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其後盧綰反高帝使噲以相國擊燕

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其後盧綰反高帝使噲以相國擊燕

その後、燕王盧綰が叛(そむ)き、漢高帝劉邦は舞陽侯樊噲をつかわし漢相国を以って燕を撃(う)たせた。

是時高帝病甚人有惡噲黨於呂氏

この時、漢高帝劉邦は病(やまい)が甚(はなは)だしく、人に漢相国舞陽侯樊噲が呂氏に於いて仲間となっているとそしる者が有(あ)り、

即上一日宮車晏駕則噲欲以兵盡誅滅戚氏趙王如意之屬

すなわち、上(劉邦)がある日崩御(ほうぎょ)すれば、漢相国舞陽侯樊噲は兵を以ってことごとく戚氏(劉邦の側室戚夫人の一族)、趙王劉如意(戚夫人の子)の属を誅(ちゅう)し滅ぼすことを欲するでしょう、と。

高帝聞之大怒乃使陳平載絳侯代將而即軍中斬噲

漢高帝劉邦はこれを聞いて大いに怒り、そこで曲逆侯陳平をつかわし漢太尉絳侯周勃を載(の)せて将軍に代(か)えて、すぐに軍中で漢相国舞陽侯樊噲を斬らせようとした。

陳平畏呂后執噲詣長安

曲逆侯陳平は漢呂后(劉邦の正妻)を畏(おそ)れ、漢相国舞陽侯樊噲を召し執(と)って長安に詣(もう)でさせた。

至則高祖已崩呂后釋噲使復爵邑

至ると、すなわち漢高祖劉邦はすでに崩御(ほうぎょ)し、漢呂后(劉邦の正妻)は漢相国舞陽侯樊噲を釈放(しゃくほう)し、爵位食邑を復(ふく)させた。

孝惠六年樊噲卒謚為武侯

漢孝恵帝劉盈六年、漢相国舞陽侯樊噲が亡くなり、おくり名は武侯と為した。

子伉代侯而伉母呂須亦為臨光侯

子の樊伉が侯(舞陽侯)に代(か)わった。しこうして、樊伉の母の呂須もまた臨光侯と為り、

高后時用事專權大臣盡畏之

漢高后(呂后)時に、事に用(もち)いられて権力を専(もっぱ)らにし、大臣たちはことごとくみなこれを畏(おそ)れた。

伉代侯九歲高后崩

樊伉が侯(舞陽侯)に代(か)わって九年、漢高后(呂后)が崩(ほう)じた。

大臣誅諸呂呂須婘屬因誅伉

大臣たちは諸(もろもろ)の呂氏を誅(ちゅう)し、臨光侯呂須は親属で、因(よ)りて舞陽侯樊伉を誅(ちゅう)した。

舞陽侯中絕數月孝文帝既立

舞陽侯は途中数ヶ月(後継を)絶(た)やした。漢孝文帝劉恒が既(すで)に立ち、

乃復封噲他庶子市人為舞陽侯復故爵邑

そこで、ふたたび舞陽武侯樊噲の他(ほか)の庶子の樊市人に封じて舞陽侯と為し、もとの爵位食邑を復(ふく)させた。

市人立二十九歲卒謚為荒侯子他廣代侯

舞陽侯樊市人が立って二十九年で亡くなり、おくり名は荒侯と為した。子の樊他広が侯に代(か)わった。

六歲侯家舍人得罪他廣怨之乃上書曰

六年して、舞陽侯樊他広の舎人(しゃじん)が他広に罪(つみ)を得て、これを怨(うら)み、そこで上書して曰く、

荒侯市人病不能為人令其夫人與其弟亂而生他廣

「舞陽荒侯樊市人は病(やまい)で人に為すことができず、その夫人とその弟に令(れい)して乱れさせて舞陽侯樊他広を生ませたのであり、

他廣實非荒侯子不當代後

舞陽侯樊他広は実(じつ)は舞陽荒侯樊市人の子ではなく、後継ぎに代(か)えるには当たりません」と。

詔下吏孝景中六年他廣奪侯為庶人國除

詔(みことのり)は役人に下(くだ)された。漢孝景帝劉啓中(ちゅう)の六年、 舞陽侯樊他広は侯を奪(うばわ)れ、庶人と為り、国(舞陽)は除(のぞ)かれた。

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