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故歸義因淳王復陸支

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故歸義因淳王復陸支樓專王伊即靬皆從驃騎將軍有功

前の帰義因淳王復陸支、楼専王伊即靬は皆(みな)漢驃騎將軍霍去病に従って功が有った。

以千三百戶封復陸支為壯侯以千八百戶封伊即靬為眾利侯

一千三百戸を以って復陸支に封じ壮侯と為さしめ、一千八百戸を以って伊即靬に封じ衆利侯と為さしめた。

從驃侯破奴昌武侯安稽從驃騎有功益封各三百戶

從驃侯趙破奴、昌武侯安稽が漢驃騎将軍霍去病に従って功が有り、各々三百戸を益封した。

校尉敢得旗鼓為關內侯食邑二百戶校尉自為爵大庶長

漢校尉李敢(李広の子)は旗鼓を得て、関内侯と為り食邑は二百戸。漢校尉自為は大庶長を爵した。

軍吏卒為官賞賜甚多而大將軍不得益封軍吏卒皆無封侯者

軍吏卒は官と為し、賞賜は甚(はなは)だ多くした。しこうして、漢大将軍(衛青)は益封を得られず、軍吏卒は皆(みな)封侯者にはならなかった。

兩軍之出塞塞閱官及私馬凡十四萬匹而復入塞者不滿三萬匹

両軍の塞(とりで)に出るは、塞(とりで)は官及び私馬を数えあらためること凡(およ)そ十四万匹、
しこうしてふたたび塞(とりで)に入ったものは三万匹に満たなかった。

乃益置大司馬位大將軍驃騎將軍皆為大司馬

そこで大司馬の位を益(ま)して置いた。漢大将軍長平侯衛青、漢驃騎將軍冠軍侯霍去病は皆(みな)大司馬と為った。

定令令驃騎將軍秩祿與大將軍等自是之後大將軍青日退而驃騎日益貴

令を定(さだ)め、漢驃騎將軍大司馬冠軍侯霍去病の秩禄(ちつろく)を漢大将軍大司馬長平侯衛青と等(ひと)しくさせた。これの後より、大将軍衛青は日に日に退(しりぞ)き、しこうして驃騎將軍霍去病は日に日にますます貴ばれていった。

舉大將軍故人門下多去事驃騎輒得官爵唯任安不肯

漢大将軍衛青の故人、門下を挙(あ)げて多くが去(さ)り、漢驃騎將軍霍去病に仕(つか)え、そのたびごとに官爵を得て、唯(ただ)任安だけがよしとしなかった。

驃騎將軍為人少言不泄有氣敢任天子嘗欲教之孫吳兵法對曰

漢驃騎將軍霍去病の人と為りは言葉数が少なく、秘密を漏(も)らさず、進んで任にあたる気が有った。
天子(漢孝武帝劉徹)は嘗(かつ)てこれに孫呉(孫子)の兵法を教えようと欲し、応(こた)えて曰く、

顧方略何如耳不至學古兵法天子為治第令驃騎視之對曰

「方略(ほうりゃく)の何如(いかん)を顧(かえり)みるのみで、古(いにしえ)の兵法を学ぶにはおよびません」と。天子(漢孝武帝劉徹)が邸を治(なお)そうと思い、漢驃騎將軍霍去病にこれを視(み)させた、応(こた)えて曰く、

匈奴未滅無以家為也由此上益重愛之然少而侍中貴不省士

「匈奴が未(ま)だ滅ばないうちに、家を以ってつくることなかれ」と。これに由(よ)り、上(漢孝武帝劉徹)はますますこれを重んじ愛(め)でた。然(しか)るに侍中をかろんじ、貴(とうと)ぶは士を省(かえり)みなかった。

其從軍天子為遣太官齎數十乘既還重車餘棄粱肉而士有饑者

その従軍は、天子(漢孝武帝劉徹)が太官を遣(つか)わし、数十乗を贈(おく)らせることを為し、すでに還(かえ)り、荷車は大粒の粟(あわ)と肉を余(あま)して棄て、しこうして、士には飢えた者が有った。

其在塞外卒乏糧或不能自振而驃騎尚穿域蹋鞠事多此類

その塞(とりで)の外(そと)に在(あ)って、兵は食糧に乏(とぼ)しく、或(あ)る者は自ら振(ふ)るうことができなかったが、しこうして漢驃騎将軍霍去病は尚(なお)域を穿(うが)ってけまりをした。事の多くがこの類(たぐい)であった。

