將軍荀彘太原廣武人以御見侍中為校尉數從大將軍
將軍荀彘は太原の広武の人。御見侍中を以って校尉と為り、たびたび漢大将軍長平侯衛青に従った。
以元封三年為左將軍擊朝鮮毋功以捕樓船將軍坐法死
元封三年を以って左将軍として朝鮮を撃ち、功が無かった。楼船將軍楊僕を捕(と)らえるを以って法に罪を問われて死んだ。
最驃騎將軍去病凡六出擊匈奴其四出以將軍斬捕首虜十一萬餘級
最驃騎將軍冠軍侯霍去病は凡(およ)そ六度、匈奴に出撃し、その四度、将軍を以って出て、首虜を斬捕すること十一万余級。
及渾邪王以眾降數萬遂開河西酒泉之地西方益少胡寇
渾邪王が衆を以って降(くだ)ること数万に及んで、遂(つい)に河西の酒泉の地を開き、西方はますます胡族(匈奴)の侵犯は少なくなっていった。
四益封凡萬五千一百戶其校吏有功為侯者凡六人而後為將軍二人
四度益封され、凡(およ)そ一万五千一百戸。その校史の功が有り侯に為った者は凡(およ)そ六人、しこうして後に将軍に為ったのは二人。
將軍路博平州人以右北平太守從驃騎將軍有功為符離侯
將軍路博は平州の人。右北平太守を以って漢驃騎將軍冠軍侯霍去病に従い功が有り、符離侯に為った(元狩四年)。
驃騎死後博以衛尉為伏波將軍伐破南越益封其後坐法失侯
漢驃騎將軍冠軍侯霍去病の死(元狩六年)の後、路博徳は衛尉を以って伏波將軍と為って南越を討(う)ち破り(元鼎五年)、益封された。その後法に罪を問われて侯位を失った。
為彊弩都尉屯居延卒
彊弩都尉と為って居延に屯(とん)し、亡くなった。
將軍趙破奴故九原人嘗亡入匈奴已而歸漢為驃騎將軍司馬
將軍趙破奴はもと九原の人。嘗て逃げて匈奴に入り、しばらくして漢に帰属し、漢驃騎將軍冠軍侯霍去病の司馬と為り、
出北地時有功封為從驃侯坐酎金失侯
北地に出た時(元狩二年)功が有り、封ぜられて從驃侯と為った。酎金(朝廷における祭祀の際に拠出する金)に罪を問われて侯位を失った。
後一歲為匈河將軍攻胡至匈河水無功
一年後、匈河将軍と為って、胡(匈奴)を攻め匈河水に至ったが、功は無かった。
後二歲擊虜樓蘭王復封為浞野侯
二年後、樓蘭王を撃って虜(とりこ)にし、ふたたび封ぜられて浞野侯と為った。
後六歲為浚稽將軍將二萬騎擊匈奴左賢王左賢王與戰
六年後(太初二年)、浚稽將軍と為って、二万騎を率(ひき)いて匈奴左賢王を撃ち、左賢王と戦い、
兵八萬騎圍破奴破奴生為虜所得遂沒其軍
兵八万騎が漢浚稽將軍浞野侯趙破奴を包囲(ほうい)し、漢浚稽將軍浞野侯趙破奴は生きたまま虜(とりこ)としてつかまえられるところと為り、遂(つい)に其の軍を没(ぼっ)した。
居匈奴中十歲復與其太子安國亡入漢後坐巫蠱族
匈奴の中に居すること十年、ふたたびその太子の趙安国(太子は安国という名から推測して、もと浞野侯趙破奴の後継ぎの子と解釈しました)とともに逃げて漢に入った。後(のち)に巫蠱(神に祈ったりまじないをして人をのろうこと)に罪を問われ、族刑になった。
自衛氏興大將軍青首封其後枝屬為五侯
衛氏が興(おこ)ってより、漢大将軍長平侯衛青が封の頭(かしら)で、その後、支族が五人の侯者に為り、
凡二十四歲而五侯盡奪衛氏無為侯者
凡(およ)そ二十四年にして、五人の侯はことごとくみな奪(うば)われ、衛氏は侯と為った者はいなくなった。
太史公曰蘇建語余曰吾嘗責大將軍至尊重而天下之賢大夫毋稱焉
太史公曰く、「蘇建がわたしに語って曰く、吾(われ)は嘗(かつ)て大将軍(衛青)が尊重をきわめながら、天下の賢大夫は称(たた)えないことを責(せ)めたことがあり、
願將軍觀古名將所招選擇賢者勉之哉
将軍に古(いにしえ)の名将が賢者を選択して招(まね)いたところを観(み)て、これに努められよと願った。
大將軍謝曰自魏其武安之厚賓客天子常切齒
大将軍(衛青)は謝して曰く、魏其侯竇嬰、武安侯田蚡が賓客を厚遇してより、天子は常(つね)に
歯軋りしてくやしがっていた。
彼親附士大夫招賢絀不肖者人主之柄也
彼(か)の、士大夫に親附(しんぷ)し、賢者を招(まね)いて不肖(ふしょう)者をしりぞかせるは、
人の主(あるじ)の采配(さいはい)である。
人臣奉法遵職而已何與招士驃騎亦放此意其為將如此
人の臣下は法を奉(たてまつ)り、職を守りしたがうのみであり、士を招(まね)くこととどちらがまさっているだろうか、といった、と。漢驃騎将軍冠軍侯霍去病もまたこの意(い)をみならい、その将軍としてこの如(ごと)くであった」と。
今日で史記 衛將軍驃騎列伝は終わりです。明日からは史記 平津侯主父列伝に入ります。
