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上還至洛陽

上還至洛陽上曰代居常山北趙乃從山南有之遠 上(劉邦)は還(かえ)り洛陽に至った。上(劉邦)曰く、「代は常山の北に居(お)り、趙はすなわち 山の南よりこれに有り、遠い」と。 乃立子恒為代王都中都代鴈門皆屬代 そこで子の劉恒を立てて代王と為し、中都を都とし、代、鴈門は皆(みな)代に属(ぞく)した。 高祖十二年冬樊噲軍卒追斬豨於靈丘 漢高祖十二年冬、漢樊噲軍はとうとう追いかけて陳豨を霊丘で斬った。...

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史記 田儋列伝 始め

田儋者狄人也故齊王田氏族也 田儋という者は狄人であり、前の斉王田氏の一族である。儋從弟田榮榮弟田皆豪宗彊能得人 田儋の年下のいとこの田栄、、田栄の弟の田横は皆(みな)豪傑(ごうけつ)で、宗族(そうぞく)は強く、人望(じんぼう)を得ることができた。 陳涉之初起王楚也使周市略定魏地 陳涉の楚に王となって立ち上がったばかりのときに、周市(魏の人)をつかわし魏の地を略取し平定させた。...

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田榮之走東阿章邯追圍之

田榮之走東阿章邯追圍之 斉将田栄の東阿に逃走するは、秦将章邯が追いかけてこれを包囲した。 項梁聞田榮之急乃引兵擊破章邯軍東阿下 楚将項梁は斉将田栄の急(さしせまり)を聞き、そこで、兵を引いて秦将章邯軍を東阿の下(もと)で撃(う)ち破(やぶ)った。 章邯走而西項梁因追之 秦将章邯は逃走して西へ進み、楚将項梁は因(よ)りてこれを追いかけた。 而田榮怒齊之立假乃引兵歸擊逐齊王假...

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項羽既存趙降章邯等西屠咸陽

項羽既存趙降章邯等西屠咸陽 楚上将項羽はすでに趙を存(ながら)えさせ、秦将章邯らを降(くだ)し、西に咸陽を陥落(かんらく)させ、 滅秦而立侯王也乃徙齊王田市更王膠東治即墨 秦を滅(ほろ)ぼして侯、王を立てた。そこで斉王田市を移(うつ)して改めて膠東で王にさせ、即墨で治(おさ)めさせた。 齊將田都從共救趙因入關 斉将田都は従って共(とも)に趙を救(すく)い、因(よ)りて関に入ったので、...

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項王聞之大怒乃北伐齊

項王聞之大怒乃北伐齊 項王(項羽)はこれを聞き、大いに怒り、そこで、斉を討(う)ちに北へ進んだ。 齊王田榮兵敗走平原平原人殺榮 斉王田栄の兵は敗(やぶ)れ、平原に逃走した。平原人は斉王田栄を殺した。 項王遂燒夷齊城郭所過者盡屠之 項王(項羽)は遂(つい)に、斉の城郭(じょうかく)を焼き払い、通過した所の者(城郭)はことごとく陥落(かんらく)させた。 齊人相聚畔之榮弟收齊散兵...

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後歲餘漢滅項籍

後歲餘漢滅項籍漢王立為皇帝以彭越為梁王 一年余り後、漢は西楚覇王項籍(項羽)を滅ぼし、漢王劉邦は立って皇帝(こうてい)と為り、建成侯魏相国彭越を以って梁王と為した。 田懼誅而與其徒屬五百餘人入海居島中 (先の斉王)田横は誅(ちゅう)を懼(おそ)れ、しこうして、その徒属(とぞく)五百余人とともに海に入り、島中に居住した。 高帝聞之以為田兄弟本定齊齊人賢者多附焉...