大將軍為人仁善退讓以和柔自媚於上然天下未有稱也

漢大将軍衛青の人と為りは仁善で退譲(へりくだって人にゆずる)であったが、柔和(にゅうわ)を以って自らを上に於いて媚(こ)び、然(しか)るに天下は未(ま)だ称(たた)えなかったのである。

驃騎將軍自四年軍後三年元狩六年而卒天子悼之發屬國玄甲軍

漢驃騎將軍大司馬冠軍侯霍去病は元狩四年の軍より後三年、元狩六年にして亡くなった。天子(漢孝武帝劉徹)はこれを悼(いた)み、属国の玄甲軍を発し、

陳自長安至茂陵為冢象祁連山謚之并武與廣地曰景桓侯

長安より茂陵に至るまで並べ、墓を祁連山に象(かたど)って作らせた。これにおくり名をつけ、武(ぶ)と地を広げるをあわせ、曰く景桓侯と。

子嬗代侯嬗少字子侯上愛之幸其壯而將之

この霍嬗が冠軍侯に代わった。冠軍侯霍嬗は年若く、字(あざな)は子侯で、上(漢孝武帝劉徹)はこれを愛し、幸いにもその壮年になってこれを将軍にした。

居六歲元封元年嬗卒謚哀侯無子絕國除

居ること六年、元封元年、冠軍侯霍嬗が亡くなり、おくり名は哀侯。子が無く、絶(た)えて、国は除(のぞ)かれた。

自驃騎將軍死後大將軍長子宜春侯伉坐法失侯

漢驃騎將軍霍去病の死後より、漢大将軍衛青の長男の宜春侯衛伉は法に罪を問われて侯位を失った。

後五歲伉弟二人陰安侯不疑及發干侯登皆坐酎金失侯

五年後、衛伉の弟二人の陰安侯衛不疑及び発干侯衛登は皆(みな)酎金(朝廷における祭祀の際に拠出する金)に罪を問われて侯位を失った。

失侯後二歲冠軍侯國除其後四年大將軍青卒謚為烈侯子伉代為長平侯

侯位を失った二年後、冠軍侯霍嬗の国が除(のぞ)かれた。その四年後、漢大将軍大司馬長平侯衛青が亡くなり、おくり名は烈侯とした。子の衛伉が代わって長平侯に為った。

自大將軍圍單于之後十四年而卒竟不復擊匈奴者以漢馬少

漢大将軍衛青が単于(匈奴王)を包囲したときより後十四年にして亡くなった。とうとうまた匈奴を撃たなかったのは、漢の馬を以って少なく、

而方南誅兩越東伐朝鮮擊羌西南夷以故久不伐胡

しこうして、まさに南に進んで両越を誅(ちゅう)し、東に進んで朝鮮を討(う)ち、羌、西南夷を撃ち、故(ゆえ)を以って久しく匈奴を討(う)たなかった。

大將軍以其得尚平陽長公主故長平侯伉代侯六歲坐法失侯

漢大将軍衛青はその尚(なお)平陽長公主(武帝劉徹の姉)の故(ゆえ)を得るを以って、長平侯衛伉が侯に代(か)わったのである。六年して法に罪を問われて侯位を失った。

左方兩大將軍及諸裨將名

左方の二人の大将軍及び諸(もろもろ)の副将の名、

最大將軍青凡七出擊匈奴斬捕首虜五萬餘級

最大将軍衛青は、凡(およ)そ七度匈奴を撃ちに出て、首を斬り虜(とりこ)を捕らえること五万余級。

一與單于戰收河南地遂置朔方郡再益封凡萬一千八百戶

一度、単于(匈奴王)と戦い、河南の地を収(おさ)め、遂(つい)に朔方郡を置き、二度益封して、凡(およ)そ一万一千八百戸。

封三子為侯侯千三百戶并之萬五千七百戶

三人の子に封じて侯と為さしめ、一千三百戸の侯になった。これを併(あわ)せると、一万五千七百戸。

其校尉裨將以從大將軍侯者九人其裨將及校尉已為將者十四人

その校尉、副将は大将軍に従うを以って侯になった者は九人。その副将及び校尉ですでに将軍になった者は十四人。

為裨將者曰李廣自有傳無傳者曰

副将と為った者は李広といい、伝が有ることにより、伝の無い者曰く、

將軍公孫賀賀義渠人其先胡種

将軍公孫賀。公孫賀は義渠の人で、その先祖は匈奴の種族である。

賀父渾邪景帝時為平曲侯坐法失侯

公孫賀の父は渾邪で、漢孝景帝劉啓時、平曲侯と為り、法に罪を問われて侯位を失った。

