慶文深審謹然無他大略為百姓言
漢丞相牧丘侯石慶は礼儀は深く、審議(しんぎ)は謹(つつし)しんだが、然(しか)るに二心なく、大略(あらまし)して、百姓の為(ため)に言上した。
後三歲餘太初二年中丞相慶卒謚為恬侯
三年余り後、太初二年中、漢丞相牧丘侯石慶が亡くなり、おくり名は牧丘恬侯と為した。
慶中子慶愛用之上以為嗣代侯
牧丘恬侯石慶の中(なか)の子の石徳は、石慶が愛(まな)でこれを用い、上(漢孝武帝劉徹)は石徳を以って後継ぎに為し、牧丘侯に代(か)えた。
後為太常坐法當死贖免為庶人
後に漢太常と為ったが、法(ほう)に罪を問われて死刑に当たり、購(あがな)い免ぜられて庶人に為った。
慶方為丞相諸子孫為吏更至二千石者十三人
牧丘恬侯石慶はまさに漢丞相と為って、諸(もろもろ)の子孫は役人に為って更(さら)に二千石に至る者は十三人になった。
及慶死後稍以罪去孝謹益衰矣
牧丘恬侯石慶の死後に及んで、だんだんと罪を以って去(さ)り、孝謹はますます衰(おとろ)えていった。
建陵侯衛綰者代大陵人也
建陵侯衛綰という者は代の大陵の人である。
綰以戲車為郎事文帝功次遷為中郎將醇謹無他
衛綰は戯車を以って郎(官名)と為り、漢孝文帝劉恒に仕(つか)え、功の順次で遷(うつ)されて中郎将と為ったが、もっぱら謹(つつし)んで二心は無かった。
孝景為太子時召上左右飲而綰稱病不行
漢孝景帝劉啓が漢太子と為っていた時、上(漢孝文帝劉恒)が左右を召(め)して飲んだ。しこうして、漢中郎将衛綰は病(やまい)を称して行かなかった。
文帝且崩時屬孝景曰
漢孝文帝劉恒がまさに崩(ほう)ずる時、漢孝景帝劉啓にたのんで曰く、
綰長者善遇之
「衛綰は長者(ちょうじゃ)であるから、これを善遇(ぜんぐう)せよ」と。
及文帝崩景帝立歲餘不噍呵綰綰日以謹力
漢孝文帝劉恒が崩(ほう)ずるに及んで、漢孝景帝劉啓が立ち、一年余り漢中郎将衛綰をきびしくしかることなく、漢中郎将衛綰は毎日、謹(つつし)みを以って務(つと)めた。
景帝幸上林詔中郎將參乘還而問曰
漢孝景帝劉啓が上林に行き、漢中郎将衛綰に詔(みことのり)して参乗(さんじょう)させ、還(かえ)ってから問うた、曰く、
君知所以得參乘乎綰曰
「君は参乗(さんじょう)を得(え)た理由を知っているか?」と。漢中郎将衛綰曰く、
臣從車士幸得以功次遷為中郎將不自知也
「わたしは車士より、幸いにも功の順次を以って中郎将に遷(うつ)されることを得(え)ましたが、(理由は)自(みずか)らわきまえておりません」と。
上問曰吾為太子時召君君不肯來何也
上(漢孝景帝劉啓)は問うて曰く、「吾(われ)が太子であった時、君を召(め)しよせたが、君は来ることをよしとしなかったのはどうしてなのか?」と。
對曰死罪實病上賜之劍
応(こた)えて曰く、「死罪であります。実(まこと)に病(やまい)でありました」と。上(漢孝景帝劉啓)はこれに剣を賜(たま)わろうとした。
綰曰先帝賜臣劍凡六劍不敢奉詔
漢中郎将衛綰曰く、「先帝がわたしに剣を凡(おそ)そ六振り賜(たま)わりましたので、剣は敢(あ)えて詔(みことのり)を奉(たてまつ)れません」と。
上曰劍人之所施易獨至今乎
上(漢孝景帝劉啓)曰く、「剣は、人の容易(ようい)に施(ほどこ)すところであるのに、ただ今に至(いた)るのか?」と。
綰曰具在上使取六劍劍尚盛未嘗服也
漢中郎将衛綰曰く、「そろって在(あ)ります」と。上(漢孝景帝劉啓)は六振りの剣を取らせると、剣は尚(なお)美しく、未(いま)だ嘗(かつ)て身に着(つ)けたことがなかったのである。
郎官有譴常蒙其罪不與他將爭
郎官にとがめが有ると、常(つね)にその罪をかばって、他の中郎将と争(あらそ)わず、
有功常讓他將
手柄(てがら)が有れば、常(つね)に他の中郎将に譲(ゆず)った。
上以為廉忠實無他腸乃拜綰為河王太傅
上(漢孝景帝劉啓)は行いが清らかで、忠実で、他心が無いと思った。そこで、漢中郎将衛綰に官をさずけて河間王の太傅と為した。
吳楚反詔綰為將將河兵擊吳楚有功拜為中尉
呉、楚が反乱し、河間王太傅衛綰に詔(みことのり)して河間将軍に為さしめた。河間兵を率(ひき)いて呉、楚を撃ち、手柄(てがら)が有り、官をさずけて中尉と為した。
三歲以軍功孝景前六年中封綰為建陵侯
三年して、軍功(ぐんこう)を以って、漢孝景帝前六年中に漢中尉衛綰に封じて建陵侯と為した。
