孝惠帝曾春出游離宮叔孫生曰
孝惠帝曾春出游離宮叔孫生曰 漢孝恵帝劉盈は以前春に離宮に遊びに出かけ、叔孫先生(漢太常稷嗣君叔孫通)曰く、 古者有春嘗果方今櫻桃孰 「古(いにしえ)では春に果物をまつることをしました。まさに今、桜桃(さくらんぼ)が熟(じゅく)しており、 可獻願陛下出因取櫻桃獻宗廟 献(けん)ずるべきで、願わくは陛下が出かけたとき、因(よ)りて桜桃を取って宗廟(そうびょう)に献(けん)じてください」と。...
View Article太史公曰語曰千金之裘非一狐之腋也
太史公曰語曰千金之裘非一狐之腋也 太史公曰く、「語りて曰く、千金の毛皮の衣服は、たった一匹の狐(きつね)の腋(わき)の下の毛皮だけでは非(あら)ざるなり、 臺榭之榱非一木之枝也 高殿(たかどの)の垂木(たるき)は、たった一本の木の枝(えだ)だけでは非(あら)ざるなり、 三代之際非一士之智也 三代(夏、殷、周)の際(きわ)には、たった一人の士の智恵(ちえ)だけでは非(あら)ざるなり、とは、...
View Article史記 季布欒布列伝 始め
季布者楚人也為氣任俠有名於楚 季布という者は、楚の人である。気概(きがい)を為(な)して男気(おとこぎ)で、楚に於いて聞こえが有(あ)った。 項籍使將兵數窘漢王及項羽滅 項籍(項羽)は兵を率(ひき)いさせて、たびたび漢王劉邦をゆきづまらせた。項羽が滅(ほろ)ぶに及(およ)んで、 高祖購求布千金敢有舍匿罪及三族...
View Article當是時諸公皆多季布能摧剛為柔
當是時諸公皆多季布能摧剛為柔 当時、諸公は皆(みな)季布が剛をおさえて柔に為ったことを多(た)とした。 朱家亦以此名聞當世季布召見謝上拜為郎中 朱家もまたこれを以って当世に名が聞(き)こえた。季布が召(め)されて見(まみ)え、謝(しゃ)し、上(漢高帝劉邦)は官をさずけて郎中と為した。 孝惠時為中郎將單于嘗為書嫚呂后...
View Article季布為河東守孝文時人有言其賢者
季布為河東守孝文時人有言其賢者 漢中郎将季布は河東守と為った。漢孝文帝劉恒の時、人のその賢(かしこ)さを言う者が有り、 孝文召欲以為御史大夫 漢孝文帝劉恒は召(め)し寄せて漢御史大夫と為すを以ってしようと欲した。 復有言其勇使酒難近 またその勇(いさ)ましさを言う者が有り、酒をして近づけ難(がた)くなる、と。 至留邸一月見罷季布因進曰...
View Article楚人曹丘生辯士數招權顧金錢
楚人曹丘生辯士數招權顧金錢 楚人の曹丘先生は弁士(べんし)で、たびたび金銭を顧(かえり)みて権勢(けんせい)に招(まね)かれた。 事貴人趙同等與竇長君善 貴人の趙同らに仕(つか)え、竇長君と仲が善(よ)かった。 季布聞之寄書諫竇長君曰 河東守季布はこれを聞き、書状を寄(よ)せて竇長君を諌(いさ)めて曰く、 吾聞曹丘生非長者勿與通...
View Article季布弟季心氣蓋關中遇人恭謹
季布弟季心氣蓋關中遇人恭謹 季布の弟の季心は、人気は関中を蓋(おお)い、人にもてなすは恭(うやうや)しく謹(つつし)み、 為任俠方數千里士皆爭為之死 男気を為し、四方数千里、士は皆(みな)争って命がけでこの為(ため)にした。 嘗殺人亡之吳從袁絲匿 嘗(かつ)て人を殺し、逃げて呉に行き、袁絲に従(したが)って匿(かくま)われた。 長事袁絲弟畜灌夫籍福之屬...
