弓高侯執金鼓見之曰王苦軍事願聞王發兵狀
漢将弓高侯穨当は金の太鼓(たいこ)を執(と)て、これ(膠西王劉卬)に見(まみ)えて曰く、「王は軍事に苦しまれたが、王が兵を発した事情をお聞かせ願いたい」と。
王頓首膝行對曰今者晁錯天子用事臣變更高皇帝法令侵奪諸侯地
膠西王劉卬は地に頭をつけて膝(ひざ)で歩いて応(こた)えて曰く、「今、晁錯は、天子が事をもっぱらにさせていた家臣で、高皇帝の法令を変更し、諸侯の領地を侵(おか)し奪(うば)いました。
卬等以為不義恐其敗亂天下七國發兵且以誅錯
わたしたちは不義(ふぎ)だと思い、その天下を敗(やぶ)り乱すことを恐れ、七国が兵を発し、まさに晁錯を誅(ちゅう)するを以ってせんとしました。
今聞錯已誅卬等謹以罷兵歸將軍曰
今、聞くに晁錯はすでに誅(ちゅう)され、わたしたちは謹(つつし)んで兵を中止して帰るを以ってしました」と。将軍(漢将弓高侯穨当)曰く、
王茍以錯不善何不以聞(及)[乃]未有詔虎符,擅發兵擊義國
「王がかりそめにも、晁錯が不善(ふぜん)である思われたのならば、どうして申し上げるを以ってなされなかったのか?そこで未(ま)だ詔(みことのり)の虎符(兵を出す証拠に用いた)を持たないうちに、思うままに兵を発して義(ぎ)の国を撃(う)った。
以此觀之意非欲誅錯也乃出詔書為王讀之
これを以ってかんがみるに、心は晁錯を誅(ちゅう)することを欲したのでは非(あら)ざるなり」と。
そこで詔(みことのり)の書状を出して膠西王劉卬の為(ため)にこれを読んだ。
讀之訖曰王其自圖王曰如卬等死有餘罪
これを読み終わって曰く、「王はその自らを図(はか)られよ」と。膠西王劉卬曰く、「わたしたちが死に及んでも、余(あま)りある罪であります」と。
遂自殺太后太子皆死膠東菑川濟南王皆死國除納于漢
遂(つい)に自殺した。膠西王太后、膠西王太子劉徳は皆(みな)死んだ。膠東王劉雄渠、菑川王劉賢、済南王劉辟光は皆(みな)死に、国は除(のぞ)かれて、漢に納(おさ)められた。
酈將軍圍趙十月而下之趙王自殺濟北王以劫故得不誅徙王菑川
漢将曲周侯麗寄が趙を包囲すること十ヶ月にしてこれを下(くだ)し、趙王劉遂は自殺した。濟北王劉志は(済北郎中令に)おびやかされた故(ゆえ)を以って、誅(ちゅう)されずを得て、移して菑川で王になった。
初吳王首反并將楚兵連齊趙正月起兵三月皆破獨趙後下
初め、呉王劉濞が反乱を首謀(しゅぼう)し、楚兵を併(あわ)せ率(ひき)い、斉、趙を連(つら)ねた。正月に兵を起こして三月に皆(みな)破(やぶ)れ、独(ひと)り趙だけが後(おく)れて下(くだ)った。
復置元王少子平陸侯禮為楚王續元王後徙汝南王非王吳故地為江都王
ふたたび楚元王劉交の末子の平陸侯劉礼を楚王として置き、楚元王劉交の後継を続けさせた。汝南王劉非(景帝劉啓の子)を呉の故地(こち)に移して江都王と為した。
太史公曰吳王之王由父省也能薄賦斂使其眾以擅山海利
太史公曰く、「呉王劉濞が王になったのは、父(劉邦の兄劉仲)に由(よ)りてつまびらかになったからである。その衆をつかわし山海の利(り)を思うままにするを以って、賦斂(租税を割り当てて取り立てる)を薄(うす)くすることができた。
逆亂之萌自其子興爭技發難卒亡其本親越謀宗竟以夷隕
反乱の萌(きざ)しはその子より興(おこ)った。義(技=義?)を争(あらそ)い難(なん)を発して、とうとうその本(もと)を亡(ほろ)ぼした。越に親(した)しみ、後継を謀(はか)ったが、とうとう傷つき殺されるを以ってした。
晁錯為國遠慮禍反近身袁盎權說初寵後辱
晁錯(漢御史大夫晁錯)は国の為(ため)に遠く慮(おもんばか)ったが、禍(わざわい)は反(かえ)って身に近づいた。袁盎(漢太常袁盎)は臨機応変に説(と)いて、初めは寵愛され、後には辱(はずかし)められた。
故古者諸侯地不過百里山海不以封毋親夷狄以疏其屬蓋謂吳邪
故(ゆえ)にむかしは、諸侯の領地は百里(一里150m換算で約15km)を越えず、山海は封ぜられるを以ってしなかった。『夷狄(異民族)に親(した)しみ、その同属を疎(うと)んずるを以ってすることなかれ』とは、思うに呉のことを謂(い)うのだろうか。
毋為權首反受其咎豈盎錯邪
『権謀のかしらと為ることなかれ、反(かえ)ってその咎(とが)を受ける』とは、いったい袁盎、晁錯のことだろうか」と。
今日で史記 呉王濞列伝は終わりです。明日からは史記 魏其武安侯列伝に入ります。