賀武帝為太子時舍人武帝立八歲以太仆為輕車將軍軍馬邑

公孫賀は漢孝武帝劉徹が太子だった時の舎人である。漢孝武帝劉徹が立って八年(元光二年)、漢太僕を以って軽車将軍と為り、馬邑に軍営をしいた。

後四歲以輕車將軍出雲中後五歲以騎將軍從大將軍有功封為南窌侯

四年後(元光六年)、軽車将軍を以って雲中に出た。五年後、騎将軍を以って漢大将軍長平侯衛青に従って功を有し、封ぜられて南窌侯と為った。

後一歲以左將軍再從大將軍出定襄無功後四歲以坐酎金失侯

一年後(元朔六年)、左将軍を以ってふたたび漢大将軍長平侯衛青に従って定襄に出たが功が無かった。四年後、酎金(朝廷における祭祀の際に拠出する金)に罪を問われるを以って侯位を失った。

後八歲以浮沮將軍出五原二千餘里無功後八歲以太仆為丞相封葛繹侯

八年後、浮沮將軍を以って五原に出ること二千余里(一里150m換算で約300km余り)、功が無かった。八年後(太初二年)、太僕を以って丞相と為り、葛繹侯に封ぜられた。

賀七為將軍出擊匈奴無大功而再侯為丞相

公孫賀は七度将軍と為り、匈奴に出撃したが大功は無く、しこうして二度侯になり、丞相に為った。

坐子敬聲與陽石公主姦為巫蠱族滅無後

子の公孫敬声と陽石公主が不正をして巫蠱(神に祈ったりまじないをして人をのろうこと)を為したことに罪を問われ、族刑になって滅(ほろ)び、後継は無かった。

將軍李息郁郅人事景帝至武帝立八歲為材官將軍軍馬邑

将軍李息は郁郅の人である。漢孝景帝劉啓に仕(つか)えた。漢孝武帝劉徹が立って八年に至り、材官将軍に為って馬邑に軍営をしいた。

後六歲為將軍出代後三歲為將軍從大將軍出朔方皆無功

六年後、将軍に為って代に出た。三年後、将軍と為って、漢大将軍長平侯衛青に従って朔方に出たが、皆(みな)功が無かった。

凡三為將軍其後常為大行

凡(およ)そ三度将軍に為り、その後常(つね)に大行と為った。

將軍公孫敖義渠人以郎事武帝武帝立十二歲為(驃)騎將軍出代

将軍公孫敖は義渠の人である。郎を以って漢孝武帝劉徹に仕(つか)えた。漢孝武帝劉徹が立って十二年、騎将軍と為って代に出た。

亡卒七千人當斬贖為庶人後五歲以校尉從大將軍有功封為合騎侯

兵七千人を亡くし、斬罪に当てられたが罪を購(あがな)って庶人と為った。五年後、校尉を以って漢大将軍長平侯衛青に従い功が有り、封ぜられて合騎侯と為った。

後一歲以中將軍從大將軍再出定襄無功後二歲以將軍出北地

一年後(元朔六年)、中将軍を以って漢大将軍長平侯衛青に従い、ふたたび定襄に出たが功は無かった。
二年後(元狩二年)、将軍を以って北地に出た。

後驃騎期當斬贖為庶人後二歲以校尉從大將軍無功

漢驃騎将軍冠軍侯霍去病の約束に後(おく)れ、斬罪に当てられ、罪を購(あがな)って庶人と為った。二年後、校尉を以って漢大将軍長平侯衛青に従ったが功は無かった。

後十四歲以因杅將軍筑受降城七歲復以因杅將軍再出擊匈奴至余吾

十四年後、因杅將軍を以って受降城を築(きず)いた。七年(天漢四年)して、ふたたび因杅將軍を以って再度匈奴に出撃し、余吾に至り、

亡士卒多下吏當斬詐死亡居民五六歲後發覺復系坐妻為巫蠱族

士卒を亡くすこと多く、役人に下(くだ)されて、斬罪に当てられ、死を偽(いつわ)り、民間に逃げて居して五、六年。後に発覚して、ふたたび繋(つな)がれた。妻が巫蠱(神に祈ったりまじないをして人をのろうこと)を為したことに罪を問われ、族刑になった。

凡四為將軍出擊匈奴一侯

凡(およ)そ四度将軍に為って、匈奴に出撃し、一度侯になった。

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