乃使邊境之民獘靡愁苦而有離心將吏相疑而外市故尉佗章邯得以成其私也
そこで、辺境の民をして疲弊(ひへい)させ愁(うれ)え苦しめさせて、謀反(むほん)を起こす心を有さしめれば、将軍、役人、大臣はまよって外(そと)に取引し、故(ゆえ)に尉佗、章邯が自分の利をはかることを成すを以ってするを得たのであります。
夫秦政之所以不行者權分乎二子此得失之效也
それ、秦の政治が行われなかったわけとは、権力が分散したからでしょうか。二氏はこれ、得失(とくしつ)の証(あかし)であります。
故周書曰安危在出令存亡在所用願陛下詳察之少加意而熟慮焉
故(ゆえ)に周書曰く、安危(あんき)は出された令に在(あ)り、存亡(そんぼう)は用いたところに在(あ)る、と。願わくは陛下にはこれを詳(くわ)しくお考えになり、少しく注意してご熟慮(じゅくりょ)ください」と。
是時趙人徐樂齊人嚴安俱上書言世務各一事徐樂曰
ちょうどこの時、趙人の徐楽、斉人の厳安がともに上書して世務(せいむ)を各々(おのおの)が一事を言った。徐楽曰く、
臣聞天下之患在於土崩不在於瓦解古今一也
「わたしは聞きます、天下の患(うれ)いは土崩に於いて在(あ)り、瓦解(がかい)に於いて在(あ)るのではなく、古(いにしえ)も今(いま)も同じである、と。
何謂土崩秦之末世是也陳涉無千乘之尊尺土之地
何を土崩と謂(い)うのかというと、秦の末世(まっせ)がこれであったのであります。陳渉は千乗の尊位、わずかの土地も無く、
身非王公大人名族之后無鄉曲之譽非有孔墨曾子之賢
身(み)は、王、公、大人、名族の子孫ではなく、郷里の良い評判もなく、孔子、墨子、曾子の賢、
陶朱猗頓之富也然起窮巷奮棘矜偏袒大呼而天下從風此其故何也
陶朱、猗頓の富(とみ)も有りませんでしたが、然(しか)るにまずしい町に起こり、棘(いばら)のほこを奮(ふる)い、かたはだを脱(ぬ)いで大声でさけぶと、天下は風になびくように従いました。これ、その故(ゆえ)はどうしてなのでありましょうか?
由民困而主不恤下怨而上不知(也)俗已亂而政不修此三者陳涉之所以為資也
民が困(こま)ても主(あるじ)はあわれまず、下が怨(うら)んでも、上は知らず、俗がすでに乱れても政治は修(おさ)まらずに由(よ)って、この三者が陳渉のよりどころと為すを以ってするところだったからであります。
是之謂土崩故曰天下之患在於土崩何謂瓦解
これの謂(い)うのが土崩です。故(ゆえ)に曰く、天下の患(うれ)いは土崩に在(あ)ると。何を瓦解(がかい)と謂(い)うでしょうか。
吳楚齊趙之兵是也七國謀為大逆號皆稱萬乘之君
呉、楚、斉、趙の戦いがこれであります。七国が謀(はか)りて大逆(たいぎゃく)を為し、号して皆(みな)、万乗の君と称(とな)え、
帶甲數十萬威足以嚴其境內財足以勸其士民
鎧(よろい)を着用する兵は数十万、威(い)はその境内を厳(おごそ)かにするを以ってするに足(た)り、財(ざい)はその士民を勧(すす)めるを以ってするに足(た)りました。
然不能西攘尺寸之地而身為禽於中原者此其故何也
然(しか)るに西に進んで尺寸(しゃくすん)の地も攻め取ることができずして身(み)は中原に於いて擒(とりこ)と為ったのは、これ、その故(ゆえ)はどうしてなのでしょうか?
