袁盎雖家居景帝時時使人問籌策
袁盎は家に居(お)ると雖(いえど)も、漢孝景帝劉啓は時々、人をつかわして策謀(さくぼう)を問(と)わせた。
梁王欲求為嗣袁盎進說其後語塞
梁王劉武は後継ぎと為ることを求めようと欲したが、袁盎が進み出て説(と)き、その後継の話しは閉ざされた。
梁王以此怨盎曾使人刺盎
梁王劉武はこれを以って袁盎を怨(むら)み、そこで人をつかわし袁盎を刺そうとした。
刺者至關中問袁盎諸君譽之皆不容口
刺者が関中に至り、袁盎を問うと、諸君はこれを誉(ほ)め、皆(みな)議論を容(い)れなかった。
乃見袁盎曰臣受梁王金來刺君君長者不忍刺君
そこで、袁盎に見(まみ)えて曰く、「わたしは梁王の金を受け取り君を刺しに来たが、君は長(た)けた者で、君を刺すには忍(しの)びない。
然後刺君者十餘曹備之
然(しか)るに君を刺す者十余人の仲間が後(おく)れてくるので、これに備(そな)えよ」と。
袁盎心不樂家又多怪乃之棓生所問占
袁盎の心は楽しまず、家もまた怪(あや)しいものが多く、そこれ、棓先生の所に行き、占(うらな)いを問(と)うた。
還梁刺客後曹輩果遮刺殺盎安陵郭門外
還(かえ)って、梁の刺客の後(あと)に仲間達が果(は)たして袁盎を安陵郭門の外で遮(さえぎ)り刺し殺した。
鼂錯者潁川人也學申商刑名於軹張恢先所
鼂錯という者は、潁川人である。申商(申不害・商鞅)刑名を軹の張恢先生の所に於いて学(まな)び、
與雒陽宋孟及劉禮同師以文學為太常掌故
雒陽の宋孟及び劉礼と師を同じくした。文学を以って漢太常掌故と為った。
錯為人陗直刻深孝文帝時天下無治尚書者
鼂錯の人と為りは厳正で非常に奥深かった。漢孝文帝劉恒の時、天下に尚書を治(おさ)める者が無く、
獨聞濟南伏生故秦博士治尚書年九十餘
ただ一人、済南の伏先生が以前秦の博士で、尚書を治(おさ)めていると聞き、年は九十余歳で、
老不可徵乃詔太常使人往受之
老(お)いて取り立てるには不可で、そこで、漢太常に詔(みことのり)して人をつかわしこれの教えを受けに往(い)かせようとした。
太常遣錯受尚書伏生所
漢太常は漢太常掌故鼂錯を遣(つか)わして、伏先生の所で尚書を受けさせた。
還因上便宜事以書稱說
還(かえ)ると、因(よ)りて、上(漢孝文帝劉恒)は事(こと)を便宜(べんぎ)するに、尚書を以って説(と)くを称(たた)えた。
詔以為太子舍人門大夫家令
詔(みことのり)して漢太子(劉啓)の舎人の門大夫、家令と為すを以ってした。
以其辯得幸太子太子家號曰智囊
その弁(べん)を以って漢太子(劉啓)の寵愛を得て、漢太子(劉啓)の家は号(ごう)して「智恵袋」といった。
袁盎は家に居(お)ると雖(いえど)も、漢孝景帝劉啓は時々、人をつかわして策謀(さくぼう)を問(と)わせた。
梁王欲求為嗣袁盎進說其後語塞
梁王劉武は後継ぎと為ることを求めようと欲したが、袁盎が進み出て説(と)き、その後継の話しは閉ざされた。
梁王以此怨盎曾使人刺盎
梁王劉武はこれを以って袁盎を怨(むら)み、そこで人をつかわし袁盎を刺そうとした。
刺者至關中問袁盎諸君譽之皆不容口
刺者が関中に至り、袁盎を問うと、諸君はこれを誉(ほ)め、皆(みな)議論を容(い)れなかった。
乃見袁盎曰臣受梁王金來刺君君長者不忍刺君
そこで、袁盎に見(まみ)えて曰く、「わたしは梁王の金を受け取り君を刺しに来たが、君は長(た)けた者で、君を刺すには忍(しの)びない。
然後刺君者十餘曹備之
然(しか)るに君を刺す者十余人の仲間が後(おく)れてくるので、これに備(そな)えよ」と。
袁盎心不樂家又多怪乃之棓生所問占
袁盎の心は楽しまず、家もまた怪(あや)しいものが多く、そこれ、棓先生の所に行き、占(うらな)いを問(と)うた。
還梁刺客後曹輩果遮刺殺盎安陵郭門外
還(かえ)って、梁の刺客の後(あと)に仲間達が果(は)たして袁盎を安陵郭門の外で遮(さえぎ)り刺し殺した。
鼂錯者潁川人也學申商刑名於軹張恢先所
鼂錯という者は、潁川人である。申商(申不害・商鞅)刑名を軹の張恢先生の所に於いて学(まな)び、
與雒陽宋孟及劉禮同師以文學為太常掌故
雒陽の宋孟及び劉礼と師を同じくした。文学を以って漢太常掌故と為った。
錯為人陗直刻深孝文帝時天下無治尚書者
鼂錯の人と為りは厳正で非常に奥深かった。漢孝文帝劉恒の時、天下に尚書を治(おさ)める者が無く、
獨聞濟南伏生故秦博士治尚書年九十餘
ただ一人、済南の伏先生が以前秦の博士で、尚書を治(おさ)めていると聞き、年は九十余歳で、
老不可徵乃詔太常使人往受之
老(お)いて取り立てるには不可で、そこで、漢太常に詔(みことのり)して人をつかわしこれの教えを受けに往(い)かせようとした。
太常遣錯受尚書伏生所
漢太常は漢太常掌故鼂錯を遣(つか)わして、伏先生の所で尚書を受けさせた。
還因上便宜事以書稱說
還(かえ)ると、因(よ)りて、上(漢孝文帝劉恒)は事(こと)を便宜(べんぎ)するに、尚書を以って説(と)くを称(たた)えた。
詔以為太子舍人門大夫家令
詔(みことのり)して漢太子(劉啓)の舎人の門大夫、家令と為すを以ってした。
以其辯得幸太子太子家號曰智囊
その弁(べん)を以って漢太子(劉啓)の寵愛を得て、漢太子(劉啓)の家は号(ごう)して「智恵袋」といった。