View Article欒布者梁人也
欒布者梁人也始梁王彭越為家人時嘗與布游 欒布という者は、梁(魏)の人である。以前、梁王彭越が使用人(或いは一般人民)だった時、嘗(かつ)て欒布とともに巡(めぐ)り歩いた。 窮困賃傭於齊為酒人保數歲 困窮して、斉に於いて賃金で雇(やと)われて、酒人保(役名)と為った。数年して、 彭越去之巨野中為盜而布為人所略賣為奴於燕...
View Article使於齊未還漢召彭越責以謀反夷三族
使於齊未還漢召彭越責以謀反夷三族 (梁大夫欒布が)斉に於いて使(つか)いし、未(ま)だ還(かえ)らないうちに、漢が梁王彭越を召(め)しよせ、責(せ)めとがめるに謀反(むほん)を以ってし、三族を滅(ほろ)ぼした。 已而梟彭越頭於雒陽下詔曰 しばらくして、梁王彭越の頭を雒陽の下(もと)に於いてさらし首にし、詔(みことのり)して曰く、 有敢收視者輒捕之...
View Article史記 袁盎鼂錯列伝 始め
袁盎者楚人也字絲 袁盎という者は、楚の人である。字(あざな)は絲。 父故為群盜徙處安陵 父は以前、群盗(ぐんとう)と為り、処(ところ)を安陵に移(うつ)した。 高后時盎嘗為呂祿舍人 漢高后呂雉の時、袁盎は嘗(かつ)て呂禄の舎人に為った。 及孝文帝即位盎兄噲任盎為中郎 漢孝文帝劉恒が即位するに及んで、袁盎の兄の袁噲が袁盎に任子(にんし)して中郎と為った。 絳侯為丞相朝罷趨出意得甚...
View Article淮南王至雍病死聞上輟食哭甚哀
淮南王至雍病死聞上輟食哭甚哀 淮南王劉長が雍に至り、病死したのが耳に入ると、上(漢孝文帝劉恒)は食事を軽(かろ)んじ、慟哭(どうこく)して甚(はなは)だ哀(かな)しんだ。盎入頓首請罪上曰以不用公言至此 漢中郎将袁盎が入り、頓首(とんしゅ)して罪(つみ)を請(こ)うた。上(漢孝文帝劉恒)曰く、「公の言(げん)を用いなかったのを以ってここに至ったのだ」と。盎曰上自此往事豈可悔哉...
View Article上幸上林皇后慎夫人從
上幸上林皇后慎夫人從 上(漢孝文帝劉恒)が、上林に行き、皇后、慎夫人が従(したが)った。 其在禁中常同席坐 その禁中に在(あ)るは、常(つね)に席を同じくして坐(すわ)った。 及坐郎署長布席袁盎引卻慎夫人坐 坐(すわ)るに及(およ)んで、郎署長が席を布(し)き、漢中郎将袁盎が慎夫人の座席を後(うし)ろに引いた。 慎夫人怒不肯坐上亦怒起入禁中...
View Article且陛下從代來每朝郎官上書疏
且陛下從代來每朝郎官上書疏 且(か)つ陛下が代より来て、朝するごとに、郎官が上奏文を申し上げて、 未嘗不止輦受其言言不可用置之 未(いま)だ嘗(かつ)てその言を受けて手車を止めたことはなく、言はこれを用い置くに不可(ふか)で、 言可受採之未嘗不稱善 言がこれを採用して受けられても、未(いま)だ嘗て善(よ)いと称(たた)えられたことがありません。 何也則欲以致天下賢士大夫...