非權輕於匹夫而兵弱於陳涉也當是之時先帝之澤未衰而安土樂俗之民眾
権力が匹夫(ひっぷ)より軽く、兵が陳渉より弱かったのではないのであります。この時に当たって、先帝の恩沢(おんたく)が未(ま)だ衰(おとろ)えずして、土地に安んじ、俗を楽しむ民(たみ)が多く、
故諸侯無境外之助此之謂瓦解故曰天下之患不在瓦解
故(ゆえ)に諸侯は境外の助けが無かったのです。これの謂(い)うのが瓦解(がかい)で、故(ゆえ)に天下の患(うれ)いは瓦解(がかい)にはないのです。
由是觀之天下誠有土崩之勢雖布衣窮處之士或首惡而危海內陳涉是也
これ由(よ)りこれをみきわめるに、天下が誠(まこと)に土崩の勢いを有すれば、無位無官(むいむかん)の辺鄙(へんぴ)な処(ところ)の士の或(あ)る者が悪人の頭(かしら)になったと雖(いえど)も、しこうして海内を危(あや)うくし、陳渉がこれであります。
況三晉之君或存乎天下雖未有大治也誠能無土崩之勢
況(いわん)や、三晋(韓、魏、趙)の君の或(あ)るものが存(ながら)えていればなおのことです。
天下が未(ま)だ大治を有していないうちと雖(いえど)も、誠(まこと)に土崩の勢いを無くすことができれば、
雖有彊國勁兵不得旋踵而身為禽矣吳楚齊趙是也
強国の強い兵士が有ったと雖(いえど)も、踵(きびす)をかえすことを得ずして身(み)は擒(とりこ)と為るでしょう。呉、楚、斉、趙がこれであります。
況群臣百姓能為亂乎哉此二體者安危之明要也賢主所留意而深察也
況(いわん)や、群臣、百姓が乱を為すことができればなおのことではないでしょうかな。この二つの形(かたち)とは、安危(あんき)の明らかな要(かなめ)であり、賢主が意(い)に留(とど)めて深くおしはかるところであります。
そこで、辺境の民をして疲弊(ひへい)させ愁(うれ)え苦しめさせて、謀反(むほん)を起こす心を有さしめれば、将軍、役人、大臣はまよって外(そと)に取引し、故(ゆえ)に尉佗、章邯が自分の利をはかることを成すを以ってするを得たのであります。
夫秦政之所以不行者權分乎二子此得失之效也
それ、秦の政治が行われなかったわけとは、権力が分散したからでしょうか。二氏はこれ、得失(とくしつ)の証(あかし)であります。
故周書曰安危在出令存亡在所用願陛下詳察之少加意而熟慮焉
故(ゆえ)に周書曰く、安危(あんき)は出された令に在(あ)り、存亡(そんぼう)は用いたところに在(あ)る、と。願わくは陛下にはこれを詳(くわ)しくお考えになり、少しく注意してご熟慮(じゅくりょ)ください」と。
是時趙人徐樂齊人嚴安俱上書言世務各一事徐樂曰
ちょうどこの時、趙人の徐楽、斉人の厳安がともに上書して世務(せいむ)を各々(おのおの)が一事を言った。徐楽曰く、
臣聞天下之患在於土崩不在於瓦解古今一也
「わたしは聞きます、天下の患(うれ)いは土崩に於いて在(あ)り、瓦解(がかい)に於いて在(あ)るのではなく、古(いにしえ)も今(いま)も同じである、と。
何謂土崩秦之末世是也陳涉無千乘之尊尺土之地
何を土崩と謂(い)うのかというと、秦の末世(まっせ)がこれであったのであります。陳渉は千乗の尊位、わずかの土地も無く、
身非王公大人名族之后無鄉曲之譽非有孔墨曾子之賢
身(み)は、王、公、大人、名族の子孫ではなく、郷里の良い評判もなく、孔子、墨子、曾子の賢、
陶朱猗頓之富也然起窮巷奮棘矜偏袒大呼而天下從風此其故何也
陶朱、猗頓の富(とみ)も有りませんでしたが、然(しか)るにまずしい町に起こり、棘(いばら)のほこを奮(ふる)い、かたはだを脱(ぬ)いで大声でさけぶと、天下は風になびくように従いました。これ、その故(ゆえ)はどうしてなのでありましょうか?