將軍荀彘は太原の広武の人。御見侍中を以って校尉と為り、たびたび漢大将軍長平侯衛青に従った。
以元封三年為左將軍擊朝鮮毋功以捕樓船將軍坐法死
元封三年を以って左将軍として朝鮮を撃ち、功が無かった。楼船將軍楊僕を捕(と)らえるを以って法に罪を問われて死んだ。
最驃騎將軍去病凡六出擊匈奴其四出以將軍斬捕首虜十一萬餘級
最驃騎將軍冠軍侯霍去病は凡(およ)そ六度、匈奴に出撃し、その四度、将軍を以って出て、首虜を斬捕すること十一万余級。
及渾邪王以眾降數萬遂開河西酒泉之地西方益少胡寇
渾邪王が衆を以って降(くだ)ること数万に及んで、遂(つい)に河西の酒泉の地を開き、西方はますます胡族(匈奴)の侵犯は少なくなっていった。
四益封凡萬五千一百戶其校吏有功為侯者凡六人而後為將軍二人
四度益封され、凡(およ)そ一万五千一百戸。その校史の功が有り侯に為った者は凡(およ)そ六人、しこうして後に将軍に為ったのは二人。
將軍路博平州人以右北平太守從驃騎將軍有功為符離侯
將軍路博は平州の人。右北平太守を以って漢驃騎將軍冠軍侯霍去病に従い功が有り、符離侯に為った(元狩四年)。
驃騎死後博以衛尉為伏波將軍伐破南越益封其後坐法失侯
漢驃騎將軍冠軍侯霍去病の死(元狩六年)の後、路博徳は衛尉を以って伏波將軍と為って南越を討(う)ち破り(元鼎五年)、益封された。その後法に罪を問われて侯位を失った。
為彊弩都尉屯居延卒
彊弩都尉と為って居延に屯(とん)し、亡くなった。
將軍趙破奴故九原人嘗亡入匈奴已而歸漢為驃騎將軍司馬
將軍趙破奴はもと九原の人。嘗て逃げて匈奴に入り、しばらくして漢に帰属し、漢驃騎將軍冠軍侯霍去病の司馬と為り、
出北地時有功封為從驃侯坐酎金失侯
北地に出た時(元狩二年)功が有り、封ぜられて從驃侯と為った。酎金(朝廷における祭祀の際に拠出する金)に罪を問われて侯位を失った。
後一歲為匈河將軍攻胡至匈河水無功
一年後、匈河将軍と為って、胡(匈奴)を攻め匈河水に至ったが、功は無かった。
後二歲擊虜樓蘭王復封為浞野侯
二年後、樓蘭王を撃って虜(とりこ)にし、ふたたび封ぜられて浞野侯と為った。
後六歲為浚稽將軍將二萬騎擊匈奴左賢王左賢王與戰
六年後(太初二年)、浚稽將軍と為って、二万騎を率(ひき)いて匈奴左賢王を撃ち、左賢王と戦い、
兵八萬騎圍破奴破奴生為虜所得遂沒其軍
兵八万騎が漢浚稽將軍浞野侯趙破奴を包囲(ほうい)し、漢浚稽將軍浞野侯趙破奴は生きたまま虜(とりこ)としてつかまえられるところと為り、遂(つい)に其の軍を没(ぼっ)した。
居匈奴中十歲復與其太子安國亡入漢後坐巫蠱族
匈奴の中に居すること十年、ふたたびその太子の趙安国(太子は安国という名から推測して、もと浞野侯趙破奴の後継ぎの子と解釈しました)とともに逃げて漢に入った。後(のち)に巫蠱(神に祈ったりまじないをして人をのろうこと)に罪を問われ、族刑になった。
自衛氏興大將軍青首封其後枝屬為五侯
衛氏が興(おこ)ってより、漢大将軍長平侯衛青が封の頭(かしら)で、その後、支族が五人の侯者に為り、
凡二十四歲而五侯盡奪衛氏無為侯者
凡(およ)そ二十四年にして、五人の侯はことごとくみな奪(うば)われ、衛氏は侯と為った者はいなくなった。
太史公曰蘇建語余曰吾嘗責大將軍至尊重而天下之賢大夫毋稱焉
太史公曰く、「蘇建がわたしに語って曰く、吾(われ)は嘗(かつ)て大将軍(衛青)が尊重をきわめながら、天下の賢大夫は称(たた)えないことを責(せ)めたことがあり、
願將軍觀古名將所招選擇賢者勉之哉
将軍に古(いにしえ)の名将が賢者を選択して招(まね)いたところを観(み)て、これに努められよと願った。
大將軍謝曰自魏其武安之厚賓客天子常切齒
大将軍(衛青)は謝して曰く、魏其侯竇嬰、武安侯田蚡が賓客を厚遇してより、天子は常(つね)に
歯軋りしてくやしがっていた。
彼親附士大夫招賢絀不肖者人主之柄也
彼(か)の、士大夫に親附(しんぷ)し、賢者を招(まね)いて不肖(ふしょう)者をしりぞかせるは、
人の主(あるじ)の采配(さいはい)である。
人臣奉法遵職而已何與招士驃騎亦放此意其為將如此
人の臣下は法を奉(たてまつ)り、職を守りしたがうのみであり、士を招(まね)くこととどちらがまさっているだろうか、といった、と。漢驃騎将軍冠軍侯霍去病もまたこの意(い)をみならい、その将軍としてこの如(ごと)くであった」と。
今日で史記 衛將軍驃騎列伝は終わりです。明日からは史記 平津侯主父列伝に入ります。