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錯父聞之從潁川來謂錯曰

錯父聞之從潁川來謂錯曰 漢御史大夫鼂錯の父がこれを聞いて、潁川より来て、漢御史大夫鼂錯に謂(い)った、曰く、 上初即位公為政用事侵削諸侯 「上(漢孝景帝劉啓)は即位したばかりで、公は政治を為して思うままにふるい、諸侯を削(けず)って侵(おか)し、 別疏人骨肉人口議多怨公者何也...

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且臣恐天下之士噤口不敢復言也

且臣恐天下之士噤口不敢復言也 まさにわたしは、天下の士が口をつぐみ、敢(あ)えて言(げん)を繰り返さないことを恐(おそ)れるのであります」と。 上曰何哉公曰 上(漢孝景帝劉啓)曰く、「どうしてかな?」と。公曰く、 夫鼂錯患諸侯彊大不可制 「それ、鼂錯は諸侯が強大になって制することができなくなることを患(うれ)え、 故請削地以尊京師萬世之利也...

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太史公曰袁盎雖不好學亦善傅會

太史公曰袁盎雖不好學亦善傅會 太史公曰く、「袁盎は学問を好まなかったと雖(いえど)も、傅会(こじつけ)が上手く、 仁心為質引義慨 情け深い心を性格とし、義(ぎ)を引いてはなげきうれえていた。 遭孝文初立資適逢世 漢孝文帝劉恒が立ったばかりの時に遭(あ)って、資質が世(よ)に適合(てきごう)した。 時以變易及吳楚一說說雖行哉...

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史記 張釈之馮唐列伝 始め

張廷尉釋之者堵陽人也 張廷尉釈之という者は堵陽の人であり、 字季有兄仲同居 字(あざな)は李(末弟の意)。兄の仲(真中の兄の意)が有り、住まいを同じくした。 以訾為騎郎事孝文帝十歲不得調無所知名 財産(訾=貲?)を以って騎郎と為り、漢孝文帝劉恒に仕(つか)えたが、十年しても移(うつ)ることを得られず、名を知られるところは無かった。 釋之曰久宦減仲之產不遂...

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釋之從行登虎圈

釋之從行登虎圈 漢謁者僕射張釈之は行幸(ぎょうこう)に従(したが)って、虎圈に登(のぼ)った。 上問上林尉諸禽獸簿十餘問尉左右視盡不能對 上(漢孝文帝劉恒)は上林尉に諸(もろもろ)の禽獣(鳥やけもの)の帳簿を問(と)うた。十あまりが問(と)われたが、上林尉、左右は視(み)て、ことごとく応(こた)えることができなかった。 虎圈嗇夫從旁代尉對上所問禽獸簿甚悉...

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且下之化上疾於景響舉錯不可不審也

且下之化上疾於景響舉錯不可不審也 まさに下(した)の上(うえ)に変化を与えるは、影(かげ)、響(ひび)きより早いのでありますから、挙(あ)げ置くはよく調べるべきです」と。 文帝曰善乃止不拜嗇夫 漢孝文帝劉恒曰く、「よろしい」と。そこで止(や)めて嗇夫に官をさずけなかった。 上就車召釋之參乘徐行問釋之秦之敝...

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頃之至中郎將從行至霸陵居北臨廁

頃之至中郎將從行至霸陵居北臨廁 しばらくして、(漢中大夫張釈之は)漢中郎将に至った。巡行に従(したが)い、霸陵に至り、北に(道の?)いりまじるさまを臨(のぞ)んで居(きょ)した。 是時慎夫人從上指示慎夫人新豐道曰 この時、慎夫人が従(したが)っており、上(漢孝文帝劉恒)は慎夫人に新豐道を指(さ)し示して曰く、 此走邯鄲道也使慎夫人鼓瑟...