漢丞相牧丘侯石慶は礼儀は深く、審議(しんぎ)は謹(つつし)しんだが、然(しか)るに二心なく、大略(あらまし)して、百姓の為(ため)に言上した。
後三歲餘太初二年中丞相慶卒謚為恬侯
三年余り後、太初二年中、漢丞相牧丘侯石慶が亡くなり、おくり名は牧丘恬侯と為した。
慶中子慶愛用之上以為嗣代侯
牧丘恬侯石慶の中(なか)の子の石徳は、石慶が愛(まな)でこれを用い、上(漢孝武帝劉徹)は石徳を以って後継ぎに為し、牧丘侯に代(か)えた。
後為太常坐法當死贖免為庶人
後に漢太常と為ったが、法(ほう)に罪を問われて死刑に当たり、購(あがな)い免ぜられて庶人に為った。
慶方為丞相諸子孫為吏更至二千石者十三人
牧丘恬侯石慶はまさに漢丞相と為って、諸(もろもろ)の子孫は役人に為って更(さら)に二千石に至る者は十三人になった。
及慶死後稍以罪去孝謹益衰矣
牧丘恬侯石慶の死後に及んで、だんだんと罪を以って去(さ)り、孝謹はますます衰(おとろ)えていった。
建陵侯衛綰者代大陵人也
建陵侯衛綰という者は代の大陵の人である。
綰以戲車為郎事文帝功次遷為中郎將醇謹無他
衛綰は戯車を以って郎(官名)と為り、漢孝文帝劉恒に仕(つか)え、功の順次で遷(うつ)されて中郎将と為ったが、もっぱら謹(つつし)んで二心は無かった。
孝景為太子時召上左右飲而綰稱病不行
漢孝景帝劉啓が漢太子と為っていた時、上(漢孝文帝劉恒)が左右を召(め)して飲んだ。しこうして、漢中郎将衛綰は病(やまい)を称して行かなかった。
文帝且崩時屬孝景曰
漢孝文帝劉恒がまさに崩(ほう)ずる時、漢孝景帝劉啓にたのんで曰く、
綰長者善遇之
「衛綰は長者(ちょうじゃ)であるから、これを善遇(ぜんぐう)せよ」と。
及文帝崩景帝立歲餘不噍呵綰綰日以謹力
漢孝文帝劉恒が崩(ほう)ずるに及んで、漢孝景帝劉啓が立ち、一年余り漢中郎将衛綰をきびしくしかることなく、漢中郎将衛綰は毎日、謹(つつし)みを以って務(つと)めた。
景帝幸上林詔中郎將參乘還而問曰
漢孝景帝劉啓が上林に行き、漢中郎将衛綰に詔(みことのり)して参乗(さんじょう)させ、還(かえ)ってから問うた、曰く、
君知所以得參乘乎綰曰
「君は参乗(さんじょう)を得(え)た理由を知っているか?」と。漢中郎将衛綰曰く、
臣從車士幸得以功次遷為中郎將不自知也
「わたしは車士より、幸いにも功の順次を以って中郎将に遷(うつ)されることを得(え)ましたが、(理由は)自(みずか)らわきまえておりません」と。
上問曰吾為太子時召君君不肯來何也
上(漢孝景帝劉啓)は問うて曰く、「吾(われ)が太子であった時、君を召(め)しよせたが、君は来ることをよしとしなかったのはどうしてなのか?」と。
對曰死罪實病上賜之劍
応(こた)えて曰く、「死罪であります。実(まこと)に病(やまい)でありました」と。上(漢孝景帝劉啓)はこれに剣を賜(たま)わろうとした。
綰曰先帝賜臣劍凡六劍不敢奉詔
漢中郎将衛綰曰く、「先帝がわたしに剣を凡(おそ)そ六振り賜(たま)わりましたので、剣は敢(あ)えて詔(みことのり)を奉(たてまつ)れません」と。
上曰劍人之所施易獨至今乎
上(漢孝景帝劉啓)曰く、「剣は、人の容易(ようい)に施(ほどこ)すところであるのに、ただ今に至(いた)るのか?」と。
綰曰具在上使取六劍劍尚盛未嘗服也
漢中郎将衛綰曰く、「そろって在(あ)ります」と。上(漢孝景帝劉啓)は六振りの剣を取らせると、剣は尚(なお)美しく、未(いま)だ嘗(かつ)て身に着(つ)けたことがなかったのである。
郎官有譴常蒙其罪不與他將爭
郎官にとがめが有ると、常(つね)にその罪をかばって、他の中郎将と争(あらそ)わず、
有功常讓他將
手柄(てがら)が有れば、常(つね)に他の中郎将に譲(ゆず)った。
上以為廉忠實無他腸乃拜綰為河王太傅
上(漢孝景帝劉啓)は行いが清らかで、忠実で、他心が無いと思った。そこで、漢中郎将衛綰に官をさずけて河間王の太傅と為した。
吳楚反詔綰為將將河兵擊吳楚有功拜為中尉
呉、楚が反乱し、河間王太傅衛綰に詔(みことのり)して河間将軍に為さしめた。河間兵を率(ひき)いて呉、楚を撃ち、手柄(てがら)が有り、官をさずけて中尉と為した。
三歲以軍功孝景前六年中封綰為建陵侯
三年して、軍功(ぐんこう)を以って、漢孝景帝前六年中に漢中尉衛綰に封じて建陵侯と為した。