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文帝稱舉稍遷至太中大夫

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文帝稱舉稍遷至太中大夫

漢孝文帝劉恒は称(たた)え挙(あ)げて、だんだんと遷(うつ)して漢太中大夫に至らせた。

朝廷見人或毀曰不疑狀貌甚美

朝して廷見するとき、人の或(あ)る者がそしって曰く、「不疑の容貌(ようぼう)は甚(はなは)だ美しく、

然獨無柰其善盜嫂何也

然(しか)るにただその善(よ)く嫂(あによめ)を盗(ぬす)むのはどうすることもできない」と。

不疑聞曰我乃無兄然終不自明也

漢太中大夫直不疑は聞いて曰く、「我(われ)にはすなわち兄はいない」と。然(しか)るに終いまで自分で明らかにしなかった。

吳楚反時不疑以二千石將兵擊之

呉、楚が反乱した時、漢太中大夫直不疑は二千石を以って兵を率(ひき)いてこれを撃(う)った。

景帝後元年拜為御史大夫

漢孝景帝後元年、官をさずけて漢御史大夫と為した。

天子修吳楚時功乃封不疑為塞侯

天子(漢孝景帝劉啓)は呉楚の乱の時の手柄(てがら)を修(おさ)めて、そこで、漢御史大夫直不疑に封じて、塞侯と為した。

武帝建元年中與丞相綰俱以過免

漢孝武帝建元年中、漢丞相建陵侯衛綰とともに過(あやま)ちを以って(御史大夫を)免(めん)ぜられた。

不疑學老子言

塞侯直不疑は老子の言(げん)を学(まな)んだ。

其所臨為官如故唯恐人知其為吏跡也

その官と為って臨(のぞ)むところは以前の如(ごと)く、唯(ただ)人(ひと)がその役人としての足跡を知ることを恐(おそ)れ、

不好立名稱稱為長者不疑卒子相如代

名を立(た)てて称(しょう)されることを好(この)まなかったが、称(しょう)されて長者とされた。塞侯直不疑が亡くなると、子の直相如が(侯に)代わった。

孫望坐酎金失侯

孫(まご)の塞侯直望は、酎金(朝廷における祭祀の際に拠出する金)に罪を問われて侯位を失(うしな)った。

郎中令周文者名仁其先故任城人也

郎中令周文という者は名は仁、その先祖は任城の人である。

以醫見景帝為太子時拜為舍人

医(い)を以って見(まみ)え、漢孝景帝劉啓が太子の時、官をさずけて(太子の)舎人と為した。

積功稍遷孝文帝時至太中大夫

手柄(てがら)を積(つ)んで次第に遷(うつ)り、漢孝文帝劉恒時には、漢太中大夫に至(いた)った。

景帝初即位拜仁為郎中令

漢孝景帝劉啓が即位(そくい)したばかりのとき、漢太中大夫周仁(周文)に官をさずけて漢郎中令と為した。

仁為人陰重不泄常衣敝補衣溺袴

漢郎中令周仁(周文)の人と為(な)りは奥深くて重厚で、(秘密とすべきは)漏(も)らさず、常(つね)に、ぼろぼろでつぎはぎの衣(ころも)、尿(にょう)のついた袴(はかま)を着て、

期為不清以是得幸

一年中、不潔(ふけつ)にしており、これを以って(帝の)お気に入りを得た。

景帝入臥內於後宮祕戲仁常在旁

漢孝景帝劉啓が後宮に於いて寝室の中に入って秘(ひ)めた戯(たわむ)れごとをするとき、漢郎中令周仁(周文)は常(つね)に傍(かたわ)らに在(あ)た。

至景帝崩仁尚為郎中令終無所言

漢孝景帝劉啓が崩ずるに至(いた)り、漢郎中令周仁(周文)は尚(なお)漢郎中令として、終(しま)いまで言うところは無かった。

上時問人仁曰上自察之

上(漢孝景帝劉啓)がときどき人を問(と)うと、漢郎中令周仁(周文)曰く、「上が自(みずか)らこれをお調べください」と。

然亦無所毀以此景帝再自幸其家

然(しか)るにまた謗(そし)るところが無かった。これを以って漢孝景帝劉啓は再(ふたた)びみずからその家をかわいがった。

家徙陽陵上所賜甚多然常讓不敢受也

家は陽陵に移(うつ)った。上(漢孝景帝劉啓)が賜(たま)わるところは甚(はなは)だ多かったが、然(しか)るに常(つね)に譲(ゆず)り、敢(あ)えてさずからなかったのである。

諸侯群臣賂遺終無所受

諸侯、群臣が賄賂(わいろ)を贈っても、終(しま)いまで受け取るところは無かった。

武帝立以為先帝臣重之

漢孝武帝劉徹が立ち、先帝の家臣と為っていたのを以ってこれを重(おも)んじた。

仁乃病免以二千石祿歸老

漢郎中令周仁(周文)はすなわち病(やまい)にかかって免(めん)ぜられ、二千石の俸禄(ほうろく)を以って帰り老(お)いをすごした。

子孫咸至大官矣

子、孫(まご)はあまねく大官に至(いた)った。

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