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頃之上行出中渭橋有一人從橋下走出乘輿馬驚

頃之上行出中渭橋有一人從橋下走出乘輿馬驚 しばらくして、上(漢孝文帝劉恒)は行き中渭橋に出た。一人橋の下から走り出てきた者が有り、天子の乗る馬車の馬が驚(おどろ)いた。 於是使騎捕屬之廷尉釋之治問 ここに於いて騎兵をつかわして捕(と)らえさせ、これを漢廷尉張釈之に任(まか)せた。漢廷尉張釈之は問い調べ、 曰縣人來聞蹕匿橋下 曰く、「田舎人が来て、さきばらいを聞き、橋の下にかくれました。...

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其後有人盜高廟坐前玉環

其後有人盜高廟坐前玉環捕得文帝怒下廷尉治 その後、人の高廟(漢高祖劉邦の廟)の座前の玉環を盗んだ者が有り、捕(と)らえてつかまえた。漢孝文帝劉恒は怒り、漢廷尉張釈之に下(くだ)して取調べさせた。 釋之案律盜宗廟服御物者為奏奏當棄市 漢廷尉張釈之は宗廟の服御物を盗んだ者を法令に調べ、奏上を為し、棄市罪に当たると奏上した。 上大怒曰人之無道乃盜先帝廟器...

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張廷尉事景帝歲餘

張廷尉事景帝歲餘為淮南王相猶尚以前過也 張廷尉(漢廷尉張釈之)が漢孝景帝劉啓に仕(つか)えて一年余りして、淮南王劉安の宰相に為ったのは、やはりなお前の過(あやま)ちを以ってしたのである。 久之釋之卒其子曰張摯 しばらくして淮南相張釈之が亡くなった。その子は張摯といい、 字長公官至大夫免 字(あざな)は長公、官は大夫に至ったが、免(めん)ぜられた。 以不能取容當世故終身不仕...

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當是之時匈奴新大入朝那殺北地都尉卬

當是之時匈奴新大入朝那殺北地都尉卬 ちょうどこの時、匈奴が新(あら)たに朝那に大挙(たいきょ)して入(はい)り、北地都尉卬を殺した。 上以胡寇為意乃卒復問唐曰 上(漢孝文帝劉恒)は胡寇(匈奴の外敵)を以って思いを為(な)し、そこでとうとうまた漢中郎署長馮唐に問うた、曰く、 公何以知吾不能用廉頗李牧也 「公は何ものを以って吾(われ)が廉頗、李牧を用いることができないとさとったのか?」と。...

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夫士卒盡家人子起田中從軍安知尺籍伍符

夫士卒盡家人子起田中從軍安知尺籍伍符 それ、士卒はことごとくみな一般庶民の子で田の中に立ち上がって従軍(じゅうぐん)し、どうして尺籍伍符を知るでしょうか。 終日力戰斬首捕虜上功莫府 終日(しゅうじつ)力戦(りきせん)し、首を斬り虜(とりこ)を捕(と)らえ、幕府に手柄(てがら)を申し上げ、 一言不相應文吏以法繩之...

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史記 万石張叔列伝 始め

萬石君名奮其父趙人也姓石氏 万石君は名は奮、その父は趙の人で、姓名は石氏。 趙亡徙居溫高祖東擊項籍 趙が亡(ほろ)び、居(きょ)を温に移(うつ)した。漢高祖劉邦が項籍(項羽)を撃(う)ちに東に進み、 過河內時奮年十五為小吏侍高祖 河内に立ち寄った。ときに石奮は年十五歳、小吏と為って、漢高祖劉邦に侍(はべ)った。 高祖與語愛其恭敬問曰若何有...

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建元二年郎中令王臧以文學獲罪

建元二年郎中令王臧以文學獲罪 建元二年、漢郎中令王臧が文学を以って罪を獲(え)た。 皇太后以為儒者文多質少今萬石君家不言而躬行 皇太后(太皇太后竇氏)は儒者はうわべをかざることが多く、質正さが少なく、今、万石君(石奮)家は 言わずして自分みずから行うと思い、 乃以長子建為郎中令少子慶為內史 そこで、長男の石建を以って漢郎中令と為し、末子の石慶を漢内史と為した。 建老白首萬石君尚無恙建為郎中令...

