軍中壯士所善願從者數十人
ここに於いて灌夫はよろいを被(かぶ)りほこを持ち、軍中の壮士の善く従うを願うところの者数十人を募(つの)った。
及出壁門莫敢前
軍門を出るに及んで、敢えて前進しなかった。
獨二人及從奴十數騎馳入吳軍至吳將麾下所殺傷數十人
ただ二人及び従奴十数騎だけで呉軍に馳(は)せ入り、呉将軍の旗の下(もと)に至り、殺傷するところ数十人。
不得前復馳還走入漢壁皆亡其奴獨與一騎歸
前進を得ず、ふたたび馳(は)せて還(かえ)り、走って漢の塞(とりで)に入り、皆(みな)その奴を亡(な)くし、ただ一騎だけとともに帰った。
夫身中大創十餘適有萬金良藥故得無死
灌夫は身体じゅう大きな傷が十余りできたが、たまたま万金の良薬(りょうやく)が有り、故(ゆえ)に死なずを得た。
夫創少瘳又復請將軍曰吾益知吳壁中曲折請復往
灌夫の傷が少しなおると、またふたたび漢将軍潁陰侯灌何に請(こ)うて曰く、「吾(われ)は益々(ますます)呉の砦(とりで)の中の曲折(きょくせつ)を知り、また往(ゆ)くことを請(こ)う」と。
將軍壯義之恐亡夫乃言太尉太尉乃固止之
漢将軍潁陰侯灌何はこれを壮士で義であるとし、灌夫を亡(な)くすことを恐れ、そこで漢太尉條侯周亞夫に言い、漢太尉條侯周亞夫はそこでこれを固(かた)く止(と)めた。
吳已破灌夫以此名聞天下
呉がすでに破(やぶ)れ、灌夫はこれを以って名は天下に聞こえた。
潁陰侯言之上上以夫為中郎將數月坐法去
潁陰侯灌何がこれを上(漢孝景帝劉啓)に言上し、上(漢孝景帝劉啓)は灌夫を以って中郎将と為さしめた。数ヶ月して、法に問われて去(さ)った。
後家居長安長安中諸公莫弗稱之
後に長安で隠居した。長安中の諸(もろもろ)の公たちはこれを称(たた)えずはなかった。
孝景時至代相孝景崩今上初即位
漢孝景帝劉啓時、代の宰相に至った。漢孝景帝劉啓が崩じ、今上(漢孝武帝劉徹)が即位したばかりのとき、
以為淮陽天下交勁兵處故徙夫為淮陽太守
淮陽は天下の強い兵士を交(まじ)える処(ところ)と思い、故(ゆえ)に代相灌夫を移して淮陽太守と為さしめた。
建元元年入為太仆二年夫與長樂衛尉竇甫飲
建元元年、入って漢太僕と為った。二年して、漢太僕灌夫は長楽衛尉竇甫とともに飲み、
輕重不得夫醉搏甫甫竇太后昆弟也
小事と大事を得られず、漢太僕灌夫は酔(よ)って、長楽衛尉竇甫を手ではたいた。長楽衛尉竇甫は竇太后の兄弟である。
上恐太后誅夫徙為燕相
上(漢孝武帝劉徹)は竇太后が漢太僕灌夫を誅(ちゅう)することを恐れ、移して燕相と為さしめた。
數歲坐法去官家居長安
(燕相灌夫は)数年して法に問われ官を去(さ)り、長安に隠居した。
魏其侯竇嬰は竇太后を失い、益々(ますます)疎(うと)んぜられて用いられず、勢(いきお)いが
無くなり、
諸客稍稍自引而怠傲唯灌將軍獨不失故
諸(もろもろ)の客は稍稍とだんだんに自ら引いてゆき、唯(ただ)灌将軍だけが独(ひと)り旧交を失わなかった。
魏其日默默不得志而獨厚遇灌將軍
魏其侯竇嬰は毎日黙々とだまりこんで、志を得られず、しこうして、独(ひと)り灌将軍だけを厚遇(こうぐう)した。
灌將軍夫者潁陰人也
灌将軍夫という者は、潁陰の人である。
夫父張孟嘗為潁陰侯嬰舍人得幸
灌夫の父は張孟で、嘗(かつ)て潁陰侯灌嬰の舎人と為り、寵愛を得た。
因進之至二千石故蒙灌氏姓為灌孟
因(よ)りてこれを進めて二千石に至り、故(ゆえ)に灌氏の姓を身にうけて、灌孟と為った。
吳楚反時潁陰侯灌何為將軍屬太尉請灌孟為校尉