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既葬二客穿其冢旁孔皆自剄下從之

既葬二客穿其冢旁孔皆自剄下從之 既(すで)に葬(ほうむ)りおわり、二人の賓客はその墓塚の傍(かたわ)らに孔(あな)を穿(うが)ち、皆(みな)自ら首をかき斬って、これに従(したが)って下泉(かせん)した。 高帝聞之乃大驚大田之客皆賢 漢高帝劉邦はこれを聞き、すなわち、大田横の賓客は皆(みな)賢人だと大いに驚(おどろ)いた。 吾聞其餘尚五百人在海中使使召之...

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史記 樊酈滕灌列伝 始め

舞陽侯樊噲者沛人也 舞陽侯樊噲という者は沛の人である。 以屠狗為事與高祖俱隱 犬の屠殺(とさつ)を以って事(こと)と為し、漢高祖劉邦とともに隠(かく)れた。 初從高祖起豐攻下沛 漢高祖劉邦に従って豐に立ち上がったばかりのとき、沛を攻(せ)め下(くだ)した。 高祖為沛公以噲為舍人 漢高祖劉邦は沛公と為り、樊噲を以って舎人と為した。 從攻胡陵方與還守豐擊泗水監豐下破之...

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項羽在戲下欲攻沛公

項羽在戲下欲攻沛公 楚上将軍項羽は戲(地名)の下(しも)に在(あ)り、沛公劉邦を攻(せ)めることを欲した。 沛公從百餘騎因項伯面見項羽謝無有閉關事 沛公劉邦は百余騎を従(したが)え、項伯に因(よ)りて楚上将軍項羽に向かいあって見(まみ)え、 関を閉(と)じたことは無かった事を謝(しゃ)した。 項羽既饗軍士中酒亞父謀欲殺沛公...

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明日項羽入屠咸陽立沛公為漢王

明日項羽入屠咸陽立沛公為漢王 明くる日、楚上将軍魯公項羽は咸陽(秦の都)に入って陥落(かんらく)させた。沛公劉邦を立てて漢王と為した。 漢王賜噲爵為列侯號臨武侯 漢王劉邦は賢成君樊噲に爵を賜(たま)わり列侯と為し、臨武侯と号(ごう)した。 遷為郎中從入漢中 遷(うつ)って漢郎中と為り、漢中に入るに従(したが)った。 還定三秦別擊西丞白水北雍輕車騎於雍南破之...

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項籍既死漢王為帝

項籍既死漢王為帝以噲堅守戰有功益食八百戶 西楚覇王項籍(項羽)がすでに死に、漢王劉邦は皇帝と為り、漢将臨武侯樊噲が堅(かた)く守り、戦いに功績が有るを以って、食邑八百戸を益封した。 從高帝攻反燕王臧荼虜荼定燕地 漢高帝劉邦の、そむいた燕王臧荼を攻(せ)めるに従(したが)い、燕王臧荼を虜(とりこ)にして、燕の地を平定した。 楚王韓信反噲從至陳取信定楚...

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噲以呂后女弟呂須為婦生子伉

噲以呂后女弟呂須為婦生子伉故其比諸將最親 漢相国舞陽侯樊噲は呂后(劉邦の正妻)の妹の呂須を以って嫁(よめ)と為し、子の樊伉を生み、故(ゆえ)にその諸侯に比べて最も親しかった。 先黥布反時高祖嘗病甚惡見人 先(さき)の黥布(淮南王英布)が叛(そむ)いた時、漢高祖劉邦)はいつも病(やまい)が甚(はなは)だしく、人に見(まみ)えることをいやがり、 臥禁中詔戶者無得入群臣...

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其後盧綰反高帝使噲以相國擊燕

其後盧綰反高帝使噲以相國擊燕 その後、燕王盧綰が叛(そむ)き、漢高帝劉邦は舞陽侯樊噲をつかわし漢相国を以って燕を撃(う)たせた。 是時高帝病甚人有惡噲黨於呂氏 この時、漢高帝劉邦は病(やまい)が甚(はなは)だしく、人に漢相国舞陽侯樊噲が呂氏に於いて仲間となっているとそしる者が有(あ)り、 即上一日宮車晏駕則噲欲以兵盡誅滅戚氏趙王如意之屬...

