卒後上以黯故官其弟汲仁至九卿
亡くなった後、上(漢孝武帝劉徹)は汲黯の故(ゆえ)を以って、その弟の汲仁を官にして九卿に至らしめ、
子汲偃至諸侯相
子の汲偃を諸侯相に至らしめた。
黯姑姊子司馬安亦少與黯為太子洗馬
汲黯の伯母(おば)の子の司馬安もまた幼いとき、汲黯とともに太子の洗馬と為った。
安文深巧善宦官四至九卿以河南太守卒
司馬安の法文は深く、仕官を巧(たく)みに善くし、四度官をさずかって九卿に至り、河南太守を以って亡くなった。
昆弟以安故同時至二千石者十人
兄弟は司馬安の故(ゆえ)を以って、同時に二千石に至った者は十人だった。
濮陽段宏始事蓋侯信信任宏宏亦再至九卿
濮陽の段宏は以前、蓋侯王信(王仲の子 王太后の兄弟)に仕(つか)えたとき、蓋侯王信は段宏を任子(にんし)して、段宏もまた二度九卿に至った。
然衛人仕者皆嚴憚汲黯出其下
然(しか)るに衛人(濮陽は衛に在る 汲黯は濮陽人)の仕(つか)える者は皆(みな)汲黯をうやまい憚(はばか)ったので、その下(もと)で出世したのである。
鄭當時者字莊陳人也
鄭当時という者は字(あざな)は荘で、陳の人である。
其先鄭君嘗為項籍將籍死已而屬漢
その先祖の鄭君は嘗(かつ)て項籍の将軍と為り、項籍が死んで、しばらくして漢に属(ぞく)した。
高祖令諸故項籍臣名籍鄭君獨不奉詔
漢高祖劉邦は諸(もろもろ)の以前の項籍の臣下の名籍(戸籍)を令し、鄭君は一人詔(みことのり)を奉(たてまつら)ず、
詔盡拜名籍者為大夫而逐鄭君鄭君死孝文時
詔(みことのり)してことごとく名籍者に官をさずけて大夫と為さしめたが、しこうして鄭君をしりぞけた。鄭君は漢孝文帝劉恒の時に死んだ。
鄭莊以任俠自喜脫張羽於緦聲聞梁楚之
鄭荘(鄭当時)は任侠(おとこだて)を以って自らを喜び、張羽を牢獄(緦=縲?)より脱出させ、名声は梁、楚の間(あいだ)に聞こえた。
孝景時為太子舍人
漢孝景帝劉啓の時、太子の舎人と為った。
每五日洗沐常置驛馬安諸郊存諸故人
五日ごとに休暇をとり、常(つね)に駅次の馬を置き、諸(もろもろ)の郊(天地の祭り)を安んじ、
諸(もろもろ)の旧友をたずね、
請謝賓客夜以繼日至其明旦常恐不遍
賓客に挨拶をしに、夜も昼を継(つ)ぐを以ってし、その明くる朝に至り、常(つね)に遍(あまね)くしないことを恐(おそ)れた。
莊好黃老之言其慕長者如恐不見
漢太子舎人鄭荘(鄭当時)は黄老の言(げん)を好(この)み、その長者を現(あらわ)れないのを恐れるが如(ごと)く慕(した)った。
年少官薄然其游知交皆其大父行天下有名之士也
年若く、官になって浅く、然るにその遊び交わるは皆(みな)祖父と同輩で、天下の有名な士であった。
武帝立莊稍遷為魯中尉濟南太守江都相至九卿為右內史
漢孝武帝劉徹が立つと、鄭荘(鄭当時)は魯中尉、済南太守、江都相としてだんだんと遷(うつ)り、右内史として九卿に至った。
以武安侯魏其時議貶秩為事遷為大農令
武安侯田蚡(王太后の異父弟)、魏其侯竇嬰(漢孝文帝劉恒の后(きさき)の従兄(いとこ)の子)を以って時に議(ぎ)し、秩禄(ちつろく)を貶(おとし)めて事と為り、遷(うつ)って大農令と為った。