呉楚が反乱した時、潁陰侯灌何(灌嬰の子)が漢将軍に為り、漢太尉條侯周亞夫に属して、灌孟を漢校尉と為すことを請(こ)うた。
夫以千人與父俱灌孟年老潁陰侯彊請之
灌夫は千人を以って父とともにした。漢校尉灌孟は年老いて、潁陰侯灌何は強(し)いてこれに請(こ)うたが、
郁郁不得意故戰常陷堅遂死吳軍中
郁々(いくいく)と気がふさぎ意(い)を得ず、故(ゆえ)に戦いは常に堅塞を攻めおとされ、遂(つい)に呉軍の中で死んだ。
軍法父子俱從軍有死事得與喪歸
軍法では、父子がともに従軍し、死ぬ事が有ったら、柩(ひつぎ)とともに帰ることができた。
灌夫不肯隨喪歸奮曰願取吳王若將軍頭以報父之仇
灌夫は柩(ひつぎ)によりそって帰ることをよしとせず、奮(ふる)って曰く、「呉王もしくは将軍の頭を取って父の仇(あだ)に報(むく)いるを以ってすることを願います」と。
於是灌夫被甲持戟募軍中壯士所善願從者數十人
ここに於いて灌夫はよろいを被(かぶ)りほこを持ち、軍中の壮士の善く従うを願うところの者数十人を募(つの)った。
及出壁門莫敢前
軍門を出るに及んで、敢えて前進しなかった。
獨二人及從奴十數騎馳入吳軍至吳將麾下所殺傷數十人
ただ二人及び従奴十数騎だけで呉軍に馳(は)せ入り、呉将軍の旗の下(もと)に至り、殺傷するところ数十人。
不得前復馳還走入漢壁皆亡其奴獨與一騎歸
前進を得ず、ふたたび馳(は)せて還(かえ)り、走って漢の塞(とりで)に入り、皆(みな)その奴を亡(な)くし、ただ一騎だけとともに帰った。
夫身中大創十餘適有萬金良藥故得無死
灌夫は身体じゅう大きな傷が十余りできたが、たまたま万金の良薬(りょうやく)が有り、故(ゆえ)に死なずを得た。
夫創少瘳又復請將軍曰吾益知吳壁中曲折請復往
灌夫の傷が少しなおると、またふたたび漢将軍潁陰侯灌何に請(こ)うて曰く、「吾(われ)は益々(ますます)呉の砦(とりで)の中の曲折(きょくせつ)を知り、また往(ゆ)くことを請(こ)う」と。
將軍壯義之恐亡夫乃言太尉太尉乃固止之
漢将軍潁陰侯灌何はこれを壮士で義であるとし、灌夫を亡(な)くすことを恐れ、そこで漢太尉條侯周亞夫に言い、漢太尉條侯周亞夫はそこでこれを固(かた)く止(と)めた。
吳已破灌夫以此名聞天下
呉がすでに破(やぶ)れ、灌夫はこれを以って名は天下に聞こえた。
潁陰侯言之上上以夫為中郎將數月坐法去
潁陰侯灌何がこれを上(漢孝景帝劉啓)に言上し、上(漢孝景帝劉啓)は灌夫を以って中郎将と為さしめた。数ヶ月して、法に問われて去(さ)った。
後家居長安長安中諸公莫弗稱之
後に長安で隠居した。長安中の諸(もろもろ)の公たちはこれを称(たた)えずはなかった。
孝景時至代相孝景崩今上初即位
漢孝景帝劉啓時、代の宰相に至った。漢孝景帝劉啓が崩じ、今上(漢孝武帝劉徹)が即位したばかりのとき、
以為淮陽天下交勁兵處故徙夫為淮陽太守
淮陽は天下の強い兵士を交(まじ)える処(ところ)と思い、故(ゆえ)に代相灌夫を移して淮陽太守と為さしめた。
建元元年入為太仆二年夫與長樂衛尉竇甫飲
建元元年、入って漢太僕と為った。二年して、漢太僕灌夫は長楽衛尉竇甫とともに飲み、
輕重不得夫醉搏甫甫竇太后昆弟也
小事と大事を得られず、漢太僕灌夫は酔(よ)って、長楽衛尉竇甫を手ではたいた。長楽衛尉竇甫は竇太后の兄弟である。
上恐太后誅夫徙為燕相
上(漢孝武帝劉徹)は竇太后が漢太僕灌夫を誅(ちゅう)することを恐れ、移して燕相と為さしめた。
數歲坐法去官家居長安
(燕相灌夫は)数年して法に問われ官を去(さ)り、長安に隠居した。