御史大夫張叔者名歐安丘侯說之庶子也
御史大夫張叔という者は名は欧、安丘侯張説の庶子(妾腹の子)である。
孝文時以治刑名言事太子然歐雖治刑名家其人長者
漢孝文帝劉恒時、刑名(けいめい)を治(おさ)めるを以って言上し漢太子劉啓に仕(つか)えた。然(しか)るに張欧は刑名家と雖(いえど)も、その人は長者であった。
景帝時尊重常為九卿
漢孝景帝劉啓時、尊重(そんちょう)されて、常(つね)に九卿と為った。
至武帝元朔四年韓安國免詔拜歐為御史大夫
漢孝武帝劉徹元朔四年に至り、韓安国(人名)を免(めん)じて、詔(みことのり)して張欧に官をさずけて漢御史大夫(主として官吏の監督にあたった)と為した。
自歐為吏未嘗言案人專以誠長者處官
漢御史大夫張欧(張叔)が役人に為ってより、未(いま)だ嘗(かつ)て人を取り調べることを言上したことがなく、専(もっぱ)ら、誠(まこと)の長者を以ってして官を処断(しょだん)した。
官屬以為長者亦不敢大欺上具獄事
官の仲間は長者と為すを以って、また敢(あ)えて大いに欺(あざむ)かなかった。具(つぶさ)に獄事(ごくじ)を上(あ)げて、
有可卻卻之不可者不得已
退(しりぞ)けるべきが有れば、これを退(しりぞ)け、不可(ふか)な者はやむを得ず、
為涕泣面對而封之其愛人如此
涕(なみだ)を流して泣いて天子にお目にかかって応(こた)え、しこうしてこれを封事(ほうじ 上奏文の一種)した。その人を愛するはこの如(ごと)くであった。
老病甐請免於是天子亦策罷以上大夫祿歸老于家
老(お)いて病が重くなり、免職を請(こ)うた。ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)はまたやめさせることを策(さく)して、上大夫の俸禄(ほうろく)を以って帰(かえ)し家で老いをすごさせた。
家於陽陵子孫咸至大官矣
陽陵に於いて家を構(かま)えた。子、孫(まご)はあまねく大官に至った。
太史公曰仲尼有言曰君子欲訥於言而敏於行
太史公曰く、「仲尼(孔子)に言が有り曰く、君子(くんし)は言(げん)に於いて口下手で、行いに於いて敏速(びんそく)であることを欲する、と。
其萬石建陵張叔之謂邪
その万石君(石奮)、建陵侯衛綰、張叔(張欧)のことを謂(い)ったのだろうか。
是以其教不肅而成不嚴而治
ここにその教えを以って、つつしまずにして成(な)り、厳(きび)しくせずして治(おさ)まった。
塞侯微巧而周文處讇君子譏之
塞侯直不疑はそれとなくぬけめがなく、しこうして周文(周仁)はばかていねいに処(しょ)し、君子(くんし)はこれを非難(ひなん)した。
為其近於佞也然斯可謂篤行君子矣
そのおもねるに近いと思ったのである。然(しか)るにこれ、所謂(いわゆる)篤行(とっこう)の君子(くんし)である」と。
今日で史記 万石張叔列伝は終わりです。明日からは史記 田叔列伝に入ります。
御史大夫張叔という者は名は欧、安丘侯張説の庶子(妾腹の子)である。
孝文時以治刑名言事太子然歐雖治刑名家其人長者
漢孝文帝劉恒時、刑名(けいめい)を治(おさ)めるを以って言上し漢太子劉啓に仕(つか)えた。然(しか)るに張欧は刑名家と雖(いえど)も、その人は長者であった。
景帝時尊重常為九卿
漢孝景帝劉啓時、尊重(そんちょう)されて、常(つね)に九卿と為った。
至武帝元朔四年韓安國免詔拜歐為御史大夫
漢孝武帝劉徹元朔四年に至り、韓安国(人名)を免(めん)じて、詔(みことのり)して張欧に官をさずけて漢御史大夫(主として官吏の監督にあたった)と為した。
自歐為吏未嘗言案人專以誠長者處官
漢御史大夫張欧(張叔)が役人に為ってより、未(いま)だ嘗(かつ)て人を取り調べることを言上したことがなく、専(もっぱ)ら、誠(まこと)の長者を以ってして官を処断(しょだん)した。
官屬以為長者亦不敢大欺上具獄事
官の仲間は長者と為すを以って、また敢(あ)えて大いに欺(あざむ)かなかった。具(つぶさ)に獄事(ごくじ)を上(あ)げて、
有可卻卻之不可者不得已
退(しりぞ)けるべきが有れば、これを退(しりぞ)け、不可(ふか)な者はやむを得ず、
為涕泣面對而封之其愛人如此
涕(なみだ)を流して泣いて天子にお目にかかって応(こた)え、しこうしてこれを封事(ほうじ 上奏文の一種)した。その人を愛するはこの如(ごと)くであった。
老病甐請免於是天子亦策罷以上大夫祿歸老于家
老(お)いて病が重くなり、免職を請(こ)うた。ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)はまたやめさせることを策(さく)して、上大夫の俸禄(ほうろく)を以って帰(かえ)し家で老いをすごさせた。
家於陽陵子孫咸至大官矣
陽陵に於いて家を構(かま)えた。子、孫(まご)はあまねく大官に至った。
太史公曰仲尼有言曰君子欲訥於言而敏於行
太史公曰く、「仲尼(孔子)に言が有り曰く、君子(くんし)は言(げん)に於いて口下手で、行いに於いて敏速(びんそく)であることを欲する、と。
其萬石建陵張叔之謂邪
その万石君(石奮)、建陵侯衛綰、張叔(張欧)のことを謂(い)ったのだろうか。
是以其教不肅而成不嚴而治
ここにその教えを以って、つつしまずにして成(な)り、厳(きび)しくせずして治(おさ)まった。
塞侯微巧而周文處讇君子譏之
塞侯直不疑はそれとなくぬけめがなく、しこうして周文(周仁)はばかていねいに処(しょ)し、君子(くんし)はこれを非難(ひなん)した。
為其近於佞也然斯可謂篤行君子矣
そのおもねるに近いと思ったのである。然(しか)るにこれ、所謂(いわゆる)篤行(とっこう)の君子(くんし)である」と。
今日で史記 万石張叔列伝は終わりです。明日からは史記 田叔列伝に入ります。