錯父聞之從潁川來謂錯曰
漢御史大夫鼂錯の父がこれを聞いて、潁川より来て、漢御史大夫鼂錯に謂(い)った、曰く、
上初即位公為政用事侵削諸侯
「上(漢孝景帝劉啓)は即位したばかりで、公は政治を為して思うままにふるい、諸侯を削(けず)って侵(おか)し、
別疏人骨肉人口議多怨公者何也
人の身内(みうち)をばらばらに別(わか)れさせ、人々は口々に議(ぎ)して公を怨(うら)む者が多いのは、どうしなのか?」と。
鼂錯曰固也不如此天子不尊宗廟不安
漢御史大夫鼂錯曰く、「いうまでもないことであります。この如(ごと)くしなければ、天子は尊(とうと)ばれず、宗廟(そうびょう)は安(やす)んじないのです」と。
錯父曰劉氏安矣而鼂氏危矣吾去公歸矣
漢御史大夫鼂錯の父曰く、「劉氏は安(やす)んじるだろうが、鼂氏は危(あや)うくなるだろう。吾(われ)は公から去(さ)って帰ろう」と。
遂飲藥死曰吾不忍見禍及吾身
遂(つい)に薬を飲んで死に、曰く、「吾(われ)は禍(わざわい)が吾(わ)が身に及ぶのを見るに忍(しの)びない」と。
死十餘日吳楚七國果反以誅錯為名
死んで十余日して、呉楚七国が果(は)たして叛(そむ)き、漢御史大夫鼂錯を誅(ちゅう)することを以って名目(めいもく)と為した。
及竇嬰袁盎進說上令鼂錯衣朝衣斬東市
魏其侯竇嬰、袁盎が進み出て説(と)くに及(およ)んで、上(漢孝景帝劉啓)は漢御史大夫鼂錯に朝衣を着せて東市で斬らせた。
鼂錯已死謁者仆射公為校尉擊吳楚軍為將
漢御史大夫鼂錯がすでに死に、謁者僕射の公が校尉と為り、呉楚軍を撃(う)ちに将軍に為った。
還上書言軍事謁見上上問曰
還(かえ)って、軍事を言うことを上書して、上(漢孝景帝劉啓)に謁見(えっけん)した。上(漢孝景帝劉啓)は問(と)うた、曰く、
道軍所來聞鼂錯死吳楚罷不
「軍の来たところを語(かた)って、鼂錯の死を聞かせ、呉、楚は止(や)めたか?止(や)めなかったか?」と。
公曰吳王為反數十年矣發怒削地
漢将公曰く、「呉王(劉濞)は謀反(むほん)を思って数十年であり、地を削(けず)られて怒(いか)りを発し、
以誅錯為名其意非在錯也
鼂錯を誅(ちゅう)することを以って名目(めいもく)に為しましたが、その意(い)は、鼂錯に在(あ)ったのでは非(あら)ざるなり。
漢御史大夫鼂錯の父がこれを聞いて、潁川より来て、漢御史大夫鼂錯に謂(い)った、曰く、
上初即位公為政用事侵削諸侯
「上(漢孝景帝劉啓)は即位したばかりで、公は政治を為して思うままにふるい、諸侯を削(けず)って侵(おか)し、
別疏人骨肉人口議多怨公者何也
人の身内(みうち)をばらばらに別(わか)れさせ、人々は口々に議(ぎ)して公を怨(うら)む者が多いのは、どうしなのか?」と。
鼂錯曰固也不如此天子不尊宗廟不安
漢御史大夫鼂錯曰く、「いうまでもないことであります。この如(ごと)くしなければ、天子は尊(とうと)ばれず、宗廟(そうびょう)は安(やす)んじないのです」と。
錯父曰劉氏安矣而鼂氏危矣吾去公歸矣
漢御史大夫鼂錯の父曰く、「劉氏は安(やす)んじるだろうが、鼂氏は危(あや)うくなるだろう。吾(われ)は公から去(さ)って帰ろう」と。
遂飲藥死曰吾不忍見禍及吾身
遂(つい)に薬を飲んで死に、曰く、「吾(われ)は禍(わざわい)が吾(わ)が身に及ぶのを見るに忍(しの)びない」と。
死十餘日吳楚七國果反以誅錯為名
死んで十余日して、呉楚七国が果(は)たして叛(そむ)き、漢御史大夫鼂錯を誅(ちゅう)することを以って名目(めいもく)と為した。
及竇嬰袁盎進說上令鼂錯衣朝衣斬東市
魏其侯竇嬰、袁盎が進み出て説(と)くに及(およ)んで、上(漢孝景帝劉啓)は漢御史大夫鼂錯に朝衣を着せて東市で斬らせた。
鼂錯已死謁者仆射公為校尉擊吳楚軍為將
漢御史大夫鼂錯がすでに死に、謁者僕射の公が校尉と為り、呉楚軍を撃(う)ちに将軍に為った。
還上書言軍事謁見上上問曰
還(かえ)って、軍事を言うことを上書して、上(漢孝景帝劉啓)に謁見(えっけん)した。上(漢孝景帝劉啓)は問(と)うた、曰く、
道軍所來聞鼂錯死吳楚罷不
「軍の来たところを語(かた)って、鼂錯の死を聞かせ、呉、楚は止(や)めたか?止(や)めなかったか?」と。
公曰吳王為反數十年矣發怒削地
漢将公曰く、「呉王(劉濞)は謀反(むほん)を思って数十年であり、地を削(けず)られて怒(いか)りを発し、
以誅錯為名其意非在錯也
鼂錯を誅(ちゅう)することを以って名目(めいもく)に為しましたが、その意(い)は、鼂錯に在(あ)ったのでは非(あら)ざるなり。