由民困而主不恤下怨而上不知(也)俗已亂而政不修此三者陳涉之所以為資也
民が困(こま)ても主(あるじ)はあわれまず、下が怨(うら)んでも、上は知らず、俗がすでに乱れても政治は修(おさ)まらずに由(よ)って、この三者が陳渉のよりどころと為すを以ってするところだったからであります。
是之謂土崩故曰天下之患在於土崩何謂瓦解
これの謂(い)うのが土崩です。故(ゆえ)に曰く、天下の患(うれ)いは土崩に在(あ)ると。何を瓦解(がかい)と謂(い)うでしょうか。
吳楚齊趙之兵是也七國謀為大逆號皆稱萬乘之君
呉、楚、斉、趙の戦いがこれであります。七国が謀(はか)りて大逆(たいぎゃく)を為し、号して皆(みな)、万乗の君と称(とな)え、
帶甲數十萬威足以嚴其境內財足以勸其士民
鎧(よろい)を着用する兵は数十万、威(い)はその境内を厳(おごそ)かにするを以ってするに足(た)り、財(ざい)はその士民を勧(すす)めるを以ってするに足(た)りました。
然不能西攘尺寸之地而身為禽於中原者此其故何也
然(しか)るに西に進んで尺寸(しゃくすん)の地も攻め取ることができずして身(み)は中原に於いて擒(とりこ)と為ったのは、これ、その故(ゆえ)はどうしてなのでしょうか?
非權輕於匹夫而兵弱於陳涉也當是之時先帝之澤未衰而安土樂俗之民眾
権力が匹夫(ひっぷ)より軽く、兵が陳渉より弱かったのではないのであります。この時に当たって、先帝の恩沢(おんたく)が未(ま)だ衰(おとろ)えずして、土地に安んじ、俗を楽しむ民(たみ)が多く、
故諸侯無境外之助此之謂瓦解故曰天下之患不在瓦解
故(ゆえ)に諸侯は境外の助けが無かったのです。これの謂(い)うのが瓦解(がかい)で、故(ゆえ)に天下の患(うれ)いは瓦解(がかい)にはないのです。
由是觀之天下誠有土崩之勢雖布衣窮處之士或首惡而危海內陳涉是也
これ由(よ)りこれをみきわめるに、天下が誠(まこと)に土崩の勢いを有すれば、無位無官(むいむかん)の辺鄙(へんぴ)な処(ところ)の士の或(あ)る者が悪人の頭(かしら)になったと雖(いえど)も、しこうして海内を危(あや)うくし、陳渉がこれであります。
況三晉之君或存乎天下雖未有大治也誠能無土崩之勢
況(いわん)や、三晋(韓、魏、趙)の君の或(あ)るものが存(ながら)えていればなおのことです。
天下が未(ま)だ大治を有していないうちと雖(いえど)も、誠(まこと)に土崩の勢いを無くすことができれば、
雖有彊國勁兵不得旋踵而身為禽矣吳楚齊趙是也
強国の強い兵士が有ったと雖(いえど)も、踵(きびす)をかえすことを得ずして身(み)は擒(とりこ)と為るでしょう。呉、楚、斉、趙がこれであります。
況群臣百姓能為亂乎哉此二體者安危之明要也賢主所留意而深察也
況(いわん)や、群臣、百姓が乱を為すことができればなおのことではないでしょうかな。この二つの形(かたち)とは、安危(あんき)の明らかな要(かなめ)であり、賢主が意(い)に留(とど)めて深くおしはかるところであります。