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曲周侯酈商者高陽人

曲周侯酈商者高陽人 曲周侯酈商という者は高陽の人である。 陳勝起時商聚少年東西略人得數千 陳勝が立ち上がった時、酈商は東西に人を略取して少年を集め、数千人を得た。 沛公略地至陳留六月餘商以將卒四千人屬沛公於岐 沛公劉邦が地を略取して陳留に至り、六ヶ月余り、酈商は歩兵四千人を率(ひき)いるを以って岐に於いて沛公劉邦に属(ぞく)した。 從攻長社先登賜爵封信成君...

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以右丞相趙相國別與絳侯等定代鴈門

以右丞相趙相國別與絳侯等定代鴈門 (涿侯酈商は)漢右丞相趙相國を以って別(わか)れて漢太尉絳侯周勃らと代、鴈門を平定し、 得代丞相程縱守相郭同將軍已下至六百石十九人 代の丞相程縱、代守相郭同、代将軍以下(俸禄)六百石に至るまでの十九人をつかまえた。 還以將軍為太上皇衛一歲七月...

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於是叔孫通使徵魯諸生三十餘人

於是叔孫通使徵魯諸生三十餘人 ここに於いて漢博士稷嗣君叔孫通は魯の儒学者三十余人を取り立てさせた。 魯有兩生不肯行曰公所事者且十主 魯の二人の儒学者が有って(漢に)行くことをよしとせず、曰く、「公が仕(つか)えたところの者は、まさに十人の主(あるじ)で、 皆面諛以得親貴今天下初定死者未葬...

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大行設九賓臚傳於是皇帝輦出房

大行設九賓臚傳於是皇帝輦出房 大行(大鴻臚(官名))が九賓礼を設(しつら)え、伝言を伝えた。ここに於いて皇帝の手車(てぐるま)が部屋から出て、 百官執職傳警引諸侯王以下至吏六百石以次奉賀 百官がのぼり旗を執(と)ってさきばらいを伝え、諸侯王以下六百石の役人までを導(みちび)いて、順次を以って賀(が)を奉(たてまつ)らせた。 自諸侯王以下莫不振恐肅敬至禮畢...

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漢九年高帝徙叔孫通為太子太傅

漢九年高帝徙叔孫通為太子太傅 漢九年、漢高帝劉邦は漢太常稷嗣君叔孫通を移(うつ)して漢太子(劉盈)の太傅と為した。 漢十二年高祖欲以趙王如意易太子叔孫通諫上曰 漢十二年、漢高祖劉邦は趙王劉如意を以って太子にかえようと欲し、漢太子太傅稷嗣君叔孫通は上(漢高祖劉邦)を諌(いさ)めて曰く、 昔者晉獻公以驪姬之故廢太子 「むかし、晋献公(姫詭諸)が驪姬の故(ゆえ)を以って晋太子(姫申生)を廃(はい)し、...

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叔孫通曰太子天下本

叔孫通曰太子天下本 漢太子太傅稷嗣君叔孫通曰く、「太子は天下の本(もと)で、 本一搖天下振動柰何以天下為戲 本(もと)が一度揺(ゆ)れれば天下は振動(しんどう)し、どうして天下を以って戯(たわむ)れを為すのですか」と。 高帝曰吾聽公言 漢高帝劉邦曰く、「吾(われ)は公の言(げん)を聴(き)きいれよう」と。 及上置酒見留侯所招客從太子入見...

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孝惠帝為東朝長樂宮及往數蹕煩人

孝惠帝為東朝長樂宮及往數蹕煩人 漢孝恵帝劉盈は長楽宮に東朝(東は主人がわ)し、ひそかに往(ゆ)くに及(およ)んで、たびたびさきばらいして人を煩(わずら)わせ、 乃作複道方筑武庫南 そこで、複道(ふくどう)を作り、まさに武庫の南に築(きず)いた。 叔孫生奏事因請曰 叔孫先生(漢太常稷嗣君叔孫通)が、事(こと)を奏上したとき、因(よ)りてころおいを請(こ)うて曰く、 陛下何自筑複道高寢衣冠月出游高廟...

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