漢将弓高侯穨当は金の太鼓(たいこ)を執(と)て、これ(膠西王劉卬)に見(まみ)えて曰く、「王は軍事に苦しまれたが、王が兵を発した事情をお聞かせ願いたい」と。
王頓首膝行對曰今者晁錯天子用事臣變更高皇帝法令侵奪諸侯地
膠西王劉卬は地に頭をつけて膝(ひざ)で歩いて応(こた)えて曰く、「今、晁錯は、天子が事をもっぱらにさせていた家臣で、高皇帝の法令を変更し、諸侯の領地を侵(おか)し奪(うば)いました。
卬等以為不義恐其敗亂天下七國發兵且以誅錯
わたしたちは不義(ふぎ)だと思い、その天下を敗(やぶ)り乱すことを恐れ、七国が兵を発し、まさに晁錯を誅(ちゅう)するを以ってせんとしました。
今聞錯已誅卬等謹以罷兵歸將軍曰
今、聞くに晁錯はすでに誅(ちゅう)され、わたしたちは謹(つつし)んで兵を中止して帰るを以ってしました」と。将軍(漢将弓高侯穨当)曰く、
王茍以錯不善何不以聞(及)[乃]未有詔虎符,擅發兵擊義國
「王がかりそめにも、晁錯が不善(ふぜん)である思われたのならば、どうして申し上げるを以ってなされなかったのか?そこで未(ま)だ詔(みことのり)の虎符(兵を出す証拠に用いた)を持たないうちに、思うままに兵を発して義(ぎ)の国を撃(う)った。
以此觀之意非欲誅錯也乃出詔書為王讀之
これを以ってかんがみるに、心は晁錯を誅(ちゅう)することを欲したのでは非(あら)ざるなり」と。
そこで詔(みことのり)の書状を出して膠西王劉卬の為(ため)にこれを読んだ。
讀之訖曰王其自圖王曰如卬等死有餘罪
これを読み終わって曰く、「王はその自らを図(はか)られよ」と。膠西王劉卬曰く、「わたしたちが死に及んでも、余(あま)りある罪であります」と。
遂自殺太后太子皆死膠東菑川濟南王皆死國除納于漢
遂(つい)に自殺した。膠西王太后、膠西王太子劉徳は皆(みな)死んだ。膠東王劉雄渠、菑川王劉賢、済南王劉辟光は皆(みな)死に、国は除(のぞ)かれて、漢に納(おさ)められた。
酈將軍圍趙十月而下之趙王自殺濟北王以劫故得不誅徙王菑川
漢将曲周侯麗寄が趙を包囲すること十ヶ月にしてこれを下(くだ)し、趙王劉遂は自殺した。濟北王劉志は(済北郎中令に)おびやかされた故(ゆえ)を以って、誅(ちゅう)されずを得て、移して菑川で王になった。
初吳王首反并將楚兵連齊趙正月起兵三月皆破獨趙後下
初め、呉王劉濞が反乱を首謀(しゅぼう)し、楚兵を併(あわ)せ率(ひき)い、斉、趙を連(つら)ねた。正月に兵を起こして三月に皆(みな)破(やぶ)れ、独(ひと)り趙だけが後(おく)れて下(くだ)った。
復置元王少子平陸侯禮為楚王續元王後徙汝南王非王吳故地為江都王
ふたたび楚元王劉交の末子の平陸侯劉礼を楚王として置き、楚元王劉交の後継を続けさせた。汝南王劉非(景帝劉啓の子)を呉の故地(こち)に移して江都王と為した。
太史公曰吳王之王由父省也能薄賦斂使其眾以擅山海利
太史公曰く、「呉王劉濞が王になったのは、父(劉邦の兄劉仲)に由(よ)りてつまびらかになったからである。その衆をつかわし山海の利(り)を思うままにするを以って、賦斂(租税を割り当てて取り立てる)を薄(うす)くすることができた。
逆亂之萌自其子興爭技發難卒亡其本親越謀宗竟以夷隕
反乱の萌(きざ)しはその子より興(おこ)った。義(技=義?)を争(あらそ)い難(なん)を発して、とうとうその本(もと)を亡(ほろ)ぼした。越に親(した)しみ、後継を謀(はか)ったが、とうとう傷つき殺されるを以ってした。
晁錯為國遠慮禍反近身袁盎權說初寵後辱
晁錯(漢御史大夫晁錯)は国の為(ため)に遠く慮(おもんばか)ったが、禍(わざわい)は反(かえ)って身に近づいた。袁盎(漢太常袁盎)は臨機応変に説(と)いて、初めは寵愛され、後には辱(はずかし)められた。
故古者諸侯地不過百里山海不以封毋親夷狄以疏其屬蓋謂吳邪
故(ゆえ)にむかしは、諸侯の領地は百里(一里150m換算で約15km)を越えず、山海は封ぜられるを以ってしなかった。『夷狄(異民族)に親(した)しみ、その同属を疎(うと)んずるを以ってすることなかれ』とは、思うに呉のことを謂(い)うのだろうか。
毋為權首反受其咎豈盎錯邪
『権謀のかしらと為ることなかれ、反(かえ)ってその咎(とが)を受ける』とは、いったい袁盎、晁錯のことだろうか」と。
今日で史記 呉王濞列伝は終わりです。明日からは史記 魏其武安侯列伝に入ります。