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元狩元年上立太子選群臣可為傅者

元狩元年上立太子選群臣可為傅者 元狩元年、上(漢孝武帝劉徹)は太子を立て、群臣の傅(教育係)と為るべき者を選(えら)び、 慶自沛守為太子太傅七歲遷為御史大夫 石慶は沛守より漢太子太傅に為った。七年して遷(うつ)して漢御史大夫と為した。 元鼎五年秋丞相有罪罷 元鼎五年秋、漢丞相が罪を有(ゆう)し、罷免(ひめん)された。 制詔御史萬石君先帝尊之子孫孝...

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慶文深審謹然無他大略為百姓言

慶文深審謹然無他大略為百姓言 漢丞相牧丘侯石慶は礼儀は深く、審議(しんぎ)は謹(つつし)しんだが、然(しか)るに二心なく、大略(あらまし)して、百姓の為(ため)に言上した。 後三歲餘太初二年中丞相慶卒謚為恬侯 三年余り後、太初二年中、漢丞相牧丘侯石慶が亡くなり、おくり名は牧丘恬侯と為した。 慶中子慶愛用之上以為嗣代侯...

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其明年上廢太子誅栗卿之屬

其明年上廢太子誅栗卿之屬 その明くる年、上(漢孝景帝劉啓)は漢太子劉栄を廃(はい)して、栗卿の仲間を誅(ちゅう)した。 上以為綰長者不忍乃賜綰告歸 上(漢孝景帝劉啓)は漢中尉建陵侯衛綰は長者(ちょうじゃ)で忍(しの)ばれないと思い、そこで、漢中尉建陵侯衛綰に告帰(官吏が吉事のために休暇を願い出て故郷に帰る)を賜(たま)わり、 而使郅都治捕栗氏既已...

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文帝稱舉稍遷至太中大夫

文帝稱舉稍遷至太中大夫 漢孝文帝劉恒は称(たた)え挙(あ)げて、だんだんと遷(うつ)して漢太中大夫に至らせた。 朝廷見人或毀曰不疑狀貌甚美 朝して廷見するとき、人の或(あ)る者がそしって曰く、「不疑の容貌(ようぼう)は甚(はなは)だ美しく、 然獨無柰其善盜嫂何也 然(しか)るにただその善(よ)く嫂(あによめ)を盗(ぬす)むのはどうすることもできない」と。 不疑聞曰我乃無兄然終不自明也...

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御史大夫張叔者名歐

御史大夫張叔者名歐安丘侯說之庶子也 御史大夫張叔という者は名は欧、安丘侯張説の庶子(妾腹の子)である。 孝文時以治刑名言事太子然歐雖治刑名家其人長者 漢孝文帝劉恒時、刑名(けいめい)を治(おさ)めるを以って言上し漢太子劉啓に仕(つか)えた。然(しか)るに張欧は刑名家と雖(いえど)も、その人は長者であった。 景帝時尊重常為九卿 漢孝景帝劉啓時、尊重(そんちょう)されて、常(つね)に九卿と為った。...

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史記 田叔列伝 始め

田叔者趙陘城人也 田叔という者は、趙の陘城の人である。 其先齊田氏苗裔也叔喜劍學黃老術於樂巨公所 その先祖は斉の田氏の遠い子孫である。田叔は剣術を喜(よろこ)び、黄老の学術を楽巨公(楽臣公)の所で学んだ。 叔為人刻廉自喜喜游諸公 田叔の人と為(な)りは、非常に廉潔(れんけつ)で自(みずから)を喜び、諸公を巡遊(じゅんゆう)することを喜(よろこ)んだ。 趙人舉之趙相趙午午言之趙王張敖所趙王以為郎中...

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