作鄜畤後九年文公獲若石雲于陳倉北阪城祠之
鄜畤を作って後九年、秦文公は石雲(隕石?)のごとくを獲(え)て、陳倉の北阪城においてこれを祠(まつる)った。
其神或歲不至或歲數來來也常以夜光輝若流星
その神は或(あ)る年には至らず、或(あ)る年にはたびたび来て、来るのは常に夜を以ってし、光輝きは流星のごとく、
從東南來集于祠城則若雄雞其聲殷雲野雞夜雊
東南より来て祠城に集まり、すなわち雄(おす)の鶏(にわとり)のごとく、その声は殷雲(さかんにひびく)で野の鶏(にわとり)が夜に雊(鳴く)。
以一牢祠命曰陳寶
一牢(一種類の、いけにえのごちそう)を以って祠(まつる)し、命名して曰く、陳宝、と。
作鄜畤後七十八年秦公既立卜居雍後子孫飲馬於河遂都雍
鄜畤を作って後七十八年、秦徳公がすでに立ち、雍に居することを卜(うらな)うと、「後の子孫は河で馬に飲ませる」と。遂に雍を都(みやこ)にした。
雍之諸祠自此興用三百牢於鄜畤
雍の諸(もろもろ)の祠(まつり)はこれより興(盛ん)した。三百種類の牢(いけにえのごちそう)を鄜畤に用いた。
作伏祠磔狗邑四門以御蠱菑
伏祠を作り、磔狗邑の四つの門(名家)(或いは四方の門)は、蠱菑(わざわい)を御(ふせぐ)するを以ってした。
公立二年卒其後(六)[四]年秦宣公作密畤於渭南祭青帝
秦徳公が立って二年で卒(なくなる)した。 その後六年、秦宣公は渭南に於いて密畤を作り、青帝を祭った。
其後十四年秦繆公立病臥五日不寤
その後十四年、秦繆公が立って、病臥(病気で床につく)し五日間不寤(目覚めない)になった。
寤乃言夢見上帝上帝命繆公平晉亂
寤(目覚めて)して、そこで上帝に見(まみ)えた夢をみたことを言った。上帝は秦繆公に晋の乱を平らげよ、と。
史書而記藏之府而後世皆曰秦繆公上天
史書(歴史を記した書物)にして記(しる)しこれを府(府庫)に蔵(納める)した。しこうして後、世は皆(みな)曰く、秦繆公は天に上(のぼ)ったと。
鄜畤を作って後九年、秦文公は石雲(隕石?)のごとくを獲(え)て、陳倉の北阪城においてこれを祠(まつる)った。
其神或歲不至或歲數來來也常以夜光輝若流星
その神は或(あ)る年には至らず、或(あ)る年にはたびたび来て、来るのは常に夜を以ってし、光輝きは流星のごとく、
從東南來集于祠城則若雄雞其聲殷雲野雞夜雊
東南より来て祠城に集まり、すなわち雄(おす)の鶏(にわとり)のごとく、その声は殷雲(さかんにひびく)で野の鶏(にわとり)が夜に雊(鳴く)。
以一牢祠命曰陳寶
一牢(一種類の、いけにえのごちそう)を以って祠(まつる)し、命名して曰く、陳宝、と。
作鄜畤後七十八年秦公既立卜居雍後子孫飲馬於河遂都雍
鄜畤を作って後七十八年、秦徳公がすでに立ち、雍に居することを卜(うらな)うと、「後の子孫は河で馬に飲ませる」と。遂に雍を都(みやこ)にした。
雍之諸祠自此興用三百牢於鄜畤
雍の諸(もろもろ)の祠(まつり)はこれより興(盛ん)した。三百種類の牢(いけにえのごちそう)を鄜畤に用いた。
作伏祠磔狗邑四門以御蠱菑
伏祠を作り、磔狗邑の四つの門(名家)(或いは四方の門)は、蠱菑(わざわい)を御(ふせぐ)するを以ってした。
公立二年卒其後(六)[四]年秦宣公作密畤於渭南祭青帝
秦徳公が立って二年で卒(なくなる)した。 その後六年、秦宣公は渭南に於いて密畤を作り、青帝を祭った。
其後十四年秦繆公立病臥五日不寤
その後十四年、秦繆公が立って、病臥(病気で床につく)し五日間不寤(目覚めない)になった。
寤乃言夢見上帝上帝命繆公平晉亂
寤(目覚めて)して、そこで上帝に見(まみ)えた夢をみたことを言った。上帝は秦繆公に晋の乱を平らげよ、と。
史書而記藏之府而後世皆曰秦繆公上天
史書(歴史を記した書物)にして記(しる)しこれを府(府庫)に蔵(納める)した。しこうして後、世は皆(みな)曰く、秦繆公は天に上(のぼ)ったと。