View Article丞相乃再拜
丞相乃再拜曰嘉鄙野人乃不知將軍幸教 漢丞相申屠嘉はそこで再拝(さいはい)して曰く、「わたしはいなか者で、すなわち知りませんでしたが、将軍が幸いにも教えてくださいました」と。 引入與坐為上客 引き入れてともに座(ざ)し、上客と為した。盎素不好鼂錯鼂錯所居坐盎去 呉相袁盎は素(もと)より鼂錯を好(この)まず、鼂錯が座(ざ)に居(お)るところ、袁盎は去り、盎坐錯亦去兩人未嘗同堂語...
View Article鼂錯在前及盎請辟人賜
鼂錯在前及盎請辟人賜 漢御史大夫鼂錯が前におり、袁盎が人払いして間(ま)を賜(たま)わることを請(こ)うに及んで、 錯去固恨甚 漢御史大夫鼂錯は去(さ)り、固(かた)く恨(うら)むこと甚(はなは)だしかった。 袁盎具言吳所以反狀以錯故 袁盎は呉が叛(そむ)く状況になった理由は漢御史大夫鼂錯故(ゆえ)を以ってしたからで、 獨急斬錯以謝吳吳兵乃可罷...
View Article盎弗信曰公何為者
盎弗信曰公何為者 袁盎は信じなかった、曰く、「公は何を為す者か?」と。 司馬曰臣故為從史盜君侍兒者 司馬曰く、「わたしは以前従史と為って、君の侍児を盗んだ者です」と。盎乃驚謝曰公幸有親吾不足以累公 袁盎はすなわち驚いて謝して曰く、「公には幸いにも親が有り、吾(われ)は公をわずらわすを以ってするには足(た)りません」と。 司馬曰君弟去臣亦且亡辟吾親君何患...
View Article吳楚已破上更以元王子平陸侯禮為楚王
吳楚已破上更以元王子平陸侯禮為楚王袁盎為楚相 呉、楚がすでに破れ、上(漢孝景帝劉啓)は(楚の)元王子の平陸侯劉礼を以って楚王と為し、漢太常袁盎を以って楚相と為した。 嘗上書有所言不用 嘗(かつ)て言う所有って上書し、用(もち)いられなかった。 袁盎病免居家與閭里浮沈相隨行鬬雞走狗...
View Article袁盎雖家居景帝時時使人問籌策
袁盎雖家居景帝時時使人問籌策 袁盎は家に居(お)ると雖(いえど)も、漢孝景帝劉啓は時々、人をつかわして策謀(さくぼう)を問(と)わせた。 梁王欲求為嗣袁盎進說其後語塞 梁王劉武は後継ぎと為ることを求めようと欲したが、袁盎が進み出て説(と)き、その後継の話しは閉ざされた。 梁王以此怨盎曾使人刺盎 梁王劉武はこれを以って袁盎を怨(むら)み、そこで人をつかわし袁盎を刺そうとした。...
View Article數上書孝文時言削諸侯事及法令可更定者
數上書孝文時言削諸侯事及法令可更定者 たびたび漢孝文帝劉恒時に上書して、諸侯を削(けず)る事、及び法令の改(あらた)めて定めるべきものを言い、 書數十上孝文不聽然奇其材遷為中大夫 数十(すうじゅう)回書いてたてまつったが、漢孝文帝劉恒は聴き入れなかった。然(しか)るにその才能を奇として、遷(うつ)して漢中大夫と為した。 當是時太子善錯計策袁盎諸大功臣多不好錯...
View Article遷為御史大夫
遷為御史大夫請諸侯之罪過削其地收其枝郡 遷(うつ)して漢御史大夫と為し、諸侯の罪過(ざいか)は、その地を削(けず)って、その支郡を収(おさ)めることを請(こ)うた。 奏上上令公卿列侯宗室集議 奏上し、上(漢孝景帝劉啓)は公卿、列侯、宗室に令(れい)して集まり議させたが、 莫敢難獨竇嬰爭之由此與錯有卻...
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