亡くなった後、上(漢孝武帝劉徹)は汲黯の故(ゆえ)を以って、その弟の汲仁を官にして九卿に至らしめ、
子汲偃至諸侯相
子の汲偃を諸侯相に至らしめた。
黯姑姊子司馬安亦少與黯為太子洗馬
汲黯の伯母(おば)の子の司馬安もまた幼いとき、汲黯とともに太子の洗馬と為った。
安文深巧善宦官四至九卿以河南太守卒
司馬安の法文は深く、仕官を巧(たく)みに善くし、四度官をさずかって九卿に至り、河南太守を以って亡くなった。
昆弟以安故同時至二千石者十人
兄弟は司馬安の故(ゆえ)を以って、同時に二千石に至った者は十人だった。
濮陽段宏始事蓋侯信信任宏宏亦再至九卿
濮陽の段宏は以前、蓋侯王信(王仲の子 王太后の兄弟)に仕(つか)えたとき、蓋侯王信は段宏を任子(にんし)して、段宏もまた二度九卿に至った。
然衛人仕者皆嚴憚汲黯出其下
然(しか)るに衛人(濮陽は衛に在る 汲黯は濮陽人)の仕(つか)える者は皆(みな)汲黯をうやまい憚(はばか)ったので、その下(もと)で出世したのである。
鄭當時者字莊陳人也
鄭当時という者は字(あざな)は荘で、陳の人である。
其先鄭君嘗為項籍將籍死已而屬漢
その先祖の鄭君は嘗(かつ)て項籍の将軍と為り、項籍が死んで、しばらくして漢に属(ぞく)した。
高祖令諸故項籍臣名籍鄭君獨不奉詔
漢高祖劉邦は諸(もろもろ)の以前の項籍の臣下の名籍(戸籍)を令し、鄭君は一人詔(みことのり)を奉(たてまつら)ず、
詔盡拜名籍者為大夫而逐鄭君鄭君死孝文時
詔(みことのり)してことごとく名籍者に官をさずけて大夫と為さしめたが、しこうして鄭君をしりぞけた。鄭君は漢孝文帝劉恒の時に死んだ。
鄭莊以任俠自喜脫張羽於緦聲聞梁楚之
鄭荘(鄭当時)は任侠(おとこだて)を以って自らを喜び、張羽を牢獄(緦=縲?)より脱出させ、名声は梁、楚の間(あいだ)に聞こえた。
孝景時為太子舍人
漢孝景帝劉啓の時、太子の舎人と為った。
每五日洗沐常置驛馬安諸郊存諸故人
五日ごとに休暇をとり、常(つね)に駅次の馬を置き、諸(もろもろ)の郊(天地の祭り)を安んじ、
諸(もろもろ)の旧友をたずね、
請謝賓客夜以繼日至其明旦常恐不遍
賓客に挨拶をしに、夜も昼を継(つ)ぐを以ってし、その明くる朝に至り、常(つね)に遍(あまね)くしないことを恐(おそ)れた。
莊好黃老之言其慕長者如恐不見
漢太子舎人鄭荘(鄭当時)は黄老の言(げん)を好(この)み、その長者を現(あらわ)れないのを恐れるが如(ごと)く慕(した)った。
年少官薄然其游知交皆其大父行天下有名之士也
年若く、官になって浅く、然るにその遊び交わるは皆(みな)祖父と同輩で、天下の有名な士であった。
武帝立莊稍遷為魯中尉濟南太守江都相至九卿為右內史
漢孝武帝劉徹が立つと、鄭荘(鄭当時)は魯中尉、済南太守、江都相としてだんだんと遷(うつ)り、右内史として九卿に至った。
以武安侯魏其時議貶秩為事遷為大農令
武安侯田蚡(王太后の異父弟)、魏其侯竇嬰(漢孝文帝劉恒の后(きさき)の従兄(いとこ)の子)を以って時に議(ぎ)し、秩禄(ちつろく)を貶(おとし)めて事と為り、遷(うつ)って大農令と為った。