孝惠帝為東朝長樂宮及往數蹕煩人
漢孝恵帝劉盈は長楽宮に東朝(東は主人がわ)し、ひそかに往(ゆ)くに及(およ)んで、たびたびさきばらいして人を煩(わずら)わせ、
乃作複道方筑武庫南
そこで、複道(ふくどう)を作り、まさに武庫の南に築(きず)いた。
叔孫生奏事因請曰
叔孫先生(漢太常稷嗣君叔孫通)が、事(こと)を奏上したとき、因(よ)りてころおいを請(こ)うて曰く、
陛下何自筑複道高寢衣冠月出游高廟
「陛下はどうして複道を高祖寝廟に築(きず)き、衣冠(いかん)をつけて毎月高祖廟にお出かけになるのですか?
高廟漢太祖柰何令後世子孫乘宗廟道上行哉
高祖廟は漢太祖で、どうして後世(こうせい)の子孫(しそん)に宗廟の道の上を車に乗って行かせしめるのですかな?
孝惠帝大懼曰急壞之叔孫生曰
漢孝恵帝劉盈は大いに懼(おそ)れて曰く、「急いでこれを壊(こわ)しましょう」と。叔孫先生(漢太常稷嗣君叔孫通)曰く、
人主無過舉今已作百姓皆知之今壞此
「人の主(あるじ)は企(くわだ)てに過(あやま)ちはありません。今すでに作り、百姓は皆(みな)これを知っておりますがら、今これを壊(こわ)せば、
則示有過舉願陛下原廟渭北衣冠月出游之
すなわち企(くわだ)てに過(あやま)ちが有ったことを示(しめ)してしまいます。願わくは陛下には渭(川名)の北に廟(びょう)をおたずねください。衣冠(いかん)をつけて毎月ここにお出かけになれば、
益廣多宗廟大孝之本也
ますます宗廟を広く多くして、大いなる孝行(こうこう)の本(もと)であります」と。
上乃詔有司立原廟原廟起以複道故
上(漢孝恵帝劉盈)はそこで、役人に詔(みことのり)をして原廟(原は恐らく源で 廟のみなもと)を立てた。原廟(原は恐らく源で 廟のみなもと)が起こったのは複道故(ゆえ)を以ってしたのである。
漢孝恵帝劉盈は長楽宮に東朝(東は主人がわ)し、ひそかに往(ゆ)くに及(およ)んで、たびたびさきばらいして人を煩(わずら)わせ、
乃作複道方筑武庫南
そこで、複道(ふくどう)を作り、まさに武庫の南に築(きず)いた。
叔孫生奏事因請曰
叔孫先生(漢太常稷嗣君叔孫通)が、事(こと)を奏上したとき、因(よ)りてころおいを請(こ)うて曰く、
陛下何自筑複道高寢衣冠月出游高廟
「陛下はどうして複道を高祖寝廟に築(きず)き、衣冠(いかん)をつけて毎月高祖廟にお出かけになるのですか?
高廟漢太祖柰何令後世子孫乘宗廟道上行哉
高祖廟は漢太祖で、どうして後世(こうせい)の子孫(しそん)に宗廟の道の上を車に乗って行かせしめるのですかな?
孝惠帝大懼曰急壞之叔孫生曰
漢孝恵帝劉盈は大いに懼(おそ)れて曰く、「急いでこれを壊(こわ)しましょう」と。叔孫先生(漢太常稷嗣君叔孫通)曰く、
人主無過舉今已作百姓皆知之今壞此
「人の主(あるじ)は企(くわだ)てに過(あやま)ちはありません。今すでに作り、百姓は皆(みな)これを知っておりますがら、今これを壊(こわ)せば、
則示有過舉願陛下原廟渭北衣冠月出游之
すなわち企(くわだ)てに過(あやま)ちが有ったことを示(しめ)してしまいます。願わくは陛下には渭(川名)の北に廟(びょう)をおたずねください。衣冠(いかん)をつけて毎月ここにお出かけになれば、
益廣多宗廟大孝之本也
ますます宗廟を広く多くして、大いなる孝行(こうこう)の本(もと)であります」と。
上乃詔有司立原廟原廟起以複道故
上(漢孝恵帝劉盈)はそこで、役人に詔(みことのり)をして原廟(原は恐らく源で 廟のみなもと)を立てた。原廟(原は恐らく源で 廟のみなもと)が起こったのは複道故(ゆえ)を